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第六番
「え?」
桜満が決心を述べたその直後、いきなり騒々しくもラウンジへ数人の作業着を着た男たちが、ホームの入り口を全開にして入ってきた。
どこの会社ともわからぬマークのついた作業着をお揃いに、男たちが運んできたものを呆然と見つめるのは桜満だけではない。
「な、何なんだ?」
凱は唖然としてその場に立ち尽くし、穂波も何が起きているのかわからない様子だ。
慎重に防護布で覆われながら運ばれてきたものは、まだ購入してさほど月日のたっていないだろう、傷もないキレイなブラウンのピアノだった。
物音に気付いたのか、階段を勢いよく優沙希が駆け降りてきた。見慣れぬ衣服でもくもくと作業を続ける男たちや、運ばれてきたピアノに興味を懐かせて、目をきらきらとさせている。
「お前のだ、楊梅桜満」
両開きの扉で豪華な造りをした玄関から、一番最後に入ってきた男が、桜満の名前をフルネームで呼ぶと、全員の視線がその声の主へと向けられた。
「結城!」
「結城さん!」
その姿を見せるなり、桜満以外の全員がほぼ同時にその名前を口にする。
「どうしたんですか結城さん、復帰はまだのはずですよね?」
言いながら駆け寄る優沙希に、青年はくしゃりとその小さな頭をなでる。
「ああ、けど休んでいる暇もない」
落ち着いた低い声は、桜満に緊張感を与えた。
「あの……?」
桜満は運ばれてきたピアノを見て、それが自分のピアノであることはすぐに分かった。
今はまだ借りている寮のアパートにあるはずの自分のピアノが、いきなり目の前へ運ばれてきているのはどういうことなのだろうかと、桜満はまたも突然の出来事に混乱する。
「彼は結城和仁。ここの正式スタッフよ」
穂波がすぐさまホームスタッフの最後の一人を紹介してくれるのだが、桜満が疑問に思ったのはピアノのことで、あやふやに軽く頭を下げることしかできなかった。
「ど、どうも」
そんな桜満を和仁の方は一瞥して、穂波に視線を戻す。
「新しく雇った楊梅だな?」
「ええ、知ってるの?」
「ああ」
和仁は桜満よりも少しばかり年上の若い男で、人目を惹く整った顔立ちをしていた。シャツにベストの格好が、いかにもインテリなイケメンを連想させる。
一見悠と同じような雰囲気を思わせるが、悠とは違い鋭さを感じさせるオーラがひしひしと桜満には伝わってきていた。そのため自然と警戒心が強まってしまう。
「悠はどうした?」
「上で休んでいるはずです」
答えたのは凱で、悠以外のメンバーに対して上目線だったが、和仁に対しては礼儀をわきまえている様子だ。
「それにしても、もう起きてきてもいい時間ですよね。悠さん寝坊なんてしないのに」
そういえば、と優沙希も疑問に思ったのか、右手首の時計をちらりと見る。
「おい…………まさか」
一瞬体を強張らせたのは、凱だけではなかった。
三階の一番奥にある悠の部屋の前に全員が集まった。和仁は木製の扉を強くノックする。
「悠。おい、いるのか?」
中にいるはずの悠からは何の反応も帰っては来ず、それがさらに皆を焦らせる。
「いいか、誰も中に入るな」
和仁が神妙な面持ちでそう言うと、全員が頷く。
桜満は何が起こっているのかわけがわからず、ただ後ろでその場の様子を見ていることしかできなかった。
「ーーーーーー悠」
和仁が悠の部屋へ入ると、窓にはカーテンが引かれていて、昼間にもかかわらず薄暗く、重々しい空気が体を上から押さえつけるようだった。和仁は悠の姿を探し、部屋の一番奥まで歩いていく。
「――――――はるか?」
悠はベットの角に隠れるような状態で、息を荒げて横になり、力なく蹲っていた。
「しっかりしろ!おい、悠、わかるか?俺だ、和仁だ」
「な、ぎと……?」
