第四番

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第四番

 肘から下の腕を切り落とされ、左足を撃たれた化け物は、悲痛な悲鳴を吼え倒れた。  黒く泥にも似た血が切断面からボタボタとたれながら、地面を血の赤で染める。  腕の力から解放された桜満は一瞬気が遠くなり、目まいにも似た感覚で目の前が白くぼやけた。首で塞き止められていた血液が一気に体中へ流れ出し、一瞬のうちに酸素が運ばれていく。  桜満は地面へ転げ落ちると思った瞬間、駆け寄る悠の腕に受け止められ、硬いコンクリートからの打撃を逃れた。そのまま桜満の体は、出入り口の目の前へと瞬時に落ち着く。 「桜、平気?」  半眼に千思万考をめぐらせ、腕の存在を確かめる桜満は段々と意識を回復させる。  まっすぐに見下ろす月のグレーと目を合わせた。  意識は回復したものの、声を出すことを忘れているようで、見つめる悠の月を瞬きせずに見返えしている。まだ自分に何が起こったのか理解しきれていない桜満に、悠は片手で彼の頬に触れた。 「まだきますよ。悠さん僕は大丈夫ですけど」  少年は少しばかりしびれた手で再度グリップを握りなおす。うなり声を上げ、腹這いになりもだえる化け物に熱くなった銃口を向けた。 「うん、でもあとは僕がやる。桜を頼むよ」  化け物の腕を切り裂いた滑稽な刀の刃は、その鮮血が滴り落ち、鉄臭い血臭を放ちながら妖しく光る。  悠は目配せしながら穂波と凱へ桜満の体を預け、握り変えた柄へ一心に力を込め脇に構えた。 「わかりました」  まだまだ見習いである少年は、淀みのない悠の態度に素直に頷く。 「桜満くん歩ける?」  促す穂波と、腕を貸す凱に支えられながらも立ち上がる桜満は、常闇に立つ秀麗な青年を呆然と見つめた。 「一体、何が……」  圧倒的な力から解放された桜満は、校門前に待機していたときからの記憶が入り混じり、混乱せざる負えなかった。今でも目の前ではグラフィック映像のような化け物が蠢き、その怒りの声が頭の奥まで響いてくるのだ。 「ごめんね、それは後でちゃんと説明するから」  それに対し悠の声はとても現実的で、混乱した桜満にはクイズ番組の答えはコマーシャルの後、と言われるのと同じくらい俗化なものだった。  グガァァァァァァ―――!  起き上がり体勢を立て直した化け物が怒りを吼え、目の前にいる悠を鋭く睨む。  その紅い眼は鈍く光り、悠一人を一点に標的を定めたようだった。  それを承知の上なのか、悠は刃に張り付く血を振り払う。  姿勢を低くし、両手で刀を横一文字に構えピタリと止まる。  荒々しく胸と肩を上下させる化け物は、右腕をなくした状態であるにもかかわらず、平然と立ち構えていた。切られた瞬間は痛みに悶えてはいたものの、今となっては流れる血も一滴としてない。 「何なんですか、あれ……」  桜満は悠と対峙している化け物を確認すると、自分が先ほどまであの化け物に捕らわれていたのだと思い出し、全身の毛が逆立つ感覚を覚える。真冬でもないのに体中が震え上がり、歯と歯がぶつかり合う音が聞こえた。 「あれは通称クランケ。人を喰らう化け物よ」  思わず口から出ていた桜満の疑問は、穂波が素早く答えてくれた。 「クランケ?……だめだ、ぜんぜん頭に入らない………」  しかしそんな親切にも桜満には、苦手な国語の授業であったかのように、右から左へと素通りしていく。ただ茫然と目の前の出来事を、映画の撮影に同行したと思わせることしかできなかった。  ガルァァァァァァ!  クランケと呼ばれる化け物の、怒吼とともに襲い掛ってきた攻撃に、悠は避けることなどせず真正面からその鋭い爪の一撃を刀一振りで受け止めた。  猛獣のような猛烈な攻撃の一撃は、普通の人間ならば一瞬にして引き裂かれるだろうほど強烈で、地に付く足元のコンクリートに、細く深い裂け目を作る。  