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第三番
「なぁ悠、なんであいつを採用したんだ?」
桜満を一人正面玄関前へ残して校内へ進入した三人は、窓からもれる月明かりを一身に浴びる悠を先頭に、一階の中央廊下を歩いていた。
後方の穂波が懐中電灯で先を照らし出し、殿を務めている。
「桜のこと?」
それは名前を出さなくともわかることだったが、急に雇用が決定した楊梅桜満のことを聞かれているのだ。背後から凱の声が背中にぶつかり、前を向いたまま悠は花の名前を口にする。
代表自ら何の前触れもなく、大した面接も行わずに即雇用決定。
確かに人員不足で早めのアシスタント動因を求めてはいたが、メディカルホームに勤めるにあたって必要不可欠なチェック項目を、一つもクリアしていない人物を採用するなど例がなかった。しかもそのチェックすら桜満は受けていないのだ。
「今までなかっただろ、“普通”のやつを入れたことなんて」
「それは私も思いました。チェックなしでなんて、彼大丈夫なんですか?」
誰もいない廊下に響く声たちは、自分たち以外の“人間”が誰もいないことを知っていて、感情も隠さずにぶつかり合い、廊下の奥へと吸い込まれていく。
「二人は反対?桜を入れたこと」
悠の言葉から感情は感じ取れず、怒っているのか、喜んでいるのかわからない。
「反対って、悠が入れたんなら俺たちに反対する選択肢はないと思うけど」
ホームに関する全ての決定権は代表である大神悠にあり、それを拒否できるものはホーム内では存在しない。それは存在すること自体が否定的なことだ。これは悠がメディカルホームの代表になったずっと昔からの理であり、因循な考えなどとはいえないことだった。
誰もが承知の上で、逆らうことなど知らない。
「そうです、もし反対してもいいというのならしますけど。悠さんは許さないでしょう?」
二人の言葉に悠は笑みを作る。自然に作ったそれを消すことはなく、口調がそれと類似する。だがそれを凱と穂波が窺い見ることができないほど、悠の胸奥に隠されていた。
「うん、そうだね。でもね――――――桜は大丈夫だと思うよ」
一拍おいて悠が口にしたその言葉を、凱は信じられないといわんばかりの態度で喧噪する。
「それってどういう意味だよ」
悠を追い越してその目の前に向かい合った凱は、目前にした玲瓏な瞳と己の炯眼と合わせる。
「ちょっと凱!」
凱のいきり立った行動を阻止しようとした穂波の腕など意味はなく、軽くあしらわれてしまい、凱はさらに悠へ詰め寄る。
「あいつは違う、俺たちとは違うんだ!そうだろ?」
凱の激高した様子はまるで燃えたぎる赤い炎だ。
囂々と燃える炎を見つめる月のグレーは、それを和らげることはできない。炎が求める首肯もあえてしなかった。
「違わない」
「違うだろ!全然、全く。能力なんて微塵も感じない。何で、なんであいつにそこまで肩入れするんだよ?」
「凱……?」
かつて彼がここまで自分にたてつく事があっただろうかと、悠は己の短い人生を振り返る。しかしそれを見つけることはできず、悲しい過去が走馬灯のようによみがえった。
思い出すのは自分を忌み嫌っていた大人たちの目。
ヒトの目だった。
ヒトが己を睥睨する。
それを思い出すたびに意識が朦朧とする。
知らないヒトの目が今日も明日も己を睨む。
そして銀盤の音色。
音色は自分を包む。
凱の言葉が頭に入る。
「なんであいつなんか」
どこか寂しげな言葉。しかし決して悠が目を離すことはなかった。
「―――大丈夫だよ凱、安心して?」
悠の声は穏やかだ。それでいて暖かい。
「何が……」
「ありがとう、凱は僕のことを心配してくれているんだよね?いつまたあの状態になるかわからないから」
生まれる前から嫌悪され、存在を拒否されてきた、悠自身唾棄する己の本来の姿。
黒く浅ましい血の臭い。醜悪な闇。
それを思い出すだけで、悠は己が周囲の人間にとって、どれだけ破滅的な存在か思い知らされてしまう。そんな状態を知っている凱。そして穂波。
