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第七番
勢いよくホームの玄関扉が開かれ、ロビーに入ってきた凱の姿は、何をしでかしてきたのかボロボロだった。
「ってそこ!何してんだよっ!」
涙を流した悠の目の前で、膝をつきながら手を握っている桜満の姿を、凱が見逃すはずはなかった。一瞬で二人の目の前へ走り寄ると、手刀で握られている手を切り離す。
「何してんだお前!悠も悠だなに手なんか握らせてんだよ!結城さんもこいつなんかに……って悠?お前どうしたんだ?」
充血して、頬に残る雫の後に凱は驚き、何があったのか和仁へ説明を求める視線を送る。
「彼に話したのさ」
和仁は悠に目配せしながら答えた。
凱は物凄い形相で桜満を振り返り、ひどく睨みつける。しかし凱はそれをすぐに悲しい表情に変えて、桜満と同じように膝をついて悠をみつめた。
「ごめんね、凱」
悠の寂しそうな言葉は、凱の胸を強く打ち付ける。
「それで凱、どうしたんだその格好は?」
凱のボロボロになったスーツを見れば、明らかに異常な状態であると推測される。
「ああ、そうでした!クランケを見つけたんです」
凱の嫌悪の言葉に、桜満は背筋をゾクリと震わせた。
「お兄さんを狙ったやつですか?」
どこからわいて出てきたのか、優沙希がいきなりラウンジへ顔を出し、言葉の出てこない桜満の代わりに聞いてくれる。
悠の告白をずっと聞いていたようで、階段を下りてくる足音などは一切しなかった。その後に、同じく穂波も姿を見せる。
「そうだ」
振り向いた悠や和仁に驚いた様子はなく、凱は短く答える。その答えに桜満は息を呑み、氷の海にでも浸かったように、体の体温が低下していくのが分かった。
「場所は都内の劇場だ。つけてる途中で見つかっちまって少しやりあったが、そこにいるのは間違いねぇ」
鼻を鳴らしながらギラギラと目を光らせ、凱の闘志は見るからに明らかだ。
「わかった。ありがとう凱。大丈夫?」
「これくらいなんともねぇよ」
凱がそこまでしてクランケを狩りたい理由は、無論悠のためである。命に代えても桜満を守ると言った悠の今までに見たことがないほどの表情を、凱ははっきりと覚えていた。それを無碍にするようなことでもあれば、一番苦しむであろう悠に凱は顔向けできない。
「悠、お前は大丈夫なのか?」
「もう大丈夫、ありがとう和仁」
和仁はすでにクランケの気配が消え去った月の瞳を窺う。再度眠りについたおぞましい気配を、悠は完全に飲み込んでいた。
「じゃぁ今夜ですか?」
優沙希が息をのんで慎重に聞くと、悠もそれに首を縦に頷いて答える。
「ごめんね桜。また危険な目にあわせてしまう」
切ないその玲瓏たる美声で、悠は言いながら俯く。
「いえ、俺は……」
格闘技といったことなどは全くの素人で、スポーツといっても学生時代に体育の授業でしか桜満はやったことがなかった。まして下手に何かをやりだして、指に怪我などしてしまったら、ピアノを弾くことができなくなってしまう。
しかし今はそれを恐怖という感情とともに、精いっぱい自分の中へと押し隠した。
「お前は言わば餌だ。囮になってもらった方が早いと思うが」
「結城さん結構ストレートだぁ」
「一番手っ取り早い方法だな」
「そうね」
優沙希は茶化すように言うが、桜満は和仁の言葉に驚き、そしてそれ以上に悠以外の全員が続けざまに、何の迷いもなく同意していったことに驚愕してしまった。
(まじかよ!)
