第二番

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第二番

 道に迷ったことを除けば無事といえるだろうアルバイトの面接も終了し、メディカルホームで働くことが決定した桜満は、手続きをするために穂波の説明を受けていた。代表の悠は別として、平の凱まで同席して。 「早速ですけど、手続きに必要な書類がありますから、記入したら提出してください」  言われて桜満が受けとったのは、さほど履歴書と変わらない内容の用紙で、大まかに趣味や特技を記入する欄があるだけのものだった。癖まで記入する箇所があるのは、少々不思議ではあったが。 「仕事内容はほとんど会社内と、屋外で活動する際のアシスタントです。そんなに難しいことはないから安心してくださいね」 「具体的には?」  掲示板で見た求人には仕事内容が記載せれていなかったが、面接でも説明を聞く前に採用が決まってしまっていた。  己の役割を知ることがないまま進む話に、桜満は少々不安になる。 「社内では道具の管理と仕入れが主よ。それは全員でやることも多いから大丈夫として、外では主に悠さんの仕事がスムーズに行くようにサポートするのが役目ね」  穂波と他二名の説明によると、このメディカルホームのスタッフは桜満を除き、全員で五名のみであるという。  つまり桜満が加わり六人になったわけだが、想像よりも少ない人数が気にかかった。  しかもそのうち一人は義務教育中で、卒業まではしばらく出社しないらしい。もう一人も出張中で、しばらくは帰らないという。  詳しい年齢は聞いていなかったが、義務教育といえば最高でも中学三年生の十五歳だ。  そのような子どもができるような仕事ならば、自分でもこなしていけるだろうという安心感を抱くのは、桜満にとって普通の感情だった。むしろ子どもがスタッフとして登録されていることの方が興味を湧かせ、世の中にそんな会社も存在するのかと自分の常識を疑った。 「悠さん一人でお仕事されてるんですか?」 「えぇ大体はね。私も凱もほとんどサポートにまわってるの。昼夜関係なく出回ることが多いけど、緊急時以外は前もって報告するから安心してね。それと仕事は全て本部からの依頼で決まっていくの。だから決まったお休みもないから暇なときに休んでください」  仕事は代表である悠自ら一人で行い、昼夜関係ないという。しかも決まった休みもない。  いったいどんな仕事をするのか想像もつかない。  桜満はテレビで見るような探偵が、奇々怪々な事件を解決していく想像を勝手にふくらましていった。 「どんな仕事をなさってるんですか?」  勝手に変な期待をして、桜満は目をキラキラさせながら悠に問う。 「ごめんね、それは言えないんだ」 (人に言えないような仕事なのか!?それって大丈夫なの??)  敬虔な趣で謝罪する悠はどこか寂しげだが、桜満は予想だにしない答えで呆気にとられた。  秘密にされれば知りたくなるのが人の心理というもので、俄然悠の仕事が気になり始めた桜満は、まだ知らぬ仕事にやる気を起こす。さらに想像は膨らんで、探偵が今度は秘密組織に変わっていく。  そこまで知りたがりというわけでもない桜満だが、この雰囲気までも不思議な彼らを前にしては、隠れた好奇心が顔を出すというものだ。 「それと……どこにお住まいなのかしら、遠いようならここにも部屋はあるから、住み込みでも大丈夫ですよ」 「ここにですか?」  先ほど同時に穂波から渡された資料にも書いてあったが、メディカルホームは三階建てで、二階は書庫と倉庫が大きく二つに分けられている。  最上階の三階は、各スタッフの住居になっていた。住居といってもアパートのようなものではなく、ホテルに近い部屋感覚のものだ。鍵付きのプライベートルームと考えればいいだろう。穂波を含む他二名もここに寝泊りしているのだという。 「家賃も不要だけどどうします?」 (家賃不要!!!)  その一言で桜満がここに住むことを拒否する理由はなくなっていた。  アルバイトが決まったとはいえ、ただでさえお金に困っている今は少しでも節約できるところは節約したい。  大学で借りていた寮であるアパート式の部屋も、一週間以内に出て行くように寮監から言われていて、実家に戻ることもできずにいた桜満は途方にくれるところだった。  