とりかえっこ

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とりかえっこ

「拓ぼん、腹減ったやろ。おやつ食べてき」  たすきで着物の袖をまとめた女中の多江さんが、奥から出てきて店番を変わってくれた。奥の掃除が終わったんだろう。英国の紅茶の缶の棚にはたきをかけだした。  俺は頷いて、一目散に勝手へ向かう。今日のおやつはなんだろう。昨日、堺港に荷がついてトラックが来たから果物かもしれない。  予想はあたり、勝手の板場に大きな木箱が三つ並んでいる。そこからあふれ出しそうなほど、みずみずしい桃が、ぎっしりと詰まっている。 「おお、拓ぼん。旦那さんが仕入れすぎたって嘆いてはったで。傷まんうちに食べてしまおうやないか」  丁稚頭の勝蔵さんが言った。俺はまた勢いよく頷いて、木箱から桃を取り出す。皮もむかずにかぶりつく。やわらかな産毛が少しちくちくしたが、あふれる桃のしずくの甘さにすぐに気にならなくなった。夢中でかじりながら、もう一つ左手で取り出す。 「さすがに拓ぼんは食べ盛りやな。食いっぷりがええわ」  勝蔵さんは桃の皮をむきながら言う。変なところを褒められて少し恥ずかしい。照れくさいのをごまかそうと思って、桃の味に集中した。  極楽には桃の木がたくさんあるっていう話を聞いたことがあるけど、この輸入商『本夛屋』は本当に極楽みたいなところだ。旦那さんも奥さんも仏様みたいに優しいし、いっぱいいる使用人も、みんな働き者で明るい。飯は一日二回も食べさせてもらえるし、それになにより、三時になったらおやつがあるんだ。  俺はこの世の中に本当におやつなんてものがあるって、ここに来るまで知らなかった。貧しいから学校には行けなかったし、うちでは飯を食えない日なんかざらにあった。腕も足も細いのに、腹だけは水でふくれてた。  着物なんて上等なものはなくて、ぼろ布をなんとか身につけていたって状態の俺を、旦那さんは拾ってくれた。 それは旦那さんが、遠い外国に行く船に乗るために自動車でうちの田んぼの横を通ってた時のことだ。車が道をそれて田んぼに突っ込んできた。  旦那さんも運転手もケガはなかったけれど泥だらけで、うちで汚れを拭いていってもらった。  田んぼをダメにしたお詫びと助けてもらったお礼にって言って、旦那さんはかなりのお金をくれて、そのうえ、俺を丁稚として雇ってくれた。  店が忙しいから学校には通えないけど、帳場の三郎さんが読み書きもそろばんも教えてくれた。着物も下駄も、暖かい布団も、なにもかも夢みたいだ。 「こいさん、おかえり」  勝蔵さんの声に振りかえると、勝手口からおかっぱ頭の女の子が二人、こっそり入ってきた。一人はこのうちのお嬢さん。みんなに『こいさん』って呼ばれてる。このあたりでは良い家のとこの女の子を『こいさん』と呼ぶらしい。本当の名前は違うそうだ。もう一人の女の子はお嬢さんの友達だ。きっと生まれてこの方、『こいさん』なんて呼ばれたことはないはずだ。  お嬢さんはランドセルを背負ったまま忍び足で近寄ってくる。 「また裏から帰ってきて、旦那さんが叱らはりまっせ」 「だいじょうぶや、こいさんはな、隠れるのんが上手なんや。美代ちゃんも上手やんな」  一緒にいる女の子がこくりと頷く。 「そんでまた使用人のおやつを狙って来なはって。今日のこいさんのおやつはバナナだっせ。奥に行って食べてきなはれ」 「いやや、こいさんは桃を食べるんや」  お嬢さんはわがままだ。こんなお金持ちのうちに産まれて、欲しいものはなんでも買ってもらえて、学校にも行けて、友だちもいて。なのに全然、満足しない。どれだけ自分が恵まれているか、理解しようともしないんだ。 「こいさん、ほんとうにうちも食べてええの?」  お嬢さんは木箱から勝手に桃を二つとって友だちに一つ渡した。 「ええよ、三時やもん。おやつの時間やで」  美代は近所の屑屋の娘だ。いつも父親について働いている。学校には行っていない。だがお嬢さんが勉強を教えてやっているらしくて、夕方にはこうやって入りびたっている。  二人は板場にきちんと座って丁寧に皮をむいて桃を食べ始めた。大切なものを盗られたみたいな嫌な気持ちがして、俺はさっさと店に戻った。  今日も三時のおやつを食べようとしていると、お嬢さんがまた勝手口から入ってきた。ちょうど誰もいなかったからだろう、お嬢さんは恐々と俺に話しかけてきた。 「拓ぼん、今日のおやつはなに?」  黙ったまま木箱を指さしてみせる。中身は昨日と同じ、桃の残りだ。あと少ししか残っていない。 「ちょこっとしかないなあ。こいさんが食べたら拓ぼんが食べられへんなあ」  その通りだ。だから、とっとと奥へ行って自分だけバナナを食べたらいいだろ。バナナなんて高級品なんだ。桃なんかよりずっと美味しいに決まってる。自分だけ特別に美味しいものを食べられる幸せを、ちゃんと理解するべきなんだ。  その思いが通じたのか、おじょうさんはランドセルをカタカタ鳴らしながら奥へ入っていった。脱ぎ散らかした靴を揃えてやっていると、すぐに戻ってきた。 「拓ぼん、おやつ、とりかえっこしよ」  お嬢さんはバナナの大きな房を両手でかかえて来ていた。八本も束になっている。  俺は初めて間近で見たバナナの甘い香りに心奪われた。くらくらとめまいまでしてきた。