「だがこれは悠と、こいつの決めることだ」
和仁は立ち上がると、桜満を見下ろす形で見据えた。
「俺は――――――」
桜満の答えなど、その瞳を見れば誰でも想像できることだった。
恐怖。
それは誰もが持っている感情で、無くてはならない感情で、最も感じたくない感情だ。
桜満は怖れていた。
悠の隣を歩く自分へ、その背後から刺すような視線を向ける――――――凱を。
(やっぱり嫌われてるんだよな……)
満天の夜空に雲は一つもなく、桜満の暮らしていた田舎とはまた違う輝きで、小さく星が瞬いていた。月明かりを背に、桜満は未だに嫉妬のオーラから逃れられないでいる。
「結構早く現れたのね。意外だったわ」
「クランケも相当お腹が空いてるってことじゃないですか?昨日頂くはずだったお兄さんも、取り逃がしてしまったわけですし」
「俺?」
優沙希の何気ない言葉に体を硬直させる桜満は、全身に鳥肌が立った。
またもクランケに捕らわれ、あの鋭い牙で自分を喰われる姿を想像してしまい、足取りは重くなる。
「そんなことはさせないよ」
隣を歩く悠の心強さを感じさせる言葉で、強張る体は多少なりとも和らぐが、喉から乾いた声が空気のように漏れる。
「お兄さん緊張してます?」
「かなり」
今から向かう先にはクランケが待ち構えている。しかも自分はその人を喰らうクランケの標的になっているのだ。一歩間違えれば命の保証はない。いざそんな場所に行くとなると、落ち着くことなど到底できなかった。ホームで見せた意気込みなど、もはや影も形もない。
クランケがいるはずの劇場に近づくにつれ、だんだんと鼓動が早くなっていく。それに比例して桜満の表情は不安の色で覆われ、額には暑くもないのに汗がにじんでいた。
「それにしても、結城さんもよく外出が許可されましたよね、すっごい傷だったって聞きました」
桜満が面接の時に、主張中と聞いていたのは和仁のことであることがわかったが、本当の理由は別にあるようだった。
「それもあるが、何でこいつのこと知ってたのかが不思議だぜ」
凱は顎で桜満を指しながら天を仰ぐ。
「いきなりお兄さんにピアノを弾けって、どういうことだんでしょうか?理由を聞く前に帰っちゃうんですからねぇ」
悠たちがクランケを狩りに行くためにホームを出た時には、すでに和仁の姿はどこにもなかった。そのため未だに聞きたいことが聞けない状態でいる。
「そういえば穂波さん、先回のクランケのこと何か分かったかな?」
「それが、櫛笥さんから連絡がないんです」
つい先日ニュースにもなった死体の正体であるクランケに、悠は少しばかり違和感を感じていた。
確かに切り捨てた感覚はあり、目の前で息絶えるのを見ていたのに、しかしそのあまりにお粗末なクランケの幕閉めが、悠を不審がらせる要因だった。
「そう、なら仕方がないね」
「悠さん、今回僕は何をすればいいんですか?」
燃える闘志に火がついた、とでも言っているように、優沙希は目に炎を燃やしている。
「あ、そうだったね。優沙希は穂波さんと一緒に桜のそばに常にいてあげて」
悠のその言葉に、凱が桜満を睨みつけるのは、もう誰もが知っていることだった。
「今回は凱が見張りをお願いね」
「俺が見張り?」
悠の作戦の内容に、凱は眉を顰めた。
「我慢しなさい。今回は巡回している警備員の数が多いの。ルートと時間はさっき送ったデータを見ればわかるわ。大きな音がして中に入ってこられたら困るでしょ。能力的に凱が一番最適なのは言わなくても理解できるわね」