金持ちの多い音大の生徒の中で、富裕層以外の人間は肩身の狭い思いをしている者が多い。交友関係においてもそれは比例していた。 「是非、お願いします!」  今後自分が寝起きする四坪ほどの部屋へ案内された桜満だが、引っ越すということを、総合的な意味で改めて理解した。  部屋には備え付けである古いが高級感のあるベッドと机が置かれていて、他には何もない。あるといえばガラス戸がついた本棚くらいだ。中身は空。  そして桜満にとって最も重要なことを、案内した悠がぽつりと言う。 「ピアノ、置けないね」  そうなのだ。四坪とはいえ桜満の持つドイツ製のブラウンがきれいなピアノでは、ベッドに机のある部屋には入らない。いくら小型のピアノだからといっても、ぎゅうぎゅう詰めなる。今あるベッドを退かして、置いたピアノの下に丸まって寝るしかないだろう。  万が一にもそれしか方法がないとしても、それはでは音がこもってしまい好ましくないし、第一日常生活に支障が出るのは明らかである。  それでもピアノは桜満にとって手放すことのできない必需品だ。  絶対に「ピアノだけは辞めない」と決めたのだから何とかしなければならない。  引っ越しはなし、ということも桜満にとっては無理だった。 「どうしよう……」  途方に暮れる桜満に悠は微笑みかけて、閉められていたカーテンを開け放ち、新しい主人ができた住処を太陽と対面させた。 「ここでなくても良かったらラウンジに置く?あそこなら広いし問題ないと思うけど」 「…………え、いいんですか!?」  桜満は思ってもみなかった言葉に驚き、思わず悠の月を凝視する。 「構わないよ、あそこでいいのなら」 「いいですいいです、全然、大丈夫、是非!!!」 「そう、ならよかった。ピアノ聴かせてね」 「はい!」  桜満の衷心より喜んだ満面の笑みは、まさに咲き誇る桜の花のようだった。  悠と桜満がラウンジへ戻ると、この洋館の近所にある店の有名な塩大福と一緒に、穂波がお茶を準備している最中だった。  最近テレビで放送されて人気が出た塩大福を悠が買いに出ていて、帰り際に迷子の桜満を見つけたそうだ。 「おお、はなひなはかったのは」  塩大福を口にほおばりながら話す凱の言葉は理解できない。そのため誰もがそれに反応することはなく、無視された本人は仏頂面で桜満を睨んでいた。 「悠さんが買ってきてくれた大福よ。お茶も淹れたからどうぞ」  全員分のお茶と大福がテーブルに用意され、悠と桜満は並んでソファに腰掛ける。 「いただきます」  凱はそんなから二人から目線をはずさない。むしろ何か言いたげな雰囲気で、すっと睨んでいるようだった。 「桜満さん、今日はどうします?もう今晩からでも受け入れは可能ですけど」  日はもうほとんど沈み、星が濃く浮かび上がってきた時刻。終電にはまだじゅうぶん時間はあった。  新しく住む部屋も決まり昼夜関係のないアルバイトの仕事について、今晩からでも移住した方が良いのか、桜満は穂波の言葉に考えを向けて思い悩んだ。  いきなり今晩からの仕事はないと思われたが、この先を考えるとこのメンバーに馴染んでいくためには早々に引っ越した方が良いのは確かなように思えた。  とくに運ぶ荷物もなく、あるといっても大切なピアノと楽譜だけで、それらも業者に頼まなければ運ぶことはできない。  しかしながら身一つで出向いた今は、いくら先方が進めるからといってそれに甘えるわけにもいかない。後日改めて伺うのが常識というものだ。 「いえ今日のところは帰ります。荷物もありますから」  結局脳内で解決してまとまった考えは、あんがい普通のものだった。 「わかりました、では後日こちらで荷物の運搬は行いますから、まとめておいてください」 「そんなことまで??いいんですか?本当に??!」  引っ越し業者に電話しなければと考えていた桜満だったが、またも自分にとって最高の提案、というよりも要請がなされて、夢かもしれない!と自分の手の甲をつねった。当然なことながらとても痛い。 「大丈夫よ、それくらいは許容範囲内」  そういって席を立つ穂波は奥の階段へと姿を消す。 「早く慣れるといいね」 「………はい、本当に………」  隣で微笑む悠を桜満はぽかんと見つめて、呟くように返事をした。  