和仁はすかさず悠を抱き上げると、頬に手を当て、その表情を窺った。触れる人の熱に気づき、悠もその人物の服にしがみつく。
「まだ意識はあるな、平気か?」
自分の名前を呼ばれ、安堵した和仁は少し笑みを見せる。悠の顔に自らの顔も近づけて、相手の意識を完全に自分へと向けさせる。そのとたん悠は焦ったように力なく首を横に振った。
「っだ、めだ……部屋から出て……」
悠は握っていた和仁のシャツを放し、胸を力なく押して己から遠ざけようとするが、それをさらに強く抱き寄せる和仁の力により阻まれた。
「安心しろ、俺以外は部屋に入れていない」
その言葉に少しばかり安心したのか、悠は強張る体から力を抜く。
「大丈夫だ、俺がいるから」
悠の体は熱く熱を持ち、力なくぐったりとしていた。
汗で張り付いた前髪を、和仁が優しく退けてやると、悠の表情が寄り一層はっきりと見えた。薄く開けられているその瞳は、血の色をしている。
「っく……!」
一瞬悠の脈が速くなり、それと同時に悠の体も震え、己の胸に爪を立てる。
(瞳が赤い。やばいな、早く処置しないと)
「――――――なぎ、と」
半眼の中で揺らぐ紅い瞳に焦りを感じた和仁は、力の入った悠の手をさらに強く握った。
「いいか悠、少しだけ待っていろ。すぐに楽にしてやるからな」
できるだけ悠を安心させようと、優しく柔らかな口調で言い聞かせるように話す和仁に、悠も無理をして笑って見せた。
「う、ん……」
「おい、楊梅桜満」
「は、はいっ」
和仁は部屋から出てくるやいなや、スタッフの一番後ろにいた桜満を鋭く呼んだ。桜満はそれに驚き、びくりと体を硬直させ、背筋に物差しを指したかのようにまっすぐに伸びる。
「今から下へ行ってピアノを弾け」
「え?」
さらに桜満は考えもしなかったことを言われ、顔を訝しげに歪める。
「結城さん、どういうことですか?それに悠はあの状態に?」
和仁の突拍子もない言葉に、疑問を懐いたのは桜満だけではなかった。凱もまるで悠とは関係のない様な話の内容に、イラついた様子だ。
「今はまだ初期段階だ。それより早くしろ、何回も言わせるな」
和仁は言うことをきかない小さな子供を叱るようにぴしゃりと言い放つ。
「ど、どういうことですか?」
桜満は何がどうなって今自分がピアノを弾かなければならないのか、しかも今弾いている状態なのか、まったく現状を把握できずにいた。
「結城さん一体……?」
黙っていた穂波もその意図が読めず眉を顰めるが、その言葉も和仁の重い言葉に押しやられる。
「今は説明している暇はない。早くしろ、楊梅桜満」
「はい、別に弾くくらいいいですけど……」
そんなことをしている状況なんですかと尋ね様にも、既にピアノを弾かなければこの状況自体が変わらないのだと空気が伝えていた。
「あとでちゃんと説明する」
やや焦りを見せながらも、和仁のその表情は真剣で、それに全員が黙契した。
運ばれて来ていたのは通常のグランドピアノより小ぶりなドイツ製の物で、赤茶の色が明るくその場を沸き立たせるような華やかなものだった。
本体や椅子も足元は猫脚で、とても可愛らしい造りをしている。男の桜満がこのようなピアノを買ったのは、自分の意思など関係なく、ただ単に母親の趣味だった。
ラウンジの中央に位置を決めて、足を固定された桜満専用のピアノは、はじめからその場にあったかのように存在感を露にした。ピアノが一台置かれただけで絢爛さが増し、今まで以上に洋風の豪華な雰囲気を醸し出す。
「悲愴だ。弾けるな?」
「はい」
桜満は自分の弾ける曲を、和仁がなぜ知っているのか疑問にもつことはなかった。有名な曲で、誰でも聞いたことのある曲だ。
それを大学でピアノを専攻していた桜満が弾けると思うのは、すでに桜満の素姓を知っている様子の和仁が知らないはずはないだろうと、自然に桜満の頭を通り抜ける。