「先輩残念!」
穂波に一蹴されて、優沙希にも笑われている。
悠に文句を言うかと思えば、凱は桜満に鋭い視線を向けた。睨みつけるように、あたかもお前のせいだ、といわんばかりの目で。
劇場の正面出入り口や、その周辺に人影は一切なかった。数十メートルの間隔で立てられている街頭が、怪しくアスファルトの道を浮かび上がれせている。
「ーーー中だ」
自動ドアの前で、悠は中の暗闇を睨む。クランケの気配を感じ取ったのか、その眉目は怒りを感じさせるほどに暗い。
全部で六面ある自動ドアはセンサーを切られており、反応せず開かない。
真夜中の劇場は、頑なに人の侵入を拒んでいた。
するといきなり悠は持っていた刀の柄先で、自動ドアのガラス戸を軽く叩いた。
「え」
軽く――――――叩いたと思ったのに。瞬間ガラス戸には亀裂が走り、音を立てて割れた。細かく砕けたガラスは地面に散らばり、月の光を半謝して悠の顔に光が当たる。
「あ、あの、いいんですか?」
誰も驚いていない状況で、桜満のみが慌てて顔色を青くする。
「いいのよ。電動式だと私が中に入って可動させるまでに時間がかかるし、今回は事前に調査しておくことがあまりできなかったから」
「そうそう。それに、あとで後始末してくれる人が本社から来てくれるんで、大丈夫なんですよ」
そう言って穂波と優沙希に説明されるが、桜満は経験のない出来事に内心気が気でない。公共施設の入り口を壊してしまうなんて、どこかの世間からはみ出した人間がやることだろ思っていたし、前回の高校と同様にこのような場所に無断で、しかも真夜中に侵入すること自体が、桜満にとって想定外の出来事だった。
(母さん、俺不良になったみたいだ……)
桜満は項垂れるまま悠に続き、暗闇の中へと足を踏み入れた。
納得がいかず、ぶつぶつと文句を言っている凱を残して。
劇場は大ホールと小ホールの二つに分かれていて、大ホールは二階、小ホールは一階からしか客席へ入ることができない仕組みになっていた。
大ホールの客席は、一般客用の後方の入り口と、スタッフや関係者、役者専用の左右の出入り口が設けられていた。舞台裏から袖につながる通路や、音響や照明ブースは他の入り口があり、それは全て客席の左右の出入り口から入ることができた。
穂波以外の男三人は大ホールの客席へ入るため、後方の入り口から二重の分厚い扉を二回くぐった。
ホール内は非常等以外の明かりは一切点灯しておらず、はるか下の舞台はおろか、足元さえも暗闇に溶け込んでいる。
「明かりはまだかな?」
優沙希がぼやくように言うと、目の前がぱっと明るくなり、桜満は一瞬立眩みに似た感覚に襲われ、目の前が白く濁った。
客席のライトがすべて光を解放して明るくなったホールではあるが、全体的に暗い配色を施されている天井や壁に覆われており、更に音を反射させる構造で異様な空間を作り出していた。
唯一舞台上に下ろされていた緞帳が、真っ赤な太陽をモチーフにしたデザインのもので、ホールを暗いだけの寂しい空間ではなくしている。
「クランケは?」
客席の一番後方でぽつりと呟く桜満の声は、そのまま空気に吸収されてしまったかのように小さい。桜満は悠と優沙希に挟まれる状態で、辺りを見渡した。
「気をつけて。隠れているけど、ここにいるのは確かだから」
悠は神妙な面持ちで刀を鞘から抜く。鞘はベルトに吊り下げる形で下ろされ、刀と同じ薄い弧を描いてすべてが終わるのを待っているようだった。
(大丈夫だよな?)