メディカルホームに採用されて桜満がもっとも安心したことは、周りの人間がほとんど皆自分と年齢差がないことだった。  直接年齢を聞いたわけではなかったが、見た目は皆若く二十代前半。代表の悠にいたっては自分と同じくらいか、少し下に見えてもおかしくない。  年齢もさることながら、今の時点で悠はかなりの“いい人”だ。  ほとんど面接なしでの採用や、ピアノの配置、それより何より桜満に対しての態度が優しさに溢れているように感じて、親が子どもを見守るかのような眼差しを送る。それを受ける方としては、気分がすでに違ってくるのは当たり前だ。  桜満は面接を前にしていたときの緊張感など当に消えうせ、絶対とまではいかないが、メディカルホームとうい会社に安堵の気持ちを覚えていた。  一息つく桜満は出されたお茶を一口啜る。ほっと息が漏れて、気が抜ける。  それと同時に教唆の音とも取れたであろうベルがホームに鳴り響き、持っていたカップを滑り落としそうになって冷や汗をかいた。  全員が玄関ホールに目を向けるが、ベルを鳴らした客が入ってくる気配はない。  音に気がついたのだろう、穂波が急いで上階から降りてくるのが足音でわかる。 「仕事かしら……?」  そのまま玄関へと赴き、外へと通じる扉を開く。  ドア越しに窺える外の風景はすでに闇に溶け、玄関先にある楼灯の光が闇をかすかに和らげていた。その光を持ってしても、人の姿は見当たらない。  人と話した風もなく、ラウンジへ戻ってきた穂波が手にしていたのは、長方形の形をした闇と同じ漆黒の封筒だった。  どのようなことを仕事というのかはわからないが、簡単には労働ということなのだろうと軽く理解していた桜満は、まさか今晩の仕事なのではないかと内心どきりとする。  隣に座っている悠も先程とは違いどことなく表情に影があった。  穂波は漆黒の封筒をそのまま悠に手渡す。  封は蝋で焼印されていて、今の時代に似つかわしくないほど滑稽なものだった。同時に切手や消印などという記しもなければ、宛先も書かれていない。  開封して中身を一通り読み上げた悠に言葉はない。 「仕事か?」  沈黙する悠に凱はにやりと問いかけた。 「うん困ったね――――――今晩だ」  桜満は誰もいないメディカルホームのラウンジのソファに座って一人待機していた。  まさかとは思っていたが、やはり桜満にも仕事が回ってきたのだ。  面接初日、雇用が決定し初の仕事である。  しかもすでに時刻は真夜中。今日が終る前ではあるが、仕事が終っているころには今日も終っているだろう。 そのため終電はとっくに出てしまっていて、自宅へ帰ることはできなくなってしまっていた。  届いた仕事は急なものだったようで、夕食を抜かして桜満以外の三人は準備に取り掛かってしまった。もちろん桜満も同様に夕食をとってはいない。  初仕事でしかも初日の桜満にとって手伝うことなど一つもなく、今はただ三人の準備が整うのを待つしかなかった。  静まり返るラウンジは、何か悲劇が起きる前触れかのように息をひそめていた。 「緊張してる?」  待機していた桜満の横に、一足早く準備を終らせたらしい悠が腰を下ろした。  悠の格好は先ほどと同じで、西洋の雰囲気を思わせる服装だ。今の時代このような格好をするものはいないのではないだろうかと思うが、それをいとも簡単に着こなし、違和感がまったくないのは悠が成しえる技なのではないだろうかと思わせる。 「はい少しだけ、でも悠さんも一人で作業するのは緊張すんじゃないですか?」  実際のところ悠がどのようにして、どういった仕事内容をこなしているかはまったくわかっていなかった。  先ほど届いた依頼の内容も詳しくは教えてもらえず、悠が桜満へ出した支持は、現場への関係者以外の立ち入り禁止規制のみだった。  しかも桜満自身も現場内へは入ってはいけないというのだ。緊張というよりも、疑問や興味の方が意識され、少々楽しみにしている風な桜満自身がそこにはいた。 「僕はもう慣れたかな、昔からしている仕事だから」 「どれくらいからやってるんですか?」  どう見ても自分と同い年くらいにしか見えない青年が、昔からとはいったいどういうことなのだろうかと、桜満はまたも興味を湧かせる。  しかも桜満の想像はまたも方向性がどこかまがっていた。  悠に昔からなどと言われると、アメリカの少年が新聞を配達先の庭先へ軽快に投げていく様子を思い浮かべているのだ。  