なぜ二人が己の浅ましさを知っているのに、それほどまでに心にかけて思いわずらってくれるのか。悠はその理由をあえて確かめるようなことはしない。
それは仲間の声に出さない言葉を、悠本人が知っているからだ。
月明かりが全員の横顔を照らし出し、秀麗で誰をも魅了する眉目は、凱に笑いかけた。
「でもね凱、大丈夫。桜は――――――」
それに続く言葉は出てこなかった。いや、出さなかったといった方が正しいだろう。
悠の表情は一変し、その相貌は鋭く冷たい。
「悠?」
先ほどとの態度の違いに戸惑う凱だが、すぐに異変が起きたことを察した。そばにいる穂波もそれを感じ取り、緊張感が冷たく波のように走る。
「やつだ、ここにいる」
「くそっ、やはりいやがったのか」
三人の周りに異変はない。
周囲を模索するかのように、凱は辺りを見渡した。
廊下の奥、教室、しかしどこにも探している異変はなく、周りは一様に沈黙を守っていた。
「どの辺りかわかりますか?私たちの現在位置はちょうど学校中央の二階です」
タブレットに映し出された図を片手に、穂波も周囲を注意深く探る。
「……下だ」
探す異変の位置が確認できたのか、その場を足早に移動する悠に残る二人もあとを追う。
依然三人の周囲は深々とした様子で静寂さを保っていた。
なんの違和感もなく、朝になれば学生達が登校し、教員が授業を行う普通の高校だ。
一階に通じる階段を降りるが、悠の足はそこで止まった。
「どうした?」
立ち止まる悠に凱も素早く対応し、悠の応対を待つ。
「移動してる」
「こちらに気がついたんでしょうか」
「わからない」
「どうする?」
暗い窓のない階段の踊り場で沈黙がながれた。
「――――――穂波さん、桜の様子を見にいってくれない?胸騒ぎがするんだ」
正面玄関に一人残している桜満のことは、ここにいる誰もが気がかりだった。
桜満を認めていない凱ですらそうだ。
何しろ彼らが探している異変に遭遇してしまえば、命などないに等しいのだから。
「わかりました」
返事をすると、穂波はそのまま急ぎ正面玄関へと急ぎ走った。
「僕たちは上だ」
「ああ」
残る二人は来た方へ戻り、続く階段を上へと進む。何段も飛ばして上がる階段は、あっという間に登り切ってしまうほどに短い。そんな短い階段を登り切り、四階へ出た時には、異常はすぐに感じ取れた。
悠と凱の耳には確かに人の声が聞こえてきて、それがすぐ近くだと確認できる。
このような真夜中に、校内で人の声を出す生き物など限られていた。
声は二つ。慎重に足を進める。
「やつか?」
「多分」
角を曲がり、廊下へ出たときだ。
対面する方向には、声と同じく二つの人影が見える。
二人は息を呑み、その姿を確かめた。
悠は片手に納めている日本刀の存在を忘れないように、握る力を込める。
すでに包んでいた布は取りあしらわれ、黒塗りの鞘に古く綻びのある柄に、固く重苦しい鍔は見事な細工だ。
異国の服装には不似合いだろうと思われる露になった細身のシルエットを、悠は艶麗な姿に忍ばせ、完全に己のものにしていた。
「桜?」
春に咲く花の名前を持ち己を本来の姿から遠ざけ、悠にとってこの世でもっとも大切で、なにより守るべき存在の人物がそこにはいた。
その彼が悠の存在に気がついた。
桜満の表情は苦々しく、おそらく入るなといわれた校舎内に入ってしまったことを申し訳なく思っているのだろう。
謝罪の言葉を口にしようとするが、それは悠の声で打ち消される。何故なら桜満の後ろに陣取るもう一つの人影が、自身の存在を主張したからだ。
人影は警備員の格好をしているが、その体はすでに大よそ人とはいえない形をしていた。
醜い腕や足、その相貌は怪物という化け物に酷似している。
紅い瞳はギラリと光り、対峙する二人を睨みつけ、荒がる息を抑えニヤリと不気味な笑みを浮かべる。
そいつは桜満の首を押さえつけ、自らへ強引に引き寄せた。
自分を強烈な力で掴む腕の正体を、振り返り見ることのできない桜満は、すぐ横にある窓のガラスに目を移す。