身を震わせる桜満だが、それを気づかれまいと必死で自分を押さえつける。
クランケの気配などまったく分からなかったが、自然と意識は無人の客席に集中して、目を大きく見開き右へ左へと行き来する。
「大丈夫、僕がいるよ」
耳元で囁かれたように、悠の声がはっきりと聞こえた。その声に、ホームで命に代えても守ると言った悠の言葉を思い出して、桜満は胸臆に暖かみを感じた。
(俺は、俺のできることをやればいいんだ)
頷き、強く気合を入れ、桜満は拳を握り締める。
「穂波さんはまだでしょうか?」
照明を点けて、その後緞帳を上げるために袖に向かったはずの穂波は、未だにそれをこなしきれていなかった。下ろされたままの幕は、その太陽を燃やしたままだ。
「ま、まさかクランケに?」
気合を入れたはずの桜満だが、緊張感のある優沙希の穂波を心配する言葉に、怯えた口調になってしまい、我を忘れてすかさず悠に身を寄せる。
「それはないよ。穂波さんだって能力者だし、もし万が一襲われても喰われるようなことはないさ。それに今回のクランケの標的はあくまで桜だから、穂波さんを襲うことはないと思う」
「そ、そうですか……ははは」
悠に縋り付くように身を寄せていた桜満はすぐに離れた。自分よりもか細い悠に抱きつくような格好で、恥ずかしさのせいか顔を赤らめる。
そのときようやく緞帳が上げられ、機械音とともに幕が上へと消えていく。
穂波も袖から現れ、無事を確認する。
「あ――――――」
桜満の目に入ったのは、無事な穂波の姿以外に、舞台の中央に置かれたグランドピアノだった。
演劇や音楽会などで使用するためのホールだ。ピアノの一台あってもおかしくない。
それにこのホールの、今舞台上にあるピアノは桜満にとって、初対面というわけではなかった。それを覚えているかどうかは定かではないが、ピアノを目にした桜満は親近感を覚え、それまでの緊張感がぷつりと切れる。
「穂波さんよかった。てっきりクランケに襲われちゃったかと思いましたよー」
ふざける優沙希に穂波も笑って答える。
「ごめんなさい。事前チェックがないのはさすがに困ったわ。でもまだクランケは現れていないみたいね」
舞台から客席に下り、悠たちと合流した穂波は息を整え、笑顔を見せた。
「うん。でも気配はあるから――――――」
いきなり悠の表情から暖かさが消える。鋭く睨むような相貌に、全員が一気に緊張感を高めた。
「上だ!」
右側の壁に収納されている照明部屋に眼光を向け、悠は叫んだ。
グウォォォォォォッ!
クランケもこちらに気づいたようで、雄叫びを上げ威嚇をする。
強烈な叫びがホールを共鳴し、凄まじい耳鳴りが全員を襲った。悠意外は頭を刺すような暴音に耐え切れず、両手で左右の耳を塞ぐ。
「なん、だよ……これ!」
塞いだ手を通り抜けるように、鼓膜を打ちつけた音により痛みが続く。
「やつの、能力なんじゃないですかっ?」
「鼓膜が破れそうだわ――――――っ」
悠はその場に動けずにいる三人を後ろに確認し、振り返ると高く跳躍した。
クランケはすでに照明部屋から飛び降りて客席に降り立ち、その振動で地面が揺れ、軽い地震を思わせた。
悠は下り立ったクランケの一歩手前まで瞬時に走り近づくと、刀を目の前の敵に振り下ろす。白刃は風のように一瞬で、クランケの右眼窩から下顎までを一気に切り裂いた。熱い血しぶきが空間に迸り、怒りの混じった悲鳴が揺れる振動と重なった。
クランケの腕の片方はすでに無く、昨夜と同一体であることが分かる。悠によって切り落とされた腕は、肉が盛り上がって傷を塞いでいた。
「悠さん!」
「お兄さんは下がっててください!」
体制を立て直した優沙希が、同じくクランケの叫びから立ち直った桜満を後ろにかばう。