(うまく弾けるといいけど……)
弾けるといっても、桜満がこの曲を最後に弾いたのは何年も前のことだ。暗譜はしていたが、月日がたてば完璧というほど指が動くわけではない。体が覚えていることもあるが、やはり楽譜を見ながら弾くときとは異なってしまう。
桜満はピアノの蓋を開けたと同時に、初めてこの曲を人前で弾いたときのこと思い出した。
(あの時は失敗したからな……)
十年前母親の開いた演奏会で、初めて大勢の人が見つめる中で弾いた曲だった。いつも田舎の自宅で母に教わるばかりの桜満が、初めて自ら進んで出た、初めて人のために弾いた曲だった。
ベートーヴェン、ピアノ・ソナタ第八番ハ長調
悲愴より第二楽章 (桜満バージョン)
すっと息を吸うと、丁寧に鍵盤上へ置かれた桜満の指が、白いそれを優しくたたいた。
人気のあるこの曲は誰もがどこかで聞いたことがあるだろう。
タイトルだけでは悲しみに満ちた曲なのだと誤解されがちだったが、悲愴が書きあげられたその時代、作曲者であるベートーヴェンの生きた背景を思えば強い光さえ感じる曲だ。
この曲に聞き覚えのあるものは、桜満の演奏に違和感を覚えたことだろう。
弾き始めてすぐに、その場に居合わせた者は全員胸の内に安らぎを感じる。
もはや「悲愴」というタイトルでさえ当てはまらない、本来の曲とはまったく異るものとなっていた。
知っているものだけにしか分からないであろう、強弱、テンポなど桜満のオリジナルが入っていて、音も一音ならず、ターンを使い何音も増やしたり、フェルマートで必要のないくらい音をのばしていた。
指の動きはしなやかで、水の中を流れるように優美に舞う。大きく開けはなたれた上蓋から覗く弦は揺れ、長く響く余音は隣同士の音に並んで重なる。
響き渡る音色が耳に心地よく、ラウンジはその音色で包み込まれる。
(あ、調律しないと、音が変だ……)
そんなことを考えながら曲を弾くこと意外に、桜満の意識が離れることはなく、自分の世界へ入り込んでしまっていた。
一人悠の部屋へ戻った和仁は、ベッドに腰を下ろして悠の肩を抱く。開け放たれた扉から、花の香りのように安らかに流れ込んでくるピアノの音色を聴いていた。
悠も頭を和仁の肩に持たれかけ、荒かった息を整えていく。
「ありがとう……」
静かに言う悠の言葉が誰に向けられた言葉なのか、和仁には分からなかったが、短く頷き悠を抱く腕に力を込めた。
熱を持っていた体も、紅く揺らぐ瞳も、既に悠からは消えうせていた。
ちょうど桜満が最後の一音を弾き終えるという時に、ラウンジへ悠と和仁が並んで下りてきた。それに気づいた桜満は、演奏を最後まで弾くことはせず、すぐさま中断し立ち上がった。
普段通りに見える悠の姿に、その場の全員が安堵の表情を浮かべて走りよる。
「ごめんね、皆に心配かけたよね」
「何で黙ってたんだよ、もう平気か?」
申し訳なさそうな悠に、凱は不安な表情を作ったと思ったら、忙しくなく悠の様子を窺ったりしていて目が軽く潤んでいた。
「凱大丈夫だよ、泣かないで、ね?」
己よりも背の高い凱に悠は手を伸ばし、その頬を子供のように撫でる。
「な、泣いてねぇ!」
そんな悠の手から赤くなった顔をぱっと遠ざけ、潤んでいた目を瞬き恥ずかしさを紛らわす。それを見ていた穂波や優沙希も完全に体の緊張を解いて、安心しきった様子だ。
そんな中一人取り残されたような気分で、桜満は躊躇いながらも口を開く。
「あの、俺……」
「聴こえていた」
和仁のただならぬ威圧感に、桜満は口ごもってしまう。
「キレイな音色だったよ、桜のピアノはやっぱりすてきだね」
和仁とは対照的に、悠は初めて出会った時と同じような、桜満を安心させる笑顔を向ける。
「ありがとうございます」