黄色の皮に茶色の点々がついている。遠い外国から船で運ばれてきた宝石のような高級品だ。俺なんかには手が届くはずのないものだ。  それをお嬢さんは、やすやすと差しだすんだ。バナナなんて食べ慣れて、珍しくもなんともない。だから使用人にくれてやっても惜しくもないんだ。  俺の視線は相当きついものになっていたんだと思う。お嬢さんは首をすくめて小さな声で聞いた。 「だめ?」  本当はだめだと言いたかった。だけど俺は一度でいいからバナナを食べてみたかった。普段なら声を出さないようにしているのに、どもる口を開いた。 「い、いい、いい……よ」 「ほんとう? やったあ!」  お嬢さんは駆けよってきて俺にバナナをぐいぐいと押し付けた。受け取ったバナナは今にもつぶれそうなくらい柔らかくて、甘い匂いはますます強くなって、信じられないくらいずっしりと重かった。  呆然とバナナに目を奪われている俺を、お嬢さんはしげしげと眺めた。 「拓ぼん、バナナ嫌いやった?」 「た、た、た、食べたこと、な、な、ない」 「そうなん。嫌いやったらどうしよう、桃の方が好きやったら」  今にも泣きそうなお嬢さんにバナナを取り返されないうちに、急いでバナナの皮をむいた。やわらかなバナナの果肉が皮について一口ほど、もげた。それをこぼさないように急いで口をつける。  バナナは信じられないくらい美味しかった。とろりととろけて、濃厚に甘くて、むせかえるほどの香りは遠い南国を夢想させた。  その味に酔いしれている俺を、お嬢さんが心配げに見上げている。 「だいじょうぶ? 嫌いやない?」 「き、き、き、嫌いやない。おい、おい、おいし」  お嬢さんはパッと笑顔になって「良かったあ」と言った。 「ほなら、こいさんは桃をもらうわ」  そう言って桃を一つ取って丁寧に皮をむきだした。俺は夢中になって房のバナナをぜんぶ食べてしまった。 「お、おじょ、お嬢さん。なんで、なん、なんでバナナ食、食べないの……」  お嬢さんは桃から顔を上げて心配げな表情になった。 「やっぱり、拓ぼんも桃が良かったん?」 「い、い、いや、ば、バナナ、おい、美味しかった」  お嬢さんはほっとため息をつくと立ち上がって、むき終えた桃を俺の口元に持ってきた。 「でも桃も美味しいもんな。拓ぼんも食べ」 「も、もう、たべ、食べたから」 「ええから、食べよ。半分こ、あげるわ」  お嬢さんがぐいぐいと桃を口に押し付けるから、思わず一口かじった。桃も確かに美味しい。バナナをお腹いっぱい食べて、そのうえ桃まで食べて。こんなことして誰かに叱られないかと心配になった。 「お、お、お嬢さん。ひ、ひみ、秘密にして」 「そうや。秘密にしといてな。こいさんがここに来たのがばれたら、またお父さんに叱られてまう」  慌てた様子のお嬢さんは急いで桃をかじり終えると、種と皮をかまどの火元に押し込んだ。俺たち使用人がしているのを見真似たんだ。 「お、おじょう、お嬢さん、なんで勝手に、く、く、来るんですか。し、叱られるのに」 「だって、こいさんは一人でおやつ食べるの嫌いなん」  ああ、まただ。お嬢さんは本当にわがままだ。そりゃ、旦那さまも奥さまも忙しい方だから、いつもお嬢さんについていてあげることは出来ない。けれど奥の間にだって女中はいる。なにより、毎日おなかいっぱいにご飯を食べて、三時にまで美味しいものが食べられるだけで、どれだけ幸せなことか。 「こいさんはな、みんなと一緒がええんや。みんなと一緒におれたら、おなかすいててもええんや」  なぜか突然、うちのことを思い出した。ぼろぼろの板壁から風が吹き込んできて寒くて寒くて。雨が降れば雨漏りがひどくて眠れないし。食べるものはなくて水ばっかり飲んでた。でも、そんな暮らしも父ちゃんと母ちゃんがいたから寂しいことはなかった。 「でも、みんながおなかすいたら嫌やから、こいさんはみんなと同じおやつは食べたらあかんねん。だから、拓ぼん。これからもないしょで、おやつをとりかえっこしてくれん?」  お嬢さんは一生懸命に俺を見上げる。 「け、け、けど。そう、そうしたら俺が、と、と特別なおやつに、なって、し、し、しまう」 「そうはさせん! 拓ぼんにはこいさんのおやつを半分あげる。な、悪い話やないやろ」  その言い方が思い出をくすぐった。 『飯も寝どこも用意がある。給金もよそには負けん。それに三時にはおやつもつけよう。どうや、悪い話やないやろ』  旦那さんが俺を丁稚にと言ってくれた時の言葉だ。今でも忘れない。忘れたことなんて一度もない。 「わる、悪いことは、なん、なん、なんにもないよ」  お嬢さんは、ぱっと笑顔になった。 「良かったあ!」  そんなに皆と同じおやつがいいのかと心の中で首をかしげていると、お嬢さんが照れくさそうに言った。 「こいさんな、拓ぼんに嫌われてると思てたんや」 「え……」 「でも、話してくれてありがとう。拓ぼん、ええ声してたんやな。また、こいさんとおしゃべりしてくれる?」  俺は自分のどもりが嫌いで、いつも口を開かないんだ。でも、ええ声だなんて言ってもらって悪い気はしなかった。 「うん。こ、こ、こいさん。また、あ……、あ、明日」  こいさんは、にいっと口を広げて笑った。 「うん! また明日、とりかえっこしような!」
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