優沙希の腰にはすでにホルスターが装備されており、中身も右手に抜き取っている。安全装置を外し、いつでも使用可能な状態だ。
標的である桜満を捉えることのできないクランケは、闘争心を露にする。赤い眼を怒りに燃やし、さらに吼えた。
岩をも切り裂いてしまうだろう鋭い爪に、相当な力を思わせる筋肉のついた残りの腕を振り下ろし、悠を真正面から叩きつけようとしたクランケだが、それを悠は後方に飛びのきギリギリの位置でかわした。標的を見失った腕は、床を叩き壊し、足元を揺らす。
「うっわぁ!」
桜満はその揺れで尻もちをつき、目の前の戦闘に思わず震えた声が出てしまう。
「お兄さんしっかりしてくださいよ。悠さんだって大丈夫だって言ったじゃないですか」
からかうように優沙希は笑顔を作って見せるが、そこから緊張感が抜けることはない。
「わかっては、いるんだけどっ!」
「桜満くん平気?」
クランケの一撃で崩落した床が、照明に照らされた血を含みながら凹凸に崩れた。
クランケは後部席の方へ飛び、その場が衝撃で更に崩れて、桜満は足元まで届いた地割れを辛うじて横に避ける。穂波は桜満を傍から放さないよう手首を掴んで引き寄せた。
「す、すみません」
「いいわよ、それより気をつけて。怪我でもしたら悠さんに顔向けできないわ」
「は、はい。――――――うわっ!」
更なるクランケの攻撃は、悠の頭上を通過し壁に穴を開けた。その振動でホール全体が大きく鼓動し、天井からは細かいホコリが落ちる。
「悠さん!」
離れた桜満の傍に駆け寄りながらも、優沙希は手に持つ鉄の銃口をクランケに向ける。安定させてスライドすると、トリガーに指を掛け、それを引いた。
子どもには強すぎる反動で、優沙希の腕は軽く頭の上まで持ち上がる。オレンジ色の火花が飛んだと同時に、銃口からは煙が吐き出され、クランケの胸部に鉛灰色の弾丸がめり込んだ。肉片と血が背中から飛散して、クランケが怒りの唸りを上げる。
その間にできたクランケの隙を見て、悠も重い一撃を架け、弧状を描き下ろす。
桜満は再び視る白銀の悠を、聳り立つ壮絶な屹然さを思い浮かべた。淡雪のような儚さに、寛厚な面持ちだった悠を遠く及ばせるその凄艶は、懸絶な一人の騎士に見えた。
「桜満くん、こっちに!」
唸るクランケに目を取られていた桜満の腕を引っ張り、安全なところまで連れて行こうとする穂波に、桜満自身も戦闘に気を取られていたことに気がついた。よろつく足を懸命に立て直す。しかしいつ襲ってくるか分からないクランケを、視界から外すことは桜満にとってとても不安なことだった。そのため走りながらも後方に顔を向け、悠とクランケを探す。
「あ、れ?え?」
つい今しがたぶつかり合っていた二つが、振り返れば一つしかなくなっていた。急速に体中を恐怖が襲い、足も走りを止め床から離れなくなる。
「お兄さん、穂波さん!」
叫ぶ優沙希の声が脳裏に響き、見つめる悠はこちらへ一直線に駆けて来る。
(クランケは……?)
「桜満くん!」
穂波の腕が桜満の肩を抱き、後ろに仰け反った。
目の前を振り向くと、そこには餓えた獣が、血塊を吐きながら地に足を付けていた。桜満は顔面蒼白になり、倒れていく自分がスローに見えた。
(――――――っ)
一間の終わり。そう思った瞬間、穂波の肩越しに、雷のように素早く何かが動いた。
雪のような白銀がクランケの腕の攻撃よりも早く、その刀身を前方に掲げる。そして次の瞬間、強烈な一撃が悠を襲い、空気を朱色に換えた。
悠は横一文字に刀を振り払うと、それを避けるためクランケは遠くに飛びのく。
「―――くっっ!」
悠の周囲には、真っ赤な花びらを思わせる鮮血が散らばり、一枚一枚でその鮮やかな赤の美しさを現していた。
「は、悠さん……?」
確かに裏刃で受け止めたはずの攻撃は、無残にも悠の腕や腿を切り裂いた。頬や首筋にも赤い線が走り、白いワイシャツの襟首を赤黒く染める。頬を流れる血が涙のようにつたった。