悲鳴などというものは、まだ余裕のあるものが口にすることのできる言葉で、実際自分の危機に対面してみたものはそれをすることができないことを知る。
桜満もそれは同様で、体は強張り、動かすということ自体を忘れる。
窓ガラスに映るそれは――――――化け物だ。
悠に支持された通り、桜満の様子を確認しに正面玄関へと向かった穂波は、息を上げて一段低い玄関の足場を下りた。
「いない」
外で待機しているはずの桜満の姿はどこにもなく、ガラスの向こうには地獄へと促すような校門が見えた。
「鍵?」
玄関の扉には鍵がかかっていて、穂波にはその鍵をかけていった記憶がなかった。
内側からしか鍵をかけることのできない仕組みになっている扉は、明らかに何者かが校内へと侵入し施錠いたことを意味して、一気に穂波を恐怖の糸で縛りあげる。
穂波は辺りの様子を窺うが、やはり桜満やその他の人間、動物の気配などはまったく感じられず、焦った心臓が早々と全身を打ち付ける。無意識に拳を握り、唇をかみ締めた。
「早く悠さんに知らせないと」
急ぎ元きた廊下を戻ろうと、振り返り走り出そうとしたときだ。
「穂波さん!まって、ちょーっとまって!」
背後から、つまり玄関の扉のある方向から声が聞こえてきた。しかも穂波を呼び止める曇った声で。
驚き振り向いて穂波の目に入ったのは、玄関の扉の向こう側でガラスに張り付くようにこちらを見つめる小学校高学年くらいの少年だった。
「優沙希くん?」
活発な少年を連想させるように、パーカーにハーフパンツといった格好で、息を切らしているのか肩が大きく上下している。
「よかった穂波さん、ちょっとまってください」
安堵の言葉を口にする少年は両手をガラスに貼り付け、穂波に静止を求める。
声が曇って聞こえたのは、ガラス越しに呼び止めたからだったようだ。顔を近づけ息をする少年の熱で、ガラスが白く濁る。
「どうしてここに?」
穂波は走りより、ガラスの壁に阻まれながらも少年に疑問をぶつける。
「久しぶりにホームの方へ顔を出しに行ったら誰もいなくて。しかもラウンジのテーブルにはこれがあるし、仕事だってのはわかりましたから。呼び出しはありませんでしたけど、知っちゃった以上来ないわけにはいかないかなぁって」
少年が手に持っていたのは、夕刻メディカルホームへ本部から届けられた依頼書である黒い封筒だった。ホームの人間なら黒い封筒の意味は誰でも知っていて、それを持っている少年はにこりと笑った。
「今回は急な依頼だったから要請はしなかったの」
「急ですか。まぁまだ見習いでしかない僕ですから仕方ありませんけど。それより急いでらっしゃるみたいで申し訳ないんですけど、中に入れてもらえませんか?」
鍵を指差し合図する少年は、手に持っていた封筒を背負っていたリュックにしまう。リュックは少年の体には大きいようで、後ろから見れば亀のようにも見えてしまうほどだ。
「今開けるわ」
そう言って穂波は正面玄関の扉を開放する。
固定されていた金属の板が外れ、扉は外側へ引かれた。篭っていた中の空気が外に漏れ、外の涼しい空気が中へと入り込む。
「ありがとうございました。えーっとじゃぁ移動しながらでも今の状況を聞かせていただきませんか?」
「そうね、急いで悠さんのところまで戻らないと」
頷き目でお互いを確認すると、走って校内の奥へと進んでいった。
少年は通常時に外で履いている靴は脱がず、そのまま土足で校内へ足を踏み入れる。
それは先ほどから校内にいた穂波も同様であり、今も中にいるであろう他のメンバーも同じだ。悪気などはまったくなく、むしろ靴を脱ぐという行為自体が彼らにとっては理屈として考えにくいことのようだった。
「どんな状況なんですか?」
周囲の様子を窺いつつ、少年は穂波に問う。
「あまりいいとは言えないわ。今日新しくアルバイトの子が入ったんだけど、その子がクランケに接触してしまったかもしれないの」
「新しい人?でも能力者なんですよね?そう簡単にやられたりはしないんじゃ」
