3192人が本棚に入れています
本棚に追加
28
ひと眠りした後。目覚めてもウルがいることに蓮が安堵していると、「しまった」とウルが唐突に上体を起こして、蓮は目を丸くした。
「な、なに? 何か、やり残していたことでも思い出した?!」
「……レンに土産を買ってくるのを、忘れた……」
なんだ、そんなこと? と思わず蓮が笑ってしまうと、ウルの表情が恒例の、苦虫を噛みつぶしたようなものになる。
「レンとの約束を、破ってしまった」
「いいよいいよ。ウルがのんびりお土産買ってたら、俺が今ごろどうなってたか分からないもの。それに、名物のマルウオのパイ、ウルがいない間に食べちゃったし」
それはそうだが、と生真面目な伴侶がぼやくのを聞きながら、蓮はあれ、と首を傾げた。
「そういえば、俺もなにか忘れているような……」
目まぐるしい程にあれこれとあって、大事なことをいくつか忘れている気がしてならない。二人、それぞれ別なことでうんうんと唸っているところに、軽やかに扉をノックする音がした。ウルが応えると、激しい勢いでマリナが部屋に飛び込んできた。
「奥様あああー! 大変です! 先日お出ししたマルウオのパイ、なんとニセモノでしたっ! こちらがホンモノですにゃ!」
興奮しながらマリナが運んできたのは、丸いパイの上に魚の頭が乗っているというなかなかショッキングな食べ物だ。マリナは「これは猫垂涎の一品ですねっ、見事な造形ですっ!」と目を輝かせているが、一見すると魚の頭が、パイから無数に生えているようにしか見えない。
そうして、蓮はふと思い出した。マルウオのパイに執心して、それに姿を変えさせられてしまった哀れな人間がいるという話を、聞いたことを。
「……すっかり忘れていたけど、もう一人、魔人になっちゃった人が……いるかもしれません……」
何の話だと、ウルとマリナが怪訝そうな顔をする中、蓮はひきつり笑いを浮かべる。
やがて、リコス神のほとりをうろつく魔人が無事捕獲されたが、しばらくの間リコスの王都ではまことしやかに『偽マルウオパイの呪い』が囁かれることになるのだった。
***
アルラ国の王都で一番の服飾家と言われる怒りのマダムにようやく認められ、アルクタは自分で制作した衣装を緊張しながらマダムの店の片隅に飾っていた。自分がアルラの王族であったのは夢だったのではと思うくらいに、今の生活に馴染んでいる。何より、マダムの一番弟子であるということが彼の誇りだ。
「ふん、まあ良くできたじゃないか。あんたは筋が良い。下働きしながら毎日コツコツ頑張った甲斐があったね」
開店前に様子を見にやって来たマダムの言葉に、涙ぐみそうになる――そんなアルクタの視界に何か動くものが見えた。
にゃあ、と黒い猫が店の中から現れ、アルクタのおやつを口にくわえて走り去っていく。「あっ、こら待て!」と声をかけたものの、入り口の角に足の小指をぶつけ、挙句片方の靴が脱げてアルクタがボロボロになっている間に、大きな黒猫はさっさと駆け去ってしまった。
「むん?!」
そんな折り。突然のマダムの唸り声に、アルクタの背が、ビシっと真っすぐになる。これは紛れもなく、マダムの怒りが発動される兆候だ。いま、おやつを失ってしまったくらいで、自分の準備は完璧――そう思いあがっていたのが、いけなかったか。そばかすが薄くなってきつつある顔を青くしたり赤くしたりしつつ、アルクタがマダムの言葉を待っていたその時、マダムは突然アルクタの脱げたままだった片方の靴を拾い上げた。
「あ! 今、拾おうと思っていたところです、マダム」
敬語もちゃんと使えるようになった。それなのに、マダムは「うぉりゃぁあああああ!!!!」と奇声を上げると、思いっきりアルクタの靴を店の床へと叩きつけた。
「えっ? ……えええーーー?!」
思わず泣きそうになっていると、「ちっ、逃げ足の速いヤツだねっ」とマダムが再びアルクタの靴を拾い上げる。
「ま、マダム?!」
「わたしの大事な店に、虫のお客なんざお呼びじゃないんだよっ!」
アルクタの靴を片手に鬼気迫る勢いでマダムが店の中を駆けまわり、再び見事な剛腕でアルクタの靴をぶん投げる。その先に、アルクタが見たことのない、しかし見るからに害虫と言った感じの気味の悪い色の物体を見かけてしまった。アルクタは、それを見なかったことにして自分が用意した衣装へと、そっと視線を向けた。
「よっしゃああああ!!!」
背後でマダムが上げる勝利の雄叫びを聞きながら、アルクタは靴づくりを自分も始めてみようかと、思案を始めるのだった。
リコス国編~彼が靴を作り始めた理由 Fin.
(後日談+番外編に続きます)
最初のコメントを投稿しよう!