振り向いた悠を呆然と見つめる桜満は、その残痕を目の当たりに背筋を凍らせる。だがその傷を負っている当の本人は、表情を変えない。すぐさまクランケを眼で追い、握る刀に力を込める。
「平気?」
問われた桜満は言葉を発することができず、即座に頭を縦に振る。共に床に突っ伏していた穂波も、短く答えた。
「そう。じゃぁ安全なところに隠れていて」
「は、悠さんこそっ、その傷!」
すぐにも駆け出そうとした悠に、桜満は呼び止めを意味して力を振り絞って口を開く。
「僕は大丈夫。優沙希、二人を」
「はいっ」
近寄ってきた優沙希に目配せして、悠は再び突進してくるクランケに向かった。大丈夫とは思えない傷に、桜満は乱心してしまうほど世界が回って見えた。しかしそんな悠の後姿が、なぜだかホームで見た悲しい泣き顔と重なる。
(俺、おれは……)
立ち上がるときでさえ穂波の手を借りてしまうほど、足元はおぼつかなかったが、重なった悠の涙が桜満の脳裏に焼き付き離れない。
「桜満くん?」
穂波に名前を呼ばれ、ふと頭を上げる。視点は穂波の顔に合うが、視界には舞台上のピアノが混じり、はっと我に返る。
(ピアノ――――――?)
黒く光るグランドピアノが舞台中央に、大きく待ち構えている。
「お兄さん?」
今度は優沙希が自分を呼ぶ声が聞こえたが、そちらに視線を戻すことはない。
(ああ、そうか。思い出した、あの時と一緒だ)
立ち尽くす桜満は、豁然とした気持ちに、晴れ晴れとしたように眼界が開けた。
「――――――俺の」
「え?」
「俺のやるべきことが、わかりました」
駆け出した桜満は、一直線に舞台上のピアノを目指す。黒光りした大きなグランドピアノにはサスが当たり、その場を引き立たせている。
いきなりの出来事に、穂波と優沙希は困惑するが、すぐさま桜満の後を追う。後方では悠とクランケの戦闘が激化を増していることを、音で確認した。
桜満はピアノの蓋に手を掛けた瞬間、鍵がかかっていないか一瞬不安になったが、何の抵抗もなく開いたため、そのまま椅子に腰掛けた。自宅用のピアノには鍵など掛けたことなどないが、ホールなど他人に触れられる場所にあるものは大抵鍵がしっかりとかけてあるものだ。そのため鍵のかかっていないピアノに、不信感を抱くところではあったが、今はそんなことなど考えている暇などない。むしろかけ忘れたのだろうと、ホール管理者に感謝したいほどだ。
(俺のできること!)
緊張はまったくしていなかった。切羽詰っているはずなのに、心は落ち着き払ったものだ。心臓も一定のリズムを崩さない。一呼吸置いて、桜満は両手を鍵盤上に翳す。
十年前の、母親の演奏会。
初めて大勢の前で弾いたときのことを、桜満は今はっきりと思い出した。
「桜満は何のためにピアノを弾くのかしら?」
黒いドレスに身を包んだ母親が、幼い桜満の目線まで腰を下ろして聞いてきた。
「聴いてくれる人を楽しませたい!」
声を潜めながらも、弾ませた笑みを母親に向ける。
「そう、素敵なことね。緊張してる?」
「少し。でも僕の曲を楽しみにしてるって言ってくれた人がいるんだ!だからがんばって最後まで弾くよ」
客席から響く拍手。
椅子に腰掛けると拍手は鳴り止み、静寂が幼い桜満を包む。
両手を鍵盤上に翳し、曲は一音を刻んだ。
弦の低い音がホールに響き、反響する。
悠の刀と、クランケの爪がぶつかり合う金属音がそれを重ねる。
(知ってる。俺は昔からそうだったんだ――――――)
(そう。俺はあのときから……悠さんのために、ピアノを弾いてたんだ)
重厚なピアノの音色が、ホールを全て覆い尽くした。
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