刃の重なる冷たい音が響き、今度は受け入れた一撃を悠は勢いよく振り払う。  片腕を失ったクランケはバランスを取ることができず、後ろによろめきながら体制を崩した。その隙を見逃すわけはなく、悠は休まず次の攻撃に移る。  化け物の胴体を袈裟懸に斬りつけ、さらにその場よりクランケを遠ざける。  しかしその斬撃は相手を傷つけることはできず、宙を切った。  悠はそのまま刀を片手に走り寄り、その閃光が暗中に光る。 「意味わかんねぇ……」  呟くように、桜満は声を漏らす。 「意味わかんなくても、絶対に目だけは逸らすなよ。悠は俺たちのために戦ってくれてるんだからな」 「俺たち……戦うって、あんな化け物と?どういうことなんですか」 「クランケは人を食べちゃうんです。だから戦う。食べられたくなんかないでしょ?」  苛立つ凱に変わり、幼い少年が桜満に説明した。  誰も少年のことを意に介さないところを見ると、少年もまた関係者らしい事を推測させるのは、桜満でも簡単なことだった。 「食べるって、人を?」  人を食べるのだというのは、あまりにも桜満の常識とはかけ離れており、頭の中を通り過ぎてしまう。そして更に意味を理解しがたい言葉が桜満に向けられる。 「そう人。人間。つまり僕たち。もっと確実的なことを言えば、あなたみたいな普通の人」  間合いを詰め近寄る悠にクランケは、威嚇の怒吼を浴びせるが、動じる気配のない悠にさらに激烈な攻撃を繰り返した。  悠は飛び交う鋭い爪を幾度も刀で止め、ぶつかる刃に火花が散る。  体格の違いにより生じてしまう力のハンデを、真っ向に受け押し出されるが、確実に対応していく悠にはかすり傷など一つもなかった。  大きく振り上げられた化け物の腕は、悠の右胴部を狙い、掻き切ろうと下ろされる。  あと一歩のところでフェンスを背にする悠は寸前に素早く跳躍し、宙へと逃れ一撃をかわした。そのままクランケの背後に降り立つ姿はしなやかで、地に着きそそり立つ姿に影は長く、一瞬にして体から離れた。そして鮮やかに、その憎いクランケの背中へ一刀を振り下ろす。  ウガァッ!  左肩に鮮烈な雷槌にも似た一撃を受け、マラッドは前のめりになりフェンスへぶつかる体を捻る。皮膚を裂き肉を抉った刀の切っ先には、更に生々しい赤が滴り落ちていた。  悠は姿勢を落とし、今一度横に構える刀に力を込め、クランケを見据える。  風に漂う生臭い醜悪な空気とその血臭に、桜満は吐き気を感じた。  その体を自分自身の足だけでは支えられなくなるほど、力が入らなくなるがわかる。しかし両肩を支える凱と穂波の力に地面に膝をつくことはない。 「おいしっかりしろ、意識だけは失うなよ。つれて帰るのも面倒だ」  叱咤する凱に、桜満は文句の一つでも言ってやりたいという気持ちをおこしたが、のどにも出てこなかった。  耳に嫌でも入ってくる刀が肉を引き裂く酷く鈍い音に身を竦ませ、だんだんと気が遠くなっていく。  同じようにこの状況下に置かれているはずのアシスタントの二人と少年を見ると、目もそらさず怯む様子などまったくない。それを見れば、この惨劇に慣れているのだとわかる。 「こんな、これをしっかり……していられるほうがおかしい――――――っ」  桜満は手で鼻と口を覆い、居心地の悪い空気を肺に入り込むのを防ぎたかったが、支えられている状態では到底無理で、息をするのもやっとだった。 「お兄さん、これくらいでへばってたらこの先もたないですよ?」  少年は軽い調子で言うが、桜満には少年の言う“これくらい”という意味でさえ理解できない。 「桜満くん大丈夫?顔色がだいぶ悪いわ。終ったらすぐにホームに戻るから安心して」 「平気ではないです……俺より、悠さんは?」  ここでもまた女性である穂波に心配されてしまうのは情けなく、しかもただ気持ちが悪いだけの桜満より、命の危機ではないかと思われる状況下に置かれた悠の方を心配した方がいいのではないだろうかと思ってしまう。 