自分の音色を褒められるのは誰でも嬉しいことだが、それは桜満にとっても同様で、内心だけでなく、顔にもその気持ちは現れ出ていた。自然と口元が緩み、頬を桜色に染める。
桜満がなぜピアノを弾かなくてはいけなかったか、という理由を聞けなかったのは、悠のもうしばらく休ませてほしい、と言う要望があったからだった。
それに和仁が付き添う状態になってしまっているのだから、桜満に有無を言わせることはできない。もちろん全員がそれを承諾している。
理由は知りたいが、悠の少しばかり疲れた表情を見れば、誰でも口を出すことはできなかった。何があったかはわからないが、桜満も只ならぬスタッフたちの対応に窺知していた。
「素敵なピアノね」
「ああ、はい。どうも」
悠と和仁が上階に姿を消した後、桜満は何をしていいのか困りはて、猫脚の椅子に座りながら鍵盤を前にピアノを見つめていた。
ぼうっとしていたためか、穂波に褒められても微妙な返答しかできなかった。
女性が好むような見た目のピアノに少々面映く、桜満の顔は下を向き穂波から目線を避ける。
「ピアノなんて学校で音楽の授業以外じゃ触ったことないですよ」
物珍しそうにピアノの周りを回りながら見つめる優沙希だが、誰もそう言ったわけではないのに、見ているだけでピアノに手を触れることはなかった。
「調律の方もすぐに済ませてもらえるように、業者を呼んでおいたわ」
「すいません、自分でできればいいんですけど……」
道具も調律する技術もない桜満は、ピアノに関しては弾くだけで、あとは手入れを軽くすることくらいしかできなかった。それを知ってかしらずか、穂波はすぐさま業者に電話をしてくれたらしい。
「いいのよ、気にしないで」
微笑む穂波に、桜満は軽く頭を下げた。
「終ったらまた聴かせてください!」
目をキラキラさせて頼んできた優沙希を、桜満はとても嬉しく思った。人に聴いてもらえること自体、桜満にとって喜ばしいことなのだ。
「はい、いいですよ」
年下なのに、やはり優沙希に対して敬語を使うことが抜けないのは、もう仕方がないことなのかと桜満は一人納得した。
調律師の男性が黒い大きなカバンをもって、ホームに来たのはすぐのことだった。お揃いの黒いスーツに身を包み、頼まれていた仕事に早速取り掛かる。
(そういえば昔からそうだったな……)
昔から桜満は調律師の先生が、専用の道具で調律しているのを見ているのが好きだった。すぐ傍で椅子に座り、終るまでずっと離れなかったのだ。
普段見れない部分が見れたり、構造が面白いくらい分かる様子は桜満にとって冒険をしているようにわくわくさせた。
中でも桜満が一番驚かされたことは、鍵盤が取り外されるところで、毎回その光景を見るのを楽しみにしていた。磨耗していく鍵盤のブッシングクロスや皮革が消耗していないか点検したり、最終的には音の狂いを見極め調整していく。
実家では毎回同じ調律師の男の人が来ていて、年三回の点検には必ず母親と二人で立ち会っていた。
桜満も子どもの頃は口出しなど一切しなかったが、それも中学生くらいになると、音階の点検中には口を出すようになっていた。そこ違うよね、とか今は夏だからもう少し、など音に対して注文を付けたりして、朴直な桜満に母親が困ったときもあった。
七歳までに音楽を始めれば、絶対音感がつくといわれている。桜満も正にその能力を授かり、音に関しては敏感になっていて、今現在ラウンジで行われている調律の作業にも、目が離れなければ、耳も離れなかった。
悠と和仁は三階建ての洋館の屋上で、昼前の静かな街を見下ろして話をしていた。
「また和仁に世話やかせちゃったね」
屋上には風が吹きぬけ、何の音も遮ることがなくとても静かだった。銀の髪を風が優しく撫でるように揺らし、夜でもないのに月の瞳をとても神秘的に見せる。悠の眉目には笑みが含まれ、しばらくホームを留守にしていた和仁の心を安堵させた。