新しく入ったアルバイト、すなわち桜満のことであるが、例のない雇用であったため嫌でも話は長引いてしまう。今は彼のことにつて詳しく説明している暇はなく、それを察した少年もあえて詮索はしない。
「えっと、詳しく説明はできないけど能力者ではないの。一人で見張り役として残ってもらっていて、それで私たちが中を調べている隙に多分クランケに」
「それってかなり危険な状況じゃないですか?餓えてるクランケに出会えばひとたまりもないですよ」
少年の顔が一気に曇る。何か恐ろしいことでも想像しているのか、身震いさえしてしまっている。
「だから早く悠さんにこのことを知らせないと」
「じゃぁさっさと合流しちゃいましょう。どこにいるんですか?」
「多分上よ。詳しい場所はわからないから探さないと」
穂波が悠たちと別れた中央階段を上へと上る。
悠、もしくは桜満が今どこにいるか分からない以上、穂波と少年は一階上るごとに続く廊下へ出て、その階を確認しながら進まなければならなかった。
二階三階に異常はなく、探している彼らの気配はない。
「そういえば結城さんはどうしました?」
少年は穂波にとって聞きなれた一人の名前を口に出した。
「彼はまだ戻らないわ。先回の仕事も、まだ傷が癒えていないせいで復帰は延期されたから」
「連絡は?結城さんのことだからもうとっくに治ってると思ったんですけど」
少年は驚いて、丸く目を見開く。
「そうね。でもホームには直接連絡は入ってないわ。もしかしたら悠さんには入っているかもしれないけど」
「結城さんもかなり悠さんびいきですからね……」
ズドンッ
二人の足元が大きく揺れ、強烈な破壊音が響いた。
同時にガラスが砕ける音が響き、廊下の窓から砕けたガラスの破片が落ちてくるを二人は見る。ぱらぱらと月の光を反射して落下する破片は雨のように降った。
「この上だ!」
少年と穂波は飛び出す。
四階へと通じる階段を一気に駆け上がり、広がる惨劇を目の当たりにした。
廊下の中央に位置してあった窓ガラスはすべて消えうせ、枠のみが残っている状態だ。かろうじて後に残った窓にもひびが入り、触ればすぐにでも失われてしまうほど脆くなっていた。
コンクリートでできているはずの床には、何かが落下したような大きなクレーターができていて、それは壁や天井にまで広がっており、脆くも崩れ去っている。
大きな衝撃が加わった四階廊下は、その堅牢なつくりが無残にも穿孔で人が立ち入れない場所になってしまっていた。
「皆は?」
穂波は廊下や教室を見渡すが、探している人物が一人も見当たらない。それどころか生き物の存在自体が感じられなかった。
コンクリートのかすかに崩れる音が耳に入る。
ズンッ
またも地面が揺れ、体がバランスを崩す。二人はよろめきながらも体制を立て直した。
天井にはさらに亀裂が走り、崩れたコンクリートが細かく割れ落ちてくる。
穂波は上を見上げ、驚愕しながら確信した。
「―――屋上」
二人は同時に駆け出した。晩夏の夜に暗く窓のない階段を駆け上がる。
早く屋上にたどり着きたいのに、コンクリートの段がこれほどまで永久に感じたことはなかっただろう。中腹の踊り場でさらに上へ上る。
屋上へ通じる扉が二人の目に入り、それは外側へと開放されていた。
喧騒な外の様子は窺い知れない。二人は上りきってそのまま出口へ飛びこんだ。
「ふざけるな!」
穂波が耳にした第一声は、今まで聞いたことのないほど怒りに満ちた悠の言葉だった。
そしてそこにはいた。
メディカルホームのスタッフたちが何度も戦っていたもの。
そしてこれからもそうであろうものが。
すでに変化しきったものは人の形などしていなかった。
体中の盛り上がった筋肉に、それとは不似合いな長い手足。瞳は紅く、口には鋭く光る牙が見えた。
掴まった桜満は後ろから首を押さえられ、宙吊りにされている。その首をつかんでいる手は桜満の顔の何倍も大きい。
「よう、遅かったじゃねぇか穂波。ついでになんで優沙希がいるかはしらねぇけど」
屋上に着いた穂波と少年に気づいた凱は鼻で笑った。
