第一幕 第一番

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第一幕 第一番

 都内音大のピアノ科へ進学し、「無駄が多すぎる」の一言で入学した年の夏も終わりに近い時期、大学を中途退学してしまったのは大きな失敗だった。 「母さんになんて言おう……」  母親が苦労して高い入学金を払って入れてくれた大学を、一年もしないうちにやめてしまったことは、罪を犯しまったことを報知するくらい親には言いにくいものだ。  ため息をつきながら地下へと通じる階段を、楊梅桜満(やまももおうま)は重い足取りで降りていく。 「才能がない」といわれた方がどんなによかったか。後悔の念は強い。  ここまで後悔したことは、小学三年生の時初めて出たピアノの演奏会で、恐らく初恋だっただろう女の子に聞かせた曲の、最後の一音だけ外してしまったとき以来だった。  しかもそれ以降どうにも癖になってしまったのか、その曲を弾くたびに弾き間違えてしまうようなったのだ。  そんな子供のころを思いだしているうちに、目の前には停車した列車の扉が開く。  昼を過ぎた時間帯だが乗客はさほど多くなく、座席にも空席が目立つ。しかし桜満はドア近くの手すりに掴まり、真っ暗な窓の外に映る自分と目を合わせた。  目が合った自分は、風で乱れた左右非対称の黒い髪を片手で整えている。 (受かるといいんだけど)  大学をやめたことを親にまだ報告できないでいる桜満は、とりあえず働き口を探すことにした。  大学を辞めた当日の帰り、偶然学内の掲示板を見た桜満は隅っこに目立たないアルバイトの求人を見つけた。しかも音大の掲示板であるはずなのに、まったく関係のない求人紙である。 それはレポート用紙よりも一回り小さく、ワープロで印字されていて少々みすぼらしかった。  他にもアルバイトの求人は貼り出されていて、ネット社会の今この掲示板を利用するものがいようとは、実際必要としてみなければ気づくこともなかっただろう。  しかしほとんどは在学生に向けてのもので、中退した学生を雇うところなどどこにもなかった。 「在学中のものに限る」などと念を入れられては言葉も出ない。  桜満は隅っこの求人紙をはぎ取り、詳細を一読する。  内容はアルバイトスタッフの募集で、年齢制限は当たり前だが楽々クリアしている。  他には交通費全額支給、能力給有り、社員登用制度有り、と書かれてた。  履歴書ご持参のうえ、直接弊社までお越しください。  メディカルホーム   担当ススキ  仕事内容はまったく不明だが、校内の掲示板に掲示されているだけあって安心感を覚える。 (これしかない)  そのときの桜満は神に祈りながら隅っこの求人紙に縋った。  よくよく考えてみれば、他にも仕事先はあったかもしれないのに。そんなところに頓着ではなかった。  求人紙は学内でコピーし、掲示板へと貼りなおす。見かけたときと同じ隅のほうに。  しかし今までで働いた経験といえば、夏に海の家での泊り込み作業や、年末年始の年賀はがきを仕分けるくらいだ。  しかもそれさえ友人の紹介だったりで、関連する面接などというお堅い社会的ルールは高校入試の時でさえやったことがない。  勇断者でないのを揶揄するように、面接を受けるために向った目的の駅へ降りたのは、桜満一人だけだった。  降りた先は都心から少し離れた住宅が割合を占めている地域で、塔のように聳えるビルもない街並みが、平穏と無言で知らせているようだった。 「徒歩十分じゃすぐだよな」  コピーした求人紙の住所と共に貼付けしてあった地図を頼りに「メディカルホーム」と位置づけてある場所へ向かう。  見知らぬ土地を進むにつれ間近に迫ってくる面接が、秒針のように一定のリズムで桜満に対して、先ほどよりも更に緊張感を引き寄せた。  人生何が起こるかわからないとはよく言ったもので、今まさに何が起きるかわからなくなってきている本人は挙動不審になり、頭の中はモーツァルトのアリアが甲高く鳴り響いている。 「あ、れ……?」  きれいにアスファルトで舗装されている二車線の道路の両脇には商店が並び、路地を入ってすぐに閑静な住宅街が佇んでいる。  駅を出て十分。そう遠くもなく、特別入り組んだ道もない。しかし先に続く道の線上にはそれらしい建物は見当たらない。  意識していなかったためか、目的地を通り過ぎてしまったかもしれないと引き返すことにするが、見知らぬ土地での迷子はやはり焦る。