「毎度のことだ、気にするな」
そっけない態度だったが、それを悠が気に留めることはない。長年共に仕事をしてきた二人の仲が、深いものだと意味している。
「うん、ありがとう」
悠は疲れを見せないキレイな微笑を和仁に向けた。
「無理はするなよ、お前に何かあったら弓削さんにどやされるのは俺だからな」
悪戯っぽく言う和仁だが、手の甲で悠の頬に触れる仕草からは、本気で悠を心配していることがわかる。熱を持たない頬は和仁の手からそっと離れる。
「そうだね、でも大丈夫。和仁も今は怪我を癒してね、早く戻ってきてよ」
どこか寂しげな悠は、子どもが親に何かをねだる時のような視線を和仁に送る。
「ああ、そのつもりだ。お前は一人にしておくと、何を仕出かすかわからないからな」
「一応ちゃんとやってるつもりなんだけどね」
「それならあの新人のことちゃんと皆に話したか?」
苦い顔を作った悠はしばらく沈黙してしまったが、すぐに答えた。
「ん、――――――まだ」
「だろうな、あいつらもだが、本人さえ分かっいないぞ」
悠の答えを聞かずとも、はじめから分かっていたかのように、和仁はため息交じりで頷く。
「やっぱり、だめかな」
街の遠くを見て、悠は独り言を言っているかのように呟いた。
「それはお前が決めることだ」
考え込むように、悠は徐に視線を足元に向け、表情を前髪で隠す。
「和仁はどうしたらいいと思う?」
人に頼ることなど滅多にしない悠だが、和仁に限っては別だった。二人きりの今だからこそ問うことのできることで、普段は誰にでも己の不安を打ち明けることなどない。和仁も悠の唯一甘えが自分にだけ許されている行為と分かっていて、それを受け止めることのできる自分が嬉しかった。
「どうしたい、お前は……悠はどうしたいんだ?」
「僕は……一緒にいたいよ」
悠の言葉が誰を指しているのかは本人にしか分からない。
和仁はそれが自分以外の者を指しているのだと黙認した。自分以外の人間に心を向ける悠が、どこか遠くへ行ってしまうかのように感じてしまう。
「悠……俺はずっとお前の傍にいるよ。昔約束したように、ずっとな」
悠に向き合い、和仁はその黒真珠を月の瞳と結ぶ。真剣な熱い眼差しは悠を捉え放さない。
「和仁……」
和仁はゆっくりと悠の背中に手を回し、自分の方へ抱き寄せる。それを悠は素直に応じ、和仁の胸に顔を埋めた。悠の息が和仁の胸に当たり、和仁の心臓の上を熱くする。ぎゅっと強く抱きしめた和仁に、悠も手を回して応えた。
「弓削さんが心配してる。櫛笥さんもな。安心しろ、俺たちはどんなことがあっても、お前を一人にしない、絶対に」
抱く力は強く、和仁の言葉は悠の耳に心地よく響いた。
「うん」
「それに、お前が信じたあいつらなら……俺は信じるよ」
「ありがとう」
胸に顔を埋めた悠を窺うように、和仁は少し身を離し、指の腹で悠の目じりに光る滴を拭い取った。
「どうだ、答えは出たか?」
暖かい手で悠の頬を包み込み、和仁は優しく微笑みかける。普段人前では決して見せない優しい微笑を。
「――――――うん」
悠が返事をすると、それが合図だったかのように、重くも美しい洋琴の音が風に乗せられ屋上まで届いてきた。
「ピアノ」
「桜満のピアノだね」
あまりにも有名なその曲は、明け放たれたホームの窓を抜け、静かに街そのものの空間を虜にしていく。柔らかい鍵盤を叩く音色は悠の記憶に触れ、それが終らないでほしいと懇願する。
悠は和仁の肩に顔を埋めると、自然と涙が零れ落ちた。
「悠?」
「ねぇ和仁、僕はここにいていいのかな?」
鼻を啜りながら涙を流す悠の潺湲の表情に、和仁は背中をあやすように叩く。
「いいに決まっている。お前がいなきゃ俺はここにいない。覚えてるか?お前が始めてここに来たときのこと。その時もお前は泣いていた」