しかしその妄想も、悠の先ほどとは違った様子に消え失せる。 「ずっと昔、生まれたときからずっと。そして今後も、ずっとね」 「ずっと……?」  悠は切ないくらい玲瓏な姿で、ここにる桜満以外の人間へと話しかけているような様子だった。それは桜満自身どこか遠くを感じてしまうほどで、今離れて暮らす母を思うような感覚に似ていて、自分はここまで母が恋しかったのだろうかと思い直してしまう。 「変?一つのことに執着するようなことは変に感じる?」  悠は心配事があるかのように桜満に問う。 「執着ですか?えーっと、俺は……」  なんと答えていいか戸惑う桜満だが、それを答えようと口を開きかけたときだった。 「はーい、凱様準備完了いたしました!」  絶妙なタイミングで入ってきた凱に、桜満は答えにつまり、その機会をなくしてしまった。  嘆息するようなそぶりを見せ、悠は凱に向き直る。  凱も先ほどとは変わらず黒のスーツに、首にチョーカーのままで、一風変わった人を醸し出している。 「もういいの?時間があまりなかったけど大丈夫?」  今の悠に切なさを感じさせる態度は見て取れない。 「在庫がけっこうあったからな、俺の方は万全。あとは穂波氏のみ」  ソファにどさりと座り込み、赤髪をかき上げる凱はまさに夜型といった感じだ。  しかし桜満は出会ってから数時間という制限もあることながら、この男にはなかなか親しみを感じることができなかった。 恐怖とは違い、相手が自分を好んでないような気がしてならないのだ。現に今でも殺気さえ交るような視線を桜満に向けている。  今までの人生の中で、ここまで人に嫌われたような態度をとられるのは初めてだったし、それは桜満にとって不思議でならなかった。 「凱どうしたの。桜に何か含むことでもあるの?」  両者の少し異様な雰囲気に、悠が気づいていないということはなかったようだ。同時にそれが、凱の桜満へ対する態度の異様さを裏付けている。  やはり同じ職場で働くもの同士、いざこざや仲間割れなどがあれば、仕事にも影響がでることがあるだろう。しかも人数の少ないこの会社にいたってはなおさらだった。  悠の問いに凱はばつの悪そうな態度で口ごもる。 「俺はただ」 「ただ?」 「正々堂々と勝負しようと思っているだけだ」 「勝負って俺とですか?」  桜満は何を言われるかと思えば、まったくもって予想していない回答に面食らう。  悠もそれは同じだったらしく、桜満と目をあわせて何のことだか首をかしげて考える。しかし当然のことながら、思いつく当てはまったくなかった。むしろあってほしくなかった。 「凱、いい加減にしなさいよ。自分勝手なことばかり言うなんて呆れるわ」  ようやく準備の整い終わった穂波が、話を聞いていたのか割って入ってきた。 「だって悠が……!」 「僕が?」  悠も自分の名前が出てきたことに少々驚いている様子で、さらに首をかしげた。 「凱は桜満くんに優しくする悠さんを見て、その桜満くんに嫉妬しているのよ」  仰天したのは自分だけだろうかと、桜満は目を見張った。  まさか男に嫉妬されるとは考えもしない。それはやはり悠も同じようで、あいた口がふさがらない状態だ。 「ばっ、か!お前、穂波何言ってっ!」  慌てる凱の顔は、本人の真っ赤な髪と同様に、顔を爆発させた。 「嫉妬なんてどうしたの?」  慌てふためく凱とは対照的に、悠は冷静に対処しようとする。 「し、してねぇよ!嫉妬なんてしてねぇ!」  自棄になっているような凱は、ソファの周りをぐるぐると回り始めてし、熱を冷ますどころか、さらに熱気を帯びていっているようだ。しかしその瞬間だった。 「凱、変だよ?」  悠の一言は、凱の心臓を一突きする。真夜中とは思えないほど明るくホットな雰囲気になったラウンジは、テレビの消音ボタンを押したように沈黙が流れた。  凱が今負った心の傷の原因に、桜満は己が少なからず関わってしまったことで、さらに凱との関係が悪化せざる負えない状態になってしまっただろうと確信していた。  仕事現場へは穂波が運転する黒いミニバンでの移動だった。  後部座席に悠と桜満の二人で乗り込むと、凱はやはり面白くないようだ。  穂波の言葉で仕方なく助手席へ乗り込りこんではいるが、バックミラーから後部座席への視線は鋭い。 