穂波が報告しようとしていたことが、すでに遅いことを物語っている。
「けっこうやばい状況じゃないですか」
少年は苦笑いをして凱の横に立つが、いくら子供とはいえ、凱との身長差はかなりのものだった。穂波も状況把握に精一杯努めるが、目の前の現状以外に得て有するものはないだろう。
悠と対峙しているものは、今桜満を片手に捕らえ、不適な笑みを浮かべている。
この世のものとは思えないほど邪悪で陰険な化け物で、酷く浅ましい生物だ。
巨大な腕を何とか外せないかともがく桜満だが、その生物が人離れしているのは、見た目だけでなく、力の方も比例していた。
腕は微動だにせず、動く桜満の首にさらに鋭利な爪が食い込んでいく。
見ている側ですら苦しくなるような状況を、一刻も早く助け出してやりたいほどだ。
それを酷薄な表情で睨みつけ、片手に抜き身の日本刀を一振り構えている悠に、近づけるものは誰もいない。それは鋭く光り、刃こぼれなど一切ない。
「桜満くんは大丈夫なの?」
「あぁ一応まだ傷一つないはずだ。あいつが餌にするらしいからな」
凱は唾を吐くように言い放って、化け物を顎で指す。
「僕が行きましょうか?背後から一発くらいなら大丈夫ですけど」
少年は名乗りをあげて、背負っているリュックから茶色いホルスターを取り出す。
それにはすでに黒い銃が収納されており、ホルスターと同じ革のボタンでしっかりと固定されていた。
腰にヒップホルスターをベルトのように締め、納まっている銃を抜き取り安全装置を外す。少年には多少重いのか、両手でグリップを握った。
「悠どうする」
凱の問いかけに悠は反応するが、振り向きはしなかった。その視線は化け物と桜満を離れない。
「わかった。優沙希お願い、そのあと凱と穂波さんも桜を頼んだよ」
小声で四人にしか聞こえないよう言い渡す。
顧慮することはなく、速やかに全員へと指示を出す悠に迷いはない。
屋上に吹き抜ける常夜の空気は、晩夏の星を露わにするほど澄み切っていた。
「了解!」
威勢良く返事をする少年に続き、凱と穂波もうなずく。
一層緊張感が増し、身構えも変わる。
少年はいつでも動き出せるように体制を整え、化け物と悠を交互に見合う。
「……いくよ!」
少年は息を吐き、神経を集中させる。そしてそのまま化け物ではなく、その先を見据えた。
少年が一歩足を踏み出すと、何かが切れたような音がぶつりとかすかに響く。
その足を地に付ける前に、少年の行動は開始されていた。すでに少年の足が付いているはずコンクリート製の地面には、何も接触していない。その先の腿、連結する胴体、腕すら見当たらない。
一つの瞬きもしないうちに、少年のその体は消え去っていた。何の乱れもなく、空気も動いた記憶を持たないくらいに、自然と消えうせたのだ。
消えた少年を探す化け物。しかし視界のどこにも見当たりはしない。
「こっちだよ」
ドンッ!
少年の一言と、一発の銃声が雷鳴のごとく轟き響いたのはほぼ同時だった。
鳴った銃声と共に爆発した弾丸は、化け物のちょうど左大腿部にめり込み、発達した筋肉を引き裂いていた。
化け物がよろめきながら呻き声を上げ、同時に悠が地面を蹴る。
消えた少年の姿を視界に入れた化け物はその場を一瞬で立ち退き、桜満は大きく揺さぶられてうめき声を上げる。
少年は撃ちはなった銃の衝撃反動で両腕が頭の上まで持ち上がり、後ろに一歩引いていた。白銀の凄艶が一跳ねして、化け物の腕の位置より高く飛ぶ。
悠の振り上げた一筋が一線を描いた。
グオォォォォォォォォォ――――――!
撫でる様に刃を動かし、化け物の頑丈な皮膚や骨を両断すると、皮の一枚も残さず切られた腕が本体から離れていった。噴出す血に勢いはなく、しぶきを上げることはない。
化け物は裂帛した声を上げその場に倒れこみ、その衝撃で地面が揺れる。
暖かい赤に頬を塗らされ、桜満は朦朧とする意識の中、化け物の呻き声だけを聞いた。
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