それが面接を受けなければならないという自分への追い込みで、苛立ちさえ感じさせてしまう。 「おいおい、どこだよ」  地図を見てもいまいちわからない。紙をひっくり返してみたり、自分を道と平行に立たせてみたりしても、さらに暗号化されたようにわからなくなってしまう。  そんなときだけ冷静になって気がついたことは、裏側が透けて見えていた紙が、学内でのリサイクルペーパーを利用してコピーした楽譜の一部だったことと、自分が方向音痴だということだけだった。  散々迷ったあげく、地元の人間に聞くことにした桜満はあたりを見渡す。  こんな時交番でもあればいいのに、などと颯爽とした解決策を思いつくが、運も悪いのかそんな頼れる場所すら見当たらない。  子供のころから困った時はお巡りさん、という習慣を母親に植え付けられた桜満でも、今はお巡りさんに頼ることはできなかった。  時刻は午後三時を過ぎようとしていて、人通りは少なく若い女性に声をかけるのも少々気が引ける。  駅に向かう十字路を曲ろうとしたが、よそ見をしていたせいで対峙した人影に衝突寸前で踏みとどまった。  つま先に変に力が入って、体がバランスを失う。そのままステップを踏んでいるかのようになり桜満は慌てて謝るが、微笑する相手に顔を合わせたとたん体が一瞬硬直した。 (うわっ、キレイ)  その人物は雪のような白銀の髪が印象的な青年で、月と同じグレーの瞳をしていた。  異性からも嫉妬されそうなほど整った顔立ちで、自分とさほど変わらないであろう年齢の青年に桜満は脈を早めた。しかし対面してみて少々ぎくりとする。 (どうしよう、日本語わかるかな?)  桜満の知る中で、白銀の髪とグレーの瞳を持つ日本人はいない。一瞬道を聞いてみようと思ったが、そこで思いとどまることができた。  しかも青年の格好は普段着なのか、黒のテーラードジャケットにベスト、そして同じく黒のパンツでどこか西洋の雰囲気を思わせた。  夏も終りだからといっても、西洋風のこの服装は少し奇妙だった。 「どうかしたの?」  目を泳がせ、あたふたと落ち着きのない桜満に青年は問う。 「えっ」  落ち着いた、しかもキレイな訛りのない自国の言葉が青年の口から発せられ、桜満は映画の吹き替えが脳内で行われているのでないかと思うほど安堵して、目に見てわかるほど肩をなでおろした。  視線が合うと、透き通るような月の瞳が桜満を見据えて映し出している。  首をかしげる仕草をする青年の髪がさらりと揺れ、見とれた桜満は我に返る。 「あ、あのこの辺りにあるメディカルホームって言う会社の場所をしりたいんですけど」  地図を指差し、コピーした求人紙を青年に渡す。  そんな桜満の頬は、子供の寝起きの様な桜を散りばめた色だった。  青年は地図を受け取り見ると裏の音符が透けて見えて、それを薄く笑うが桜満は気づいていない。 「この会社ならこっちだよ」  紙を桜満に返し、青年はにこりと笑う。 「え―――――あ、はい」  会社まで案内してくれるのか、青年は桜満の横を通り過ぎて促すように歩き始めた。それを桜満は一歩後ろからついていく形で後を追った。 「すみません、ありがとうございます」 「いいんだよ、ついでだしね」  気さくな鼻にかけない言いように、人は見かけによらないということ桜満は改めて実感する。  青年に対しては、見た目も相当有徳な人物だと思わせるほどだった。  桜満は後ろから青年をまじまじと見つめるが、青年の整った顔立ちに見惚れてしまったのか、言葉をかけることを忘れる。改めて男の自分から見ても綺麗だと思わせるほどの美青年で、昔から母親がかわいい子は三倍得、ということをよく言っていたと思い出した。  それは男女共通するといまさらながら実感して、青年に声を掛けられて嫌な思いをする人間などいないだろうと一人で頷いている。それこそ男女共通で。 「何か楽器でもやるの?」 「え?」  やはりきれいな日本語で桜満に話しかけてきた青年だったが、いきなりの問いかけに桜満は間抜けな返答しかできなかった。 「さっきの紙。裏に書いてあったから」  コピーした求人紙の裏には楽譜の一部が刷ってあったため、そのことを聞いているのだと理解するのに桜満は少々時間がかかった。それほどまでに見とれてしまっていたのかと、相手に気づかれないようにするのはさらに恥ずかしい。 「あぁ、はい一応……この前まで音大に通ってました」  過去形になる自分の言葉が重くのしかかる。