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【インテーク】100円と白い猫
白い猫がいる。普段見かけるノラ猫よりもふた回りほど体が大きい。
きっとオス猫に違いない。シュッとした顔で精悍な印象を受ける。
首輪はしていないが、ノラ猫っぽくは見えない。
そんな白猫がコンビニの自動扉の真ん前できれいに前足を揃えて座っている。レジに並ぶ私のことをアクアマリン色の目でじっと見つめている。
「……8円になります」
「え?」
あわてて聞き返す。自動扉の前に座る猫に気をとられていて、支払金額を聞き逃してしまっていた。レジの液晶画面に浮かぶ数字を追う。
「648円になります」
「あっ、はい」
手にしていた小銭入れのがまぐちを急いで開く。小銭を指で漁る。
「えっと……」
小銭をレジ台に並べる。
「あれ? うそ!」
548円はある。だけど、財布にはあと60円しかない。完全に足りない。
カバンの中を探る。手帳や化粧ポーチは入っているけれど、長財布が入っていない。クレジットカードもキャッシュカードも持っていない。もちろん、お札なんか一枚も持っていないわけだ。
嫌な汗が額ににじむ。とても恥ずかしい。カバンの底に小銭が落ちていないか探っているけれど、それらしきものはない。
「えっと、メロンパン」
買うのをやめますと言おうとしたときだ。後ろからすぅっとレジ台に手が伸びてきた。私が出した小銭に100円玉が足される。
ハッと息を飲んで振り返ると、背の高い男性が立っていた。長く艶やかな黒髪をひとつに縛った男性だ。髪色と同じ色のスーツがとてもよく似合っている。顔立ちもとても端正だ。
甘い物が好きなのだろうか。彼が持っている買い物かごにはプリンやらアイスやらが山のように入っている。
「これで648円ですよね」
彼は私ではなく、レジを打っている大学生らしき若い女性店員に向かって言った。店員が「はい」と返事をした。
「ちょうどいただきます」
店員がレジを打って、レシートとレジ袋を差し出した。私がまごまごしていた間に、買った物はすでに袋に詰められていたらしい。
困り果てて男性を見る。男性は「どうぞ」とニッコリとほほ笑んだ。
しぶしぶ店員からレシートとレジ袋を受け取って、レジの前を開けた。そのまま店の出入り口へ進んだ。
――ひとまず彼が清算するのを待つか。
たとえ100円であろうとも、お金を借りたのは事実だ。きちんとお礼も言わなければならないし、できれば借りたお金も返したい。家に帰れば財布はある。彼さえよければ取りに返って、またここへ戻ってきたいところだ。
出入り口に立つ。自動扉が開いた。
「えっと……」
白猫はその場を動こうとしない。ゆらゆらと優雅に長いしっぽをゆらし、私のことを見上げている。睨みつけている――に近い目つきだ。『どかねえぞ』とでもいうような確固たる意志を感じる。
「白夜さん、どいて差し上げてはいかがですか? お困りじゃないですか?」
背中から艶のある低い声が飛んできた。振り返る。支払いを終えた黒髪の男性があきれ顔で白猫に注意していた。
「まったく。女性には道を譲るのが男でしょうに。そういうフェミニズムに欠けたことをすると好かれませんよ? 世の中、ツンデレが好きなんていう女性のほうが圧倒的に少ないんですから」
ほらほらっと男性が居座る白猫を追い立てた。明らかに不機嫌な表情をした白猫がしぶしぶと扉の前を開ける。
「あの……この白猫はあなたが飼っているんですか?」
おずおずと男性に話しかける。緊張で声が震えた。レジ袋を持つ手に力が入る。不本意ながらお金を借りた相手とはいえ、やはりひとりでいるときに見知らぬ男性と関わるのはかなり抵抗がある。
それもこれも怖い体験をしたせいだ。
「飼っているのではなく、飼われているんですよ」
「はい?」
「彼は私の主人でして。まあ、ものすごくわがままで、意地が悪くて、短気なんですけど」