「悠なら心配いらない。見てわかるだろ、悠の方が圧倒的に有利だ」 「でもあんな化け物相手に一人で」  目下に繰り広げられている鮮烈な戦いは未だ続いて、桜満は目眩さえ感じていた。 「悠さんなら大丈夫よ。あの程度のクランケなら、私たちがサポートしなくてもやれるわ」  穂波の言うとおり、戦局は見るからに悠へ戦いの神が微笑みかけている様子だった。  怯える風もなく、真っ向から戦う妖艶に輝く日本刀を振るう。  スラリとした刀身を横に、凄艶な悠の姿はまったく揺るぎがなく、更なる攻撃をクランケに注ごうとしていた。  振るう白刃は次々に相手を斬りつけ、深い傷を負わせていく。しかしクランケも攻撃の手を休めることはない。軽く斬りつけた程度の傷は、あっという間に癒えて本復しているのだ。  乱獲するかのように怒りを露にし、驀進するクランケは、存在する右腕のみで悠に鋭い爪を向け、不可思議な呼吸をし始めた。悠は一瞬攻撃の動きを止め、先ほどとは異なる動きのクランケを前にそれを見張る。  荒い呼吸が抑えられ、むやみな攻撃も仕掛けてこないクランケが、自身のその口を左右に大きく広げ、笑うような仕草をするのと同時だった。はっと何かを思い出したように、悠は後方に待機している仲間を振り返り大きく叫ぶ。 「皆避けろ!」  悠が叫ぶのと同時に、クランケは大きく息を吸い、膨らませた腹から一気に異物を吐き出した。鋭い牙が覗く巨大な口を通じて、外へ押し出される悪臭を放つ異物に、全員が度胆を抜く。  ジュシュゥゥゥゥゥゥ・・・!  クランケの口から勢いよく吐き出された混濁の液体は、全開にした蛇口の水のように噴出し、桜満たちが背後にしていた屋上の出入り口を、一瞬にして熔けたガラスのように赤く熱発させ、どろどろとした液体に変える。 「おいおい溶けちまったぞっ」  溶けたコンクリートを目の前に凱は驚愕し、地面に伏せた状態から起き上がることができない。さらにその異様な異臭が鼻をつき、支えていたはずの桜満のことなど忘れていた。 「クランケは?」  少年は体勢を立て直し、脈を早める自分を落ち着けるためトリガーに指を掛ける。 「逃げたの?」  穂波も桜満に肩を貸し起き上がるが、すぐさま周囲を確認する。  悠は再びの攻撃に備え前方へ視線を戻すが、そこはすでに虚空を風が切っていた。  クランケの立っていた場所にはたれ落ちた体液が残り、地面には深い裂け目が生じている。  周囲を見渡し気配を探る悠だが、もはやその醜い化け物の姿形は、流れた水のように血なまぐさい臭いと同時に消え去っていた。 「追うのか、悠」 「いや、もうやつの気配はない。多分人間の姿に戻ったんだ。それより桜は、大丈夫?」  悠の刀を鞘に納める仕草に、居合わせる全員から一瞬にして緊張が解ける。  戦いの一幕が終ったことを空気で感じ取ると、安堵の息が口々から漏れた。  悠は桜満の様子を深く伺うが、横では凱が酷薄な表情でそれを一瞥する。 (大丈夫なわけないですよ……)  桜満の言葉にならなかった気持ちはため息として口から出され、気の抜けた体は急に力を失った。肩を借りていた穂波と凱からずれ落ち、地面にしりもちをつく。  次第に目の前は白く輝きだして、耳から入ってくる人の声も耳鳴りのように統一の音に変わり出す。  今の桜満にとって意識を手放すことは簡単にできた。そして地面にうつぶせ状態で気が遠くなるの感じ、目を閉じることすら自然に任せた。  薄くぼんやりとした視界がだんだんと鮮明になっていき、カーテンの隙間から細く伸びた月の光が移る天井に目がさめた桜満の視点が合う。  見慣れない豪華な飾りのある照明に、感覚の知らないベッドが桜満を急に不安で湧き起こした。 「気がついた?」  