桜満は内心泣きそうになって、それを耐えながらとぼとぼ歩く。 「へぇ……専攻は?」 「ピアノです」  青年の一歩後ろを歩いていた桜満だったが、いつの間にか並んで歩いている。落ち込む桜満に気づいていない風の青年だったが、後ろをついてくる迷子に少なからず気を使っていたようで、歩く速さをゆるめていた。  二人が並ぶと桜満は一回り背が高く、細身の青年が可愛らしい女の子のようにも見えた。 「ピアノ、好き?」  淡々と質問してくる青年のその言葉に、桜満は突然叩かれたようにびくりとする。  小学生の頃にも母親に同じことを聞かれたことがある。ピアノをはじめて何年も経ってからのことで、そんなことを聞かれたのは後にも先にもその時だけだ。  真正面からそれを問われることがどれだけ心に響くかを、桜満は人生二度目の今になって初めて知った。同時にそれを答えることのできる喜びは、本人にしかわからないということも。  今それを答えることのできる桜満は誇らしかったし、そして改めて大学を辞めてしまったことを後悔せずにはいられなかった。 「………ええ、とっても」  桜満が生まれるずっと前から、楊梅家には一台のピアノがあった。  本来黒光りしているはずの部分は擦れて傷だらけであったっし、白い鍵盤もよく使う中央の部分は黄ばんでいるピアノだった。しかし調律だけはしっかりとして、古いながらもいい音の出るピアノだと桜満の母は大切にしていた。  いつしか母が弾くピアノの音色に惹かれて、桜満も鍵盤を叩いて演奏のまねごとをするようになった。 初めてちゃんとした曲を弾けるようになったのは五歳のときで、母はたいそう喜んだ。しかし本人はその時のことをもう覚えていない。  毎日のように弾いてくれる母の曲や調律師の奏でる音は、桜満の憧れだった。自分も早く同じようにピアノを弾いてみたい、そんな思いで時間が許す限り鍵盤に触れていた。  それは大学に入ってからも同じで、専攻したピアノ科の授業以外でも開いている教室があれば弾き続けていた。  好きだと胸を張って答えたのはいいが、大学を辞めてしまったことが頭をよぎると、すぐに元の落胆した自分に戻ってしまう。そのため表情までも暗くなって下を向きながら歩いていると、途中で漫画のように電柱にぶつかりそうになる。 「大学は辞めてしまったの?」  桜満の「この前まで」という言葉が気になったのか青年に問われてしまう。今あまり聞かれたくないことではあったが、仕方がない。大きくため息をつきそうになるのを呑み込む。 「―――――――はい」  桜満は短く答えることしかできない。 道を聞いただけなのに、親切ではあるが所詮は他人にここまで話すことであっただろうかと思ってしまうのは桜満のエゴだ。そんな自分を叱咤するが、そんなことをしても自分に対する嫌悪感は消えない。 (最悪だよ俺)  白銀の青年はそんな桜満の様子を横目で窺い、静かに口を開いた。 「でもピアノは好きなんでしょ?」  桜満は急に立ち止まって、それに合わせて青年もその場に足を止める。下を向いていた顔をあげて、真正面からグレーの瞳と対峙する。  そこには真っすぐ迷いのない瞳が、桜満を見据えていた。  自分ではわかっていたはずなのに、気づくことができないことがある。それは他人に言われてはじめて知ることができる確かなことであり、桜満にとって大切な想いそのものだった。 「好きです、それに……」 「それに?」  桜満は静かに、それでいて強く青年に断言した。 「それに大学は辞めても、ピアノは絶対にやめませんから」  本人が気付かないように微笑んで、青年は桜満の言葉にそっと頷いて答えた。  青年が立ち止まったのは、風情ある洋館の前だった。  広い歩道の目の前で、数段の石階段の上に曇りガラスをこしらえた入り口が居座っている。 (ここなのか?)  洋館には会社名らしき看板も何も掲示されておらず、外から見れば結構お高そうなホテルのようにも見える。さほど大きくはないが、三階建ての洋館は威厳たっぷりだ。 「ここがメディカルホームだよ」  青年は入り口の豪華なドアノブを回しながら言った。 「あ、ありがとうございました!」  桜満も急いで後に続いて中へ入る。 (すげぇ、これ会社かよ)  洋館の中へ入ると内装も外とまったく同じ、お高そうな威厳のある洋館だった。  入り口のすぐ左側にはホテルのフロントのようなカウンターがあり、右側にはラウンジが広がっていた。