和仁の忍び笑いに、不安な面持ちだった悠はそれを和らげた。
「そうだった?」
昔を思い出したのか、悠もくすりと笑う。
「ああ、弓削さんを困らせた」
「今でも困らせてばかりだ」
ほくそ笑む二人は抱き合っていた体を離し、風と音色に自分たちを靡かせた。
「いい曲だ」
「うん」
悠と和仁がラウンジに降りてきたのは、夕日が沈みかけた頃だった。
穂波や優沙希はすでに自室へ戻っていて、凱の姿も見あたらない。桜満だけが未だにピアノの前で、鍵盤と睨めっこをしていた。
「もう大丈夫ですか?」
降りてきた二人に気づいた桜満は、見つめるピアノから視線を放し、居心地が悪いように椅子から立ち上がる。
悠は平気だと答えるつもりだったのだろうが、それはあまりに突然だった。ラウンジの床を踏んだ瞬間、思いもよらぬ憎悪が悠に襲いかかったのだ。
目の前で苦しそうに膝を着いた悠に驚き、和仁は傍らに寄り添い肩を抱きながら、自分よりもか細い悠の体を抱きかかえた。
「おい悠、大丈夫か?」
「悠さん大丈夫ですか?」
桜満もいったい何が起こったのか、慌てて悠に走り寄り、熱を測るように手を額に当てる。
手のひらに伝わってくるのは熱ではなく、ひやりとした冷たさだった。
(冷たい……)
「……桜満?」
悠は息を上げ額には汗がにじんでいて真っ青な顔色だ。
「結城さん一体……?」
突然の出来事で桜満は慌てふためき、和仁へ視線を向けるが、その本人もその落ち着いた身なりに似合わず焦りを漂わせていた。
「ひとまずソファへ寝かせる」
「は、はい」
苦しそうな悠をソファに寝かせようと、和仁は背中へ手を回して抱き起した。力を入れれば壊れてしまいそうな悠の体を慎重に運ぶ。
「動けるか?」
二人掛けのソファに座らせ、その目の前に膝を着いて、和仁は下から悠の顔を覗き込んだ。苦しそうな悠の表情に、和仁は哀れさを感じずにはいられない。自分までもその苦しさに苛まれたかのように表情を歪める。
悠の白い肌がより一層血の気が引いたように青白く影をおろしていた。和仁は額に手を伸ばして、悠の熱を測ろうと顔にかかる前髪を指で軽くどける。
和仁が額から手を遠ざけると、薄っすらと目を明ける悠に桜満は気づいた。
(え?)
桜満は見間違いではないかと、下を向いている悠の半眼を、和仁の隣に膝をついて見つめる。月と同じグレーの瞳はそこには無く、鮮やかに光る血のような真っ赤な瞳が揺らいでいた。
「悠、さん……?」
思わず口に出た名前に、桜満はそれに反応した本人を凝視する。見間違いなどではない紅い瞳に眼を離すことができず、桜満はそれ以上言葉を発することができなかった。
それを察したのか、悠の開かれた瞳は再び瞼によって閉じられ隠された。
「楊梅桜満」
「え、あ、はい。なんですか?」
いきなり呼ばれた桜満は、はっと我に返り和仁の言葉に耳を傾けた。
「ピアノを弾け」
「ピアノ?」
そんな時ではないだろうと思いながらも、桜満は和仁の訴えを否定することができなかった。それは目の前でぐったりとした悠が、和仁と同じことを口にしたからだ。
「ピアノ、……ピアノ、弾いてくれる?」
苦しそうに、声に出すのもやっとのようで、悠は切れ切れになりながらもやっと声に出す。
「弾くって、なんで……」
「お願い、……僕のために」
先ほどより状態が悪くなっているのか、和仁の握っていた悠の手は、氷のように冷たくなっていた。
「悠さんのために?」
桜満の体は悠の前に張り付いて動かない。
「おねがい、聴か、せて……桜満の、ピアノを――――――」
何かの呪縛に掛かったかのように、桜満は頷いていた。隣の和仁を振り返ると、彼も同様に頷いていて、必至にそれを求めていた。
(俺のできること)
悠に気を配りながらも、桜満はピアノに向かい椅子に腰掛ける。