枕元には人影があり、雪と同じ白銀の髪の持ち主であるホームの代表が、豪華な猫脚の椅子に座って、意識を取り戻した桜満に微笑みかけた。薄暗い部屋には楼台に灯る蝋燭の灯火で、かすかに暖かさを感じる。 「――――――えっと……お、れは……?」  自分がどうして見知らぬベットに横になっているのか、桜満は記憶になかった。  覚えているのは見たこともない化け物と、銀色に光り、日本刀を振りかざす悠の姿だけだ。 「気を失っちゃったんだ。安心して、ここはホームの桜の部屋だよ」 「部屋?」 「まだ混乱してるのかな。何かの欲しいものはある?」  意識ははっきりしてきているが、まだ桜満の頭の中は靄がかかったように憂鬱で、欲しいものと聞かれても、深く考えることができない。 「……水を、ください」 「水だね。じゃぁちょっと待っててね」  そばを離れようとした悠が、己の右手と繋がっていた桜満の左手を解こうとしたが、きつく結ばれていた手は桜満の意思とは反対に、その手を離そうとはしなかった。  それには桜満自身が驚き、今まで手を握っていたこともたった今気がついたようだった。 「桜満……怖かったんだね。ごめんね」  悠に名前で呼ばれ、桜満の心臓は高く波をうつ。 「―――俺」  桜満は何かを言いかけたが、最後まで言葉は出てこなかった。  安心したのか、はたまた未だに先ほどの体験に恐怖していたのか、桜満自身判断できなかったが、涙が瞼の中を覆った。  悠は解かれない手をさらに優しく握り返し、もう片方の手で桜満の額を優しく撫でた。涙で潤んだ桜満の瞳を、悠はグレーの瞳で結ぶ。 「大丈夫。もう危険はないよ、桜満……」 「……うん」  目を閉じると同時に、頬に滴が流れる。  悠のまるで母のような暖かさは、桜満の心を溢れ出す湖のように満たした。  悠が水を取りに、一階のラウンジとつながるバーカウンターへくると、凱は二人がけのソファを占領し横になって疲れを見せていたが、悠の姿を見るなり飛び起きる。  穂波はカウンターの背もたれのない椅子に座っていて、凱同様に悠の姿を見るなり立ち上がり、不安そうに表情を歪ませていた。 「お兄さん大丈夫ですか?」  凱の真向かいに座っていた少年が、桜満のことを心配そうに伺う。 「今目が覚めたところだよ、水が飲みたいって」  備え付けの大きな冷蔵庫を開け、市販のミネラルウォーターを取り出す。  悠や他のメンバーも水道水は決して飲まないため、ミネラルウォーターはホームの人間にとって必需品だった。そのため、常に冷蔵庫の中には用意されている。 「じゃぁ私が準備しますから。悠さんは休んでください」  接客担当でもある穂波は、仮にも代表である悠にそのようなことをさせておくことはできず自ら名乗り出た。  同時につい先ほどまで行われていた仕事が終了して帰ってきても、悠は休憩の一つとらず桜満の様子を見ているのだ。一番疲労しているであるだろう悠を休ませたいと思っているのは、穂波以外のスタッフが考えていることでもあった。 「ありがとう穂波さん。でも心配だから桜の傍にいるよ」 「わかりました。すぐにお水を持っていきますね」 「お願いね」  開け放った冷蔵庫の扉を閉め、悠は再び桜満のいる三階の部屋へ向かう。 「凱先輩、怒ってますか?」  悠がカウンターから出ていくのを見計らうと、笑みを含みながら少年は前に乗り出し、横になっている凱を覗き込んだ。 「怒ってなんかねぇよ」  否定するが、凱の態度は明らかに不機嫌な様子だ。話しかける少年に目も合わせない。 「えーーー?でも機嫌悪いですよね」  凱の虫の居所が悪い理由を知っているようで、少年はくすくすと忍び笑いをやめない。 「うるせぇほっとけ!それより優沙希お前はなんでまだここにいるんだよ」  話を逸らしながら、凱は少年に八つ当たりをするが、当の本人はまったく動じる様子はない。 「いちゃ悪いですか?