その奥にはバーカウンターのような場所まである。 歴史を感じる建物だったが、そこに揃う家具も相当年季の入った代物だと思わせた。  ラウンジにはローテーブルを囲むようにして数人が座れるソファが佇み、ちょうどそこには二人の人間が座っていて、桜満は視線をくぎ付けにする。  一人は燃えるような真っ赤な髪の少々強面の男で、もう一人は鋼色の癖毛を後ろで束ねたワンピース姿の女性だった。  二人の男女は同時に白銀の青年、そして桜満へと視線を向ける。  メディカルというだけあって医療関係の仕事を取り扱っているのかと思えば、そのようにも見えず、桜満はその場に立ち尽くして赤毛の男を凝視していた。 「お帰りなさい悠さん、そちらは?」  女性は立ち上がり、桜満へ目配りしながら白銀の青年へ歩み寄る。  桜満は驚いて大きく見開いた目で青年を見返した。 (……ここの人だったのかよ、もっとちゃんとしとけばよかった!)  案内してくれた白銀の青年がここのスタッフだと知り、いきなりの展開にいっきに緊張する。本来言うべきことなど忘れ、頭の中は真っ白になっていた。 「面接を受けにきたみたいなんだ」  緊張し一言も話せない桜満に代わって青年が答える。  にこりと青年に笑いかけられた桜満は、ひきつった笑顔を作ってみせた。 「あらそうでしたか、履歴書はお持ちですか?」 「は、はいっ」  書いてきた履歴書をあわてて取り出し女性に渡す。 「ではこちらにどうぞ」 「はい」  先ほど女性が座っていて、今でも赤毛の男が座っているソファへと促される。男からは離れたところに座ったが、無言で桜満を睨み付けるように見ていた。 「楊梅桜満さん?」 「はい」  履歴書を一通り見終わると、一番上に書いてある名前を確認するかのように呼ばれ、桜満もそれに答え短く返事をした。まるで学校での点呼のようだ。  だがその点呼に反応したのは桜満だけではなかった。 「オウマ?変わった名前だな」  いきなり赤毛の男が会話に加わる。 「(がい)はまだ黙ってて」 「……」 「気にしないで下さいね」 「はぁ」  桜の咲く季節に生まれたから桜満。単純な名前だが、言われてみれば珍しいかもしれない。  桜満にしてみれば真っ赤に染めた髪に黒スーツの社員らしき男も、とてつもなく見た目は変わって見えた。しかも首には黒のチョーカーをしていて、一風変わった人なのかとにおわせる。 「私はメディカルホームスタッフの薄穂波(すすきほなみ)です。えーっと、音大……中退?」  スタッフと名乗るオックスフォードストライプワンピの穂波は、赤毛の男に対する態度とは逆に、柔らかな口調で会話を始める。だがいきなり痛いところをついてきた。 「はい」  一瞬気持ちが落ち込む桜満だったが、ここまでの道中で確かめることのできた大きなことを思い出す。白銀の青年に問われて気づくことのできた大切な想い。大学を辞めて必ずしもそれが、自分の好きなピアノをやめることとイコールではないこと。それは今の桜満にとって何よりの励ましだった。 「ピアノ科、他に何か楽器は?」 「いえ特には、ピアノだけです」  ピアノ一筋、小中学校の音楽の授業で習ったソプラノリコーダーやアルトリコーダー以外の楽器はまったくの素人だ。やればできるなどという考えが通用することなく、一度手にしてみたことのあるヴァイオリンや管楽器は音すら出なかった。 「一つ変な質問かもしれないけど、いいかしら?」  変といわれるとあまりこたえたくない気もするが、仕方がない。桜満は眉を寄せて身構えた。 「はい」 「あなたの演奏は人と何か違っていたり、特別なことがあったりしたことがあるかしら?」 「人と違う?」  本当に変な質問だと桜満は首をかしげて、質問の意図を探ろうとしたが結局何も思いつかなかった。 「えぇ例えば、聞いていた人が、何か違っていたり」 「違う?」 「何でもいいですよ、何かありますか?」 「うーん……」  桜満は少々意味不明な質問に真剣に悩み、今から物心ついた頃までさかのぼって振り返る。  それをメディカルホームのラウンジに居合わせている桜満以外の三人が推察していた。 「母さんが」  ひとしきり考えた桜満がふと思い出したかのように言う。 「はい」 「母さんがたまに俺が弾いているときに言うんです、今日は嬉しそうねとか、今日は寂しそうねとか、こっちはその通り意識してるから音に出ちゃったのかなとか思ってたんですけど……そんなことでいいんですか?」  