「悠さん、それって仕事に使うんですか?」  その視線をどうにか避けようと、桜満は悠が唯一持ってきた黒い布を指す。  桜満の記憶の中にも、それと似たようなものを見たことがあった。高校時代に剣道部の部員たちが、竹刀を入れていたのは誰もが見ていただろう。 「うん、そうだよ」 (なにに使うんだろ)  仕事内容が秘密なのだといわれて、聞くことができない。  いつかは教えてくれるのだろうと、しつこくは詮索しなかったがやはり気になって、悠が持つ黒い布をちらちらと何度も盗み見た。  現場へは十五分足らずで到着し、車は都内でも随一の進学高校の校門前で止まった。  すでに誰もいない校内は、避難出口を知らせる緑色のライトで異様な雰囲気を漂わせていて、夏の肝試しにはもってこいの場所だった。  月の明かりに照らし出された校舎は少なくとも闇ではなく、映し出されるシルエットに演劇の舞台を思わせた。 「ここって確かこの前、殺人事件があった場所の近くでしたよね」  桜満が大学を中退する二日ほど前に起きた殺人事件は、新聞やテレビのニュースなどで大きく報じられ、残酷な未解決殺人として事件が過ぎて四日たった今でも大きく取り上げられていた。  犯人は未だに見つからないと世間では警戒されていて、警察の方も非難を浴びずにはいられない様子だった。 「うん、そうだよ」 「犯人まだ見つかってないですよね、危なくないですか?すごい状態だったってテレビでもやってましたけど、ここ現場近いし」  あたりを見渡すが、桜満の目には月に照らし出された不気味に光るコンクリートの校舎しか移らなかった。  人影といえば、一緒に同行しているメディカルホームの三人のみで、虫の鳴き声一つしない。  殺人が行われたであろう現場の近くに来れば、多少なりとも警戒してしまう。犯人が捕まっていないとなればなおさらだ。 「大丈夫だよ、安心して」 「は、はい」  自分以外がまったくその殺人者に対しての恐怖を微塵も感じていないようで、桜満は自分が臆病すぎるのかと多少なりとも恥じた。下を向いて、少しでも表情を悟られないようにする。 「平気?ここで桜には待っていてもらう形になるんだけど」  悠が立ち止まったのは校舎正面の生徒玄関前だった。  当たり前ではあるが、辺りには生徒や教師の姿はなく、灯りといえば非常灯の光のみで、しかも電球が切れかかっているのか、ちかちかと点滅している。 「こ、ここでですか?」  意識はしていないが、桜満は声が震えているのがわかった。  仕事現場が高校内ということを今さっき把握し、桜満ただ一人が外での作業と言われ、しかもいきなりの場所指定に内心嘆息してしまう。 「桜満くんはここで私たち以外の人間が、この校舎の中に入らないようにしていてもらいたいの。入り口はここ以外施錠してあるから、不法侵入者意外は立ち入りできないはずよ。だからここだけを見張っていればいいわ。あと大きな物音が聞こえても気にしないで、中には入ってこないようにね。もし万が一私たち以外の人間が来て何か問われても、私たちのことは決して話さないこと」 「じゃぁ何か聞かれたらどうすれば?」  さすがにこんな時間だ。説明しだいでは通報される恐れもあるだろう。むしろ敷地内に立ち入ることは許可されているのだろうかと慌てだす。 「自分の身を守る説明だけして、追い払ってちょうだい」 「追い払うって……」 「がんばって」  月光の下で悠が桜満に微笑みかけてくれたが、不安が消し去ってくれはしなかった。  すべて説明し終えると、穂波は折りたたみ式の携帯電話を桜満に渡してくれた。暗闇でよく見えないが、色はピンク色のようだ。 (……古い) 「これは緊急時に使ってね。番号は私の携帯しか登録していないから。あと何か質問はある?」 「え、えーっと……どのくらいかかりますか?」  質問らしい質問を考えられず、早く終らせて帰りたいという思いから出てしまった言葉を口にする。それを察したのか悠は心配そうに答えた。 「なるべくすぐ終らせるようにするけど、もし不安なら穂波さんに一緒に残ってもらってもかまわないけど、どうする?」  さすがの桜満でもそれだけは断固拒否する姿勢をとった。いくらどんなに怖がりといえども、自分よりもか細い女性に付き添ってもらうなど、恥ずかしいことこの上なかった。