一応僕もここのスタッフなのに」 「まだ完全に登録したわけじゃないだろうが、悠に学校卒業したらって言われてるだろ」   凱は横になっていた体を起こし、少年と向き合うように座りなおしてローテーブル上に用意されていたアイスコーヒーを口に含んだ。 「冷たいなぁ。それに今はまだ午前三時を過ぎた時間ですよ。小学生にこんな時間に外を出歩けって言うんですか?電車だってないのに」  終電の時刻などはとっくに過ぎ、始発の時間もまだとうぶんあった。  小学生の男の子が、さすがにこの時間帯を一人で出回っているなどおかしいだろう。  しかも背負っているリュックの中には大型の銃が一丁控えているため、万が一見つかってしまえば、その説明はかなりの困難に陥ってしまう。  いくら仕事に必要だからといって、無関係の人間を相手にするのは、彼らにとって厄介なことの一つだった。  少年のような物理的な武器を使う者は、その武器を人目につかないように注意しなければならないというのが原則で、子供だからといって容赦などない。 「ちょっと凱、優沙希くんにも八つ当たりするのはやめなさいよ」  用意したガラスのピッチャーとグラスを持って、三階へ向かおうとした穂波は、桜満に八つ当たりしていた凱が今度は少年にまで八つ当たりしているのを見て呆れていた。 「そうですよ。なんでまたお兄さんにやきもちなんか妬いてるんですか」  まさに今の凱の心情は、本来の嫉妬という意味である他の者へ愛情を移すしそれを嫉むことを言うそれだった。 「や、やきもちなんか妬いてねぇ!」  自分が好意を寄せる相手が、今現在まったく親しくもない他人に優しく接し気に留めている様子を嫉むことは、凱にとって暗面に隠れる嫉妬そのものだ。 「うそばっかり」 「うそなんていってないだろうがっ」  口ではそういうものの、態度ではまったく逆で、飲んでいたコーヒーのグラスをおもいきりテーブルの上へもどす。すでにコーヒーは飲み干していたため、中身がこぼれなかったのは幸いだ。 「じゃぁその態度はなんですか?」 「なにって別に」  凱は答えにつまり黙り込むが、真情では嫉妬しても何の意味もないことだとわかっていた。  いくら自分が好きでいても、相手にそれが伝わらなければただの一方通行にすぎない。 「あんまりいじめちゃうと、お兄さんやめちゃいますよ?」 「心配しなくてもあんな化け物を目の前にすれば、普通のやつならすぐやめちまうよ」 「それなんですが、本当にお兄さん能力ないんですか?」 「……ないだろ」  あっては困る。そんなことを言いたげに、凱は口を噤んだ。  それは桜満に〝能力〟があれば、彼をホームに留める最大の理由にしてしまうからだ。  桜満はだんだんと失っていた記憶を取り戻し、今の状況を理解し始めた。  横になっていたベッドを離れて、部屋の一番奥にある窓からカーテンを半場明けながら、外を呆然と眺める。 「今穂波さんが水を持ってきてくれるから、少しまってね」  ノックはせずに入ってきた悠は、桜満が起き上がっているのを見ると軽く微笑んだ。 「はい、すみません」 「起きても大丈夫?」  桜満の隣に横付けた悠は心配そうに伺う。 「はい、もう大丈夫です」  窓辺に体を預け、桜満は楽な大勢で答えた。 「そう」 「……あの」 「何?」  神妙な面持ちで、桜満は少々ためらう素振りを見せる。 「あれは、いったい何なんですか?クランケとか言ってましたけど」  仕事といって真夜中に高校へ侵入し、警備員だと思った人間がそれともあれ自体がそうだったのか、突然変貌した姿はこの世のものとは思えないほどおぞましい生き物だった。  その見たこともない化け物に対峙していた悠。そしてそこにいた桜満以外の人間は、当たり前のように化け物に向き合っていた。それが一体何なのか、悠が言えないといっていた仕事とはこのことを言うのか、桜満には皆目検討もつかないでいる。 「クランケ。異質的な存在。