蓋を開けて赤い柔らかな布を取り除くと、白と黒の鍵盤が桜満を待っていた。両手を鍵盤に翳し、指を軽く白鍵に触れさせる。何を弾くかなど、桜満はまったく考えていなかった。
ただ一つのことだけが頭の中を回る。
(悠さんの為に)
大きく、それでいて短く息を吸い、第一音をラウンジに響かせた。
悠は桜満がピアノに向かう姿を、和仁に支えられながら眷恋したように朧な紅い瞳で見つめていた。まだ胸を焼き尽くす熱く切り裂くような痛みが引かないのか息は荒い。
咳き込む感覚で、咽を飢えが襲い続けていた。
欲しい。
目の前の人間の血を欲する気持ちが溢れ返るのを、悠は必死の思いで堪えた。
脳裏に浮かぶのは、桜満を捕らえ、その首筋に唇を押し付け、柔らかな皮膚に噛み付き、甘美なる血酒を貪る己の姿だった。
禍々しくも飲み下していく度に、己の瞳が燃えるように赤く色を濃くしていく。
気を許せば、今浮かんだ幻想が現実と化してしまうと、悠は半場朦朧とした意識の中ではっきりと思い置いた。
喉が乾き熱い人の熱を欲し、それを迎えるのに必死で、悠は己の意識を引き寄せる。
そんな悠の耳に安らぎの響きが流れ込み、傍らでは優しく肩を抱く感覚にだんだんと満たされていく。感じるそれは、悠を労わるような優しい音色で、優しいぬくもりだった。
「ありがとう」
呟く悠の瞳からは紅が消え、月が戻っていく。静かにその表情からは、笑みがこぼれた。
「悠さん?」
「悠?」
桜満の演奏が終盤に掛ったころには、悠の状態はすでにいつもと変わりのない穏やかなものに戻っていた。和仁にもたれかかっていた体を直し、何か決心したかのように顔をあげる。
「悠お前、いいのか?」
悠の異様な雰囲気に和仁は何か気付いたのか、心配そうに悠を窺った。
「うん。いいんだ。桜満にだけ黙っておくことはできないしね」
敬虔な悠の様子に、桜満自身も真剣な面持ちで真正面から向き合った。
「桜満、僕はね――――――半分クランケなんだ」
悠の言葉はあまりにも唐突すぎて、真剣になった桜満の脳裏を一周し、いつかの国語の授業かのように、右から左へと流されていく。
「え?それってどういう……」
それでも悠は落ち着きはらって、とても先ほどまで具合が悪かったようには見えないしっかりとした口調で話を続ける。
「通常クランケは、子供を作ることのできない生き物なんだ。でもね、僕の母さんはクランケに変化してしまった」
「え?」
「クランケに変化する前が人間だからといって、子供を産むことはできない。絶対に。なのに母さんは僕を産んだ。だから僕は普通じゃない、人間ではないんだ」
「人間じゃない?」
悠の告白に、桜満はオウム返しのように同じ言葉を返すことしかできなかった。悠が話す内容が、あまりにも彼にとって残酷で、苦しいことだということが桜満の胸中を強く締め付ける。
「僕はね、数年に一度のペースでクランケに変化する状態になるんた………。でもいつもぎりぎりのところで人間の方に戻ってしまう。いっそクランケに変化した方が良かったのに……。人に、血や肉に飢えて、部屋でそれが納まるまでじっとしている。いつ皆に襲い掛かるかも分からないのに」
悠の眼尻には光る露が溜まり、和仁は我慢する悠の肩を強く抱いた。
「ごめん、ごめんね。桜満を利用なんて、ごめん、ごめん……」
(利用?)
利用とは一体何なのかなど、今の桜満には気にすることではなかった。桜満はひたすら謝り続ける悠の目の前へ膝をつき、手を取って強く握りなが目を合わせた。
「悠さんはクランケなんかじゃないですよ。だって、だってこんなに暖かいのに」
「ごめん、ごめん……」
ひたすら謝る悠の言葉は、悲痛な叫びのように桜満の心に突き刺さった。
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