これはあくまでも仕事で、ここは我慢するべきところだと自分に言いつける。 「いいえ!一人で大丈夫ですっ!」  無理をしているのが見透かされているようだが、そこはあえて誰もふれない。 「じゃぁ何かあったら電話してね、すぐ戻るようにするから」 「はいっ」  桜満が返事をすると、ホームスタッフは悠を先頭に、夜の校舎がぽっかり闇に呑まれたような暗い穴を進んでいった。 「まだ、終るわけないよな」  悠たちが公舎内へ入っていって十五分。すでに桜満は飽きていた。  飽きるというより不安と緊張が入り混じり、それに体がついていかなくなったのだ。  脱力するかのように地面にしゃがみこむ。  自分たち以外を立ち入らせないようにするのが仕事というが、こんな真夜中に、しかも殺人事件の起きた現場のすぐそばにある高校になど、誰も近寄ることなどないと思ってしまう。  いたとしても興味本位で近づくいたずら好きの在校生や、社会から拒絶されるような不良などそんなところだろう。  実際今のところ誰も目につくような人間は現れなし、動物も見あたらない。 「でも、本来こんな時間に校内入っていいのか?」  警備会社でもあるまいし、残業する職員でさえも帰宅した零時過ぎに、いったい何の仕事があるというのだろうと、桜満は改めて疑問に思った。 「関係者ってわけでもないだろうし」  本来正面玄関も施錠されているはずなのに、扉は簡単に開いた。桜満がしっかり見ていなかったせいもあるが、誰かが鍵を持っていたかは定かではない。しかし学校関係者でもない彼らが、それを持っているとは考えにくかった。  教えられないといわれた仕事が、今行われているのであろう校舎からは何の音もせず、ただ静かに夜を過ごしていた。  ふと桜満は頭上を見上げると、そこには満面に輝く星空と、まだ完全な姿ではない月が雲の間から姿を見せる。  故郷とは違う夜空に目を細め、また故郷とは違う夜夏の匂いをかいだ。 「ぜんぜん違うんだなぁ」  自分の発した言葉にため息をつきながらも、目を空から動かすことはなく、名前も知らない星座を指でなぞってみたりしていた。  だがそれを動かさずにはいられない事態が起こったのは、桜満がちょうどどの季節でも見ることのできる星を指差したときだった。  人の歩く早さと同じようなリズムで、土をける音が桜満に近づいてきたのだ。 「だ、だだだだだだだれっ!」  急いで立ち上がり、唯一鍵のかかっていない正面玄関を背に音のする方を振り返る。  ここ以外は出入りできないのだと穂波が言ったことを思い出せば、この音を出している正体が悠たちでないのは明らかだ。それを裏付けるかのように音は一つしかしない。  一気に体中を緊張の糸で縛られ、携帯電話を片手に構える姿勢になった。  誰も近寄ることなどないと思っていただけあって、それを覆す状態にやや焦る。  音はだんだんと大きくなり、近寄ってくるのがわかる。それは間違いなく桜満の方へと歩みを寄せてきていた。 (殺人犯じゃありませんように!)  祈る思いで目を見開き、音の主を探した。  そしてそれは体育館側から、小さなオレンジ色の光を操り姿を現した。 「君こんな時間になにしているんだね」 「へ?」  間抜けな声が漏れる。  現れたのは警備会社の制服を着た男で、見た目どおりの警備会社の人間だった。  男は持っていた懐中電灯の明かりを桜満の顔に向ける。受ける桜満はまぶしくて片手で顔を覆った。 「君ここの学生か?いったいなにをしているんだ」  そんな桜満に気づき光を下に向けて、数歩のところで向き合う。  半年ほど前に高校を卒業した桜満が、その見た目在学生と思われるのも無理は無い。半年とは言うものの、その月日は桜満の体をさして成長させてはくれなかった。 「え、いや、えーっと、そのぉ、ここの学生じゃありません」  これが緊急事態に値するかどうかはわからなかったが、桜満は携帯で穂波に連絡を取ることはできないような気がしていた。おそらく警備会社の男がそれをさせない。  あたふたと落ち着きのない桜満に、男はため息をついた。みれば施錠してあるはずの扉は開け放っていて、誰が見ても自体は明らかである。 「ここの学生じゃないならこんなところになにをしていたんだ?鍵も開いてるし、他に仲間でもいるのか」  問い詰める警備員に、なんと答えればいいのか。