今度はちゃんと説明しないとね……」  遠くを見るような悠の視線は、窓の外へ向けられているが、最後はしっかりと桜満の目を捉え、その答えを導き出そうとしていた。  そこに穂波が用意した水を持ってきたのか、扉にノックする音が二回聞こえた。 「あら起きても平気?お水もってきたからどうぞ」  部屋へ入ってきた穂波は、トレーを備え付けの高級そうな机の上へ置き、何も入っていないグラスに取っ手のついたピッチャーからミネラルウォーターを並々と注ぐ。  桜満はグラスを受け取り、注がれた水を一気にすべて飲み干した。  冷たい水は喉を通り、通った部分が冷やされて体が落ち着いていくのがわかる。 「もっと飲む?」 「いえ、もういいです。ありがとうございます」  桜満は穂波の申し出を断り、飲み干したコップをトレーに戻し、ぬれた口を手の甲でぬぐう。 「二人は下にいる?」  穂波に悠はここにはいないスタッフのことを聞いた。 「ええ、まだ待機しています」 「そう、じゃぁ桜、下で説明するからラウンジに行こうか」 「あ、はい……」  先ほど聞きそびれた悠の説明。  桜満は三人一緒に向かう一階のラウンジへ行くまでに、一生分ではないかと思うほど、自分自身の心臓の鼓動を聞いた。 「あ、お兄さん大丈夫ですか?」  活発そうな茶髪の少年が、ラウンジに入ってきた桜満たちに気づき振り向いた。 「えーっと、はい。大丈夫です」  屋上で見かけたときとは違う印象の少年に、桜満は一応初対面という感覚で、どう対応していいのかわからないまま、年下にもかかわらず敬語で答えてしまう。 「あはは、そんなかしこまらないで下さいよ」  少年もそれを笑って、桜満に遠慮しているようだ。 「桜、彼はここのスタッフの乍優沙希くんだよ」  悠の紹介のおかげで、やっとはっきりとした少年の素性がわかった桜満は、穂波に説明された義務教育の終了していないスタッフというのが、この優沙希のことを言うのだと理解できた。  大きい二重の目が印象的で、色素の薄い髪は短く整えられ、中世的な容貌はどこか憎めない。 「始めまして、乍優沙希です。今は小学五年生をやってます」  優沙希の丁寧なあいさつに、桜満も頭を下げて対応するが、次の一言に首をひねらずにはいられなかった。 「能力はテレポートです」 「テレ……?」  いきなり耳慣れない言葉を聞いて、単語を繰り返してしまう。  桜満がテレポートという言葉で思いつくのは、昔テレビで見たアニメの女の子が、いきなり他の場所へ瞬時に移動する瞬間移動を、幼馴染の男の子の前でやってのけるシーンくらいしか思いつかなかった。それもテレビの中だけしか聞いたことがない話で、一番最近耳にしたものでも海外での映画や、駅の名前くらいなものだ。  しかしよく思い出してみれば、高校の屋上でいきなり少年が消え、瞬時に化け物の背後に現れたのは、今優沙希というこの少年が能力と称したテレポートというものだったのではないだろうかと思い起こす。  桜満は混乱しないように頭で整理するが、女の子の瞬間移動するアニメが頭をよぎる。 「優沙希、まだ彼には説明していないんだ」 「あ、すみません」  優沙希は謝りながら立ち上がり、今度は横になるのをやめた凱の隣へ移動する。 「今から説明するから、桜も座って?」 「はい」  桜満は緊張しているのか短く返事をすると、促されるままに一人掛けのソファへ腰掛けた。向かい合うようにローテーブルを挟み悠が座ると、穂波も席に着く。  全員が集まったラウンジは静まり返っていて、古びた電球のオレンジ色の明かりが中世を思わせる家具や内装を、より一層神秘的な雰囲気に醸し出していた。 「まず話さなきゃいけないのは、僕たちのことからかな」  静かに悠の口は開かれ、それを移す窓の外はまだ暗く、夜明けまではまだ長い。
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