遥か、愛しのニライカナイへ捧ぐ歌

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遥か、愛しのニライカナイへ捧ぐ歌

 ただ昨日と同じ今日を過ごしているだけだというのに、どうして当然のように季節は移り変わって行くのだろう。正月が終わってもずっと寒かった記憶しかないのに、いつのまにか桜は咲き、散り、湿った鉛色の空が晴れればまた蝉達があちこちで合唱を始める。七月三日、今日も外は滅入るほどに蒸し暑い。  ──去年の今頃は、楽園にいたのにな。  燃える太陽、緑に囲まれた白い道、山羊の鳴き声と、青よりも青かった空と海。 「はぁ……」  思い出せば溜息が出る。あれは実際に体験したことだったのか、何とも不思議な気持ちになる。俺が住んでいる東京より遥か南、飛行機に乗って、フェリーに乗って、ようやく辿り着いたこの世の楽園──。 「南雲(なぐも)。南雲くん。……南雲くんてば」  呼ばれてハッとし、ここが楽園ではなくバイト先の喫茶店であることに気付く。 「すいません、ボーっとしてました」  青空が恋し過ぎて、ついあの日のことを思い返していたらしい。モップを握ったまま立ち尽くしていた俺は、慌てて掃除の手を再開させた。 「抜けてるのは南雲の可愛いところでもあるけどね、突然フリーズされるとこっちもビックリするのよ」 「すいません。ちょっと考え事してて」  カフェと呼ぶには少し図々しい、繁華街の路地裏にある喫茶店。隠れ家的なそれを目指している訳ではなく、知る人ぞ知る穴場、などという大層なキャッチフレーズが付いている訳でもない。ただ家賃が安いから立地も悪い、それだけだ。  ここの店長は俺の母親の姉──すなわち俺にとっては叔母にあたる人である。年齢の割には見た目が若く、派手な女性だ。長い黒髪に頭にはペイズリー柄のバンダナを巻いていて、耳には大きな輪っかのピアスがぶら下がっている。若く見えるのは本人が年相応の化粧や服を選ばないのもその理由だが。一番の理由は、きっと独身で男が途切れないからだろう。 「まったく、あんたは妹に似てどこか間抜けなんだよ。放っとけないっていう括りに入るのかね。見ていて危なっかしいっていうか」  口は悪いが、性格まで悪い人じゃない。俺は苦笑して頭を下げ、モップを床に滑らせる。 「あんたが女だったら、私が男にモテるテクを教えてあげられたのに」 「そしたら俺は今頃、雪江さんの店で働いてませんでしたね」 「そうね。私もあんたくらいの齢の頃は、高級クラブで輝いてたわよ」  若作りなどしなくても本当に若かった頃には、クラブのホステスとして結構な稼ぎを挙げていたという俺の叔母、雪江さん。今もその名残があるからか、喫茶店の女店長というよりはスナックのママといった方がしっくりくる。いっそのこと、この店もスナックに変えてしまえばと俺は思う。 「男が一人で稼ぐのは大変なのよ。大企業の社員になれるのなんて一握りだし、その他でガツンと稼ぐとなったら、寂しいマダムか変態相手にカラダを売るしかないの」 「女性だって、一人で稼ぐのは大変じゃないですか?」 「女は幾らでも方法があるじゃないの。キャバクラも風俗も、男のためにあるんじゃない。女が稼ぐためにあるのよ」  どこか考え方がズレている雪江さんだが、俺は子供の頃からこの人が好きだった。まだ母親が生きていて三人で一緒に暮らしていた時、雪江さんは毎日俺にお土産を買ってきてくれたのだ。絵本やオモチャ、ドーナツ、ケーキ、……それから、服。文房具。  母さんはいつも体の具合が悪くて、たいてい寝ていた。だから雪江さんが俺達を食わせてくれていたのも同然だった。母さんの病院代・治療費なども雪江さんが出していたし、学校の授業参観や運動会も雪江さんが来てくれていた。俺にとって二人目の母親。少し派手で、開けっぴろげな性格で、男好きな、だけど気の良い母親だ。 「もうすぐ十一時か。南雲、床掃除終わったら店開けといて」 「雪江さんは?」 「煙草切れてるの忘れてたわ、買ってくる」  財布を持って店を出て行く雪江さんと入れ替わるようにして、俺はモップをしまうためカウンターの奥へと入って行った。  明かりを点け、有線のスイッチを入れる。天井でファンが回り出し、エアコンの温度を少し下げた。小ぢんまりとした喫茶店「花雪」は、昼時が一番忙しくなる。この界隈の従業員たちが一服したり飯を食べにくるためだ。  場所柄、OLや学生は来ない。来るのは水商売や風俗店の従業員、それを経営している側の人間、出勤前の風俗嬢、その辺りだ。ひそひそ声で顔を突き合わせている黒服もいれば、たまにキャバクラか風俗の面接をしているのもいる。  毎日見る顔はあっても、俺達はどの客とも必要以上に会話をしない。客は全て客で、常連でも一見の客でも皆同じだ。注文を取って出して、会計して終わり。余計なことには首を突っ込まない方が、この街では上手くやっていける。これは雪江さんから教わったことだった。 「いらっしゃいませ」  喋る時と同じ声のトーンで挨拶すれば、咥え煙草で入ってきた柄の悪い中年男性が俺に向かって小さく手を挙げた。「いつもの」の合図だ。ホットコーヒーと、シンプルなハムサンド。出勤前の彼にとっては、これが朝食である。  カウンター奥でパンをカットしていると、雪江さんが財布と煙草を握りしめて戻ってきた。隙間なく塗ったファンデーションが、梅雨独特の湿気で既に少し