曲を弾くときに自分の感情がそのまま音に出てしまうことがあるのは、仕方のないことであり、桜満はそれをセーブすることが好きではなかった。  それを当たり前に感じていたし、穂波の言う人が聞いていて違うと感じることなのかどうかはわからない。だが桜満はそれくらいしか質問に答える回答はなかった。 「えぇかまいませんよ、ありがとう」  笑顔で答えた穂波は、赤毛の男に目線を移す。  それはただ目線が合ったというだけの合図で、桜満はその仕草すらも気づくことのできないやり取りだ。  赤毛の男はにやりと笑みをこぼし、静かに口を開く。 『じゃぁ君は……』 「採用」  赤毛の男が一声を上げた瞬間、その言葉を遮ったのは白銀の青年だった。しかもその場の全員が驚愕する、意外な言葉で。  穂波は唖然としてただ黙ることしかできない。それは赤毛の男も同様で、二人は白銀の青年を凝視した。 桜満は状況の把握に時間がかかっているようで、ぽかんと口をあけて茫然としている。 「採用でいいんじゃない?」  またも同じ単語で青年は言い放った。 「おいおい、いいのかチェックなしで?」 「そうです悠さん、そんないきなり」  平然と言う青年に二人は立ち上がって詰め寄るが、青年は雄弁な趣きだった。 「彼は採用でもいいと思うよ、だめかな?」  だめかななどと言って可愛く首をかしげる仕草をしても、それを問われて否定することは、メディカルホームのラウンジに今存在している人間の中で、誰一人としてできるものはいなかった。  なぜならそれは、桜満が面接を受けに来たメディカルホームの代表が、雪のような白銀の髪が印象的な、誰もが見惚れてしまうほどの美貌の持ち主である、大神悠(おおみわはるか)その人だからである。 「だめって、悠さんが決めたんじゃ否定のしようがありません」 「どういう風の吹き回しだよ、なんか変な男をつれてきたかと思ったら即採用って、納得いかないんですけどぉ……なぁ桜?」  桜というのが自分のことを指しているのだとわかった桜満は、いまいち現状についていけず困惑する。 「えっっと……どういうことですか?」 「採用。アルバイトの面接、受けにきたんだよね?」  攻められているわけでもないのに居心地の悪さを感じて、桜満は背中に嫌な汗をかく。  確かに面接を受けにきた。しかしその肝心の面接を受けた記憶のない桜満は採用といわれて、うれしい気持ちの前に実感がわかない。  面接といっても穂波の変な質問くらいで、普通なら希望した理由など聞かれるものだと思っていたし、それも一切ないのに採用とはどういうことだろう。 「はい、え、でも採用って?」 「アルバイト採用。よかったね受かって」  青年に笑いかけられた桜満はその笑顔に心臓がいつもより早く波うって、聞いた採用の言葉にだんだんと気分が高揚してくるのがわかった。採用つまり雇用決定。合格ということだ。 「あ、ありがとうございます!」  自然と笑顔になる桜満の横から腕が回る。 「桜くーーーん!悠になんかしたのかよ、ずるいぞこのっっ!」 「うわぁ、何かってなにも……!」  離れた場所に座っていたはずの赤毛の男が隣にきて、その腕を桜満の首に回し抱き寄せるような形になる。そのせいで当の本人は体重を男に預けざるおえない状況になってしまい、慌てふためいた。 「凱やめなさいよ、嫌がってるでしょ」  呆れ顔で穂波は助け舟を出す。もちろん桜満に。 「はいはい、じゃぁ自己紹介ってことで、俺はここのスタッフで津守凱(つもりがい)。よろしくな、桜」  腕を解き座りなおした凱は、勝手に自己紹介を始めた。 「は、はぁ……よろしくお願いします、でも桜って……?」  名前の一文字だけを呼ばれて、言い直したい桜満だが、凱には何を言っても聞かないだろうと、初対面でありながらも暗黙の確信を得た。 「あ、いいなそれ、僕もそう呼ばせてもらっていい?」 「え」 「大神悠です。よろしくね、桜」  桜満は悠のその笑顔に言い返すことができない。 「彼がここの代表なの、大変だとは思うけど、以後よろしくお願いします」  おそらくこのスタッフの中で一番の常識人であろう穂波が挨拶すると、これがここの常識だといわんばかりだ。  自分と同い年くらいの青年が代表とは驚くが、初対面とは思えない待遇にこれ以上驚くことがなければいいと心から願った。
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