猫が上機嫌なときにゴロゴロ喉を鳴らすときみたいに、男性は楽しげに笑って答えた。
本気で言っているのだろうか。たしかに男性の言うとおり、意地悪で短気そうな雰囲気ではある猫だけど。
「あの……さっきはありがとうございました。その……100円返しますから、ここで少し待っていてもらえませんか?」
「少しとはどれくらいでしょう?」
「10分くらいです。無理ですか?」
「無理ではありませんが」
男性が空を見た。陽が落ちてきている。オレンジ色だった空が少しずつ装いを変えつつあった。
「戻ってくるころには太陽も完全に沈んでしまっていることでしょう。ひとりで暗い道を歩かせるのは少々気が重いです。ここらは街灯が少ないですし」
「だ、大丈夫です。ダッシュで帰ってきますから。ちょっとだけ、待っていてください」
ペコリッとすばやく頭を下げて、私は踵を返した。
「北野さん!」
男性が叫んだ。足が自然にとまった。だって見知らぬ人から名前を呼ばれたのだから。
恐る恐る振り返ると、黒髪の男性はばつが悪そうにこりこりとあごを掻いて笑った。
「北野あかりさんですよね?」
「……は、い」
呼びとめた相手の男性は芸能人やモデルをやっていてもおかしくないほど美しい男性だ。これほどの美形ならば、一度会えば絶対に覚えているはずだ。
でも本当に知らない。なのになぜ、男性は私の名前を知っているのだろう。
――もしかして、アイツらの仲間?
数日前のことを思い出して、背筋がぞっと寒くなった。早く帰ろう。関わったらダメだ。
「えっと、送っていきます。ご自宅まで」
「いえ、結構です。お金は必ず返しますから。あっ、そう。明日。明日の昼間、ここのレジの人に頼んでおきますから、100円受け取ってください」
小銭入れを握りしめて走り出そうとしたができなかった。
私の足元に猫がいた。慌てて猫を避けるようとしたがつんのめってしまう。体のバランスを崩してその場に尻もちをついてしまった。
「すみません。白夜さんが送っていくと聞かないものですから。白夜さんも、そういう手荒なことしちゃダメですって。余計に警戒されちゃいますよ!」
男性が白猫に近づいた。へたり込んだ私に向かって「実はですね」と言って懐から一枚の白い紙を差し出した。
「私はこういう者でして」
「えっと……神守坂神社 二級上 久能……」
「あっ、間違えました! こっちです」
差し出していた紙をすぐに引っ込めて、新たに別のものを取り出した。
「しろねこ心療所 久能孝明。待って。えっと、それよりさっきの神守坂神社って、すごく元気なご高齢の神主さんのいる神社ですよね?」
「ええ。私のおじーさまなんです。久能英月と言います。実は今日、ここでお会いしたのは偶然ではなくて、おじーさまからの依頼なんです。あなたの相談に乗ってやってくれと」
「なんだ、そうだったんだ」
ふぅっと私は息を吐いた。あの人の身内ならと思ったら安心して、緊張がすうっと解けた。
「私、あの神社にはいつもすごくお世話になっているんです。小さい頃は命も救ってもらいましたし。今日もお話を聞いてもらったところなんです。おじいさんのお孫さんってことは、おじいさんが言っていた心当たりってあなたのこと、なのかな?」
「間違いなく私のことですね。まあ、おじーさまに言われなくてもきっと、こうしてお話することになったと思いますけどねえ。神様は気に入った女性のことはよくご存知ですから」
「そうなんですか?」
差し出された手をとる。久能さんが私を引っ張りあげてくれた。
「とにかく帰りましょう。お話は道中にお聞きしますね」
「はい」
久能さんに促されて、私は家のある方向へ足を向けた。白猫が「ウナア」と小さく鳴いた。
『俺を置いていくんじゃねえぞ』
と言っているみたいに聞こえた。
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