メディカルホームのことは決して話すなと穂波に言われているため、その選択肢は真っ先に消える。 (身を守る説明ってなんだよ!)  追い払う。それをしなければならないはずだが、桜満はすでに無理だと内心お手上げ状態だった。何しろ相手は学校を警備している警備員なのだから。下手をすれば補導だ。  沈黙する歳若い青年を男は見据えた。 「ここじゃなんだから、中で説明聞こうか」 「え、そんなだめです!中は無理!」  追い払うことすらできないでいるのも厄介だというのに、中に、しかも一緒に入るなんてことは絶対に阻止しなければならなかった。  人を中に入れるな、自分も入るなといわれたのに、それが破られたとき、それは仕事を達成できなかったということだ。役に立たないアルバイト。クビは目前に迫っていた。 「何を訳の分からないことを、いいからおとなしく中に入りなさい」 「だからだめですってぇ!」  背中を押され校内へと促されるが、桜満はなんとか中に入らないよう踏みとどまる。  なんとしても入らない。仕事を首になるわけにはいかないのだ、桜満は全力で拒否した。 「なんなんだねまったく、ほら!」 「うわっ」  ドンと勢いよく桜満の体は警備員に押され片足をつまずきながら、抵抗もむなしく校内へと足を踏み入れてしまった。  暗い玄関。全校生徒の使用する扉がついた下駄箱を背に、校門が玄関のガラス越しに見えた。そしてそれは男の体によって見えなくなる。  男は玄関の扉を閉め、鍵をかけなおした。 (最悪!)  こうなってはどうしようもなかった。  桜満はクビを確信するかのように、男の言うことを素直に聞くことにした。 「こっちだ、ほら。逃げられては困るからな、先に歩いてもらうぞ」  月明かりに照らされた廊下を、桜満は肩を降ろし男より一歩先に歩く。  不思議と外から見たときより中は明るく、人影があれば判断できるほどだ。 (もう終わりだ)  悠たちには顔向けできなかった。  初仕事だというのに、いきなりの失敗に桜満は落ち込む。どうせなら穂波に一緒にいてもらった方がよかったかもしれない。それならばこの状況よりはマシなことになっていたはずだ。  しかもどこに向かっているか桜満にはわからず、恐らく尋問などされるのだろうな、などとため息をつく。  初めて来る高校だ。内部の知識など桜満にはまったくない。大体見当はつくが、はっきりとはわからなかった。途中中庭を隔てる廊下を通り、階段を一つ上がった。そしてまた長い廊下を通り、また階段。  今は三階の廊下を歩いていた。誰もいない真夜中の校内に足音が響く。 (どこにいくんだろ、三階だよな)  三階には二年生の教室があり、二のつく数字を先頭にした案内表示板が一定の距離を置き、壁の上に並んでいる。  それを最後の九まで見届けると、また階段を一つ上がった。四階だ。  だんだん桜満もおかしいと思ってきたのか、口を開いた。 「ここ四階ですよね、どこにいくんですか?」  警備員が桜満から話を聞くために校内に連れてこられたが、本来ならば一階にある用務員室や職員室などに行くはずだ。一階でなくてももしくは二階。用事もないだろう三階、四階まで行くのは少々変だった。 「いいから歩け」  冷たく返された言葉に、先ほどから懐き始めていた疑問を解く答えはない。  仕方なくそのまま廊下の中央まで進んだ。しかしそこで足は止まる。桜満と男のいる廊下の反対側から二つの影が姿を現したからだ。  一人は燃えるような髪をもつ強面な男で、黒いスーツを着ていた。  もう一人は雪のような白銀の髪で西洋風の服を着ている。そして片手には日本刀が一振り。 「桜?」  それは今一番顔向けできない人物、メディカルホーム代表の大神悠と、そのアシスタントの津守凱だった。 「すみません、どうし――――――」 「桜逃げろっ!」  それは突然だった。  悠の表情が一挙に険しくなり、叫んだときだ。目の前を人の手が横切る。 「え?」  腕が首を後ろに引き寄せ、桜満の体は腕の主に捕まる。  耳元では人の吐息が聞こえ、さらに舌鼓する音を聞く。 「――――――な、に?」  首を絞めらた桜満は、振り向くことができない。しかしそれを見ることはできた。  廊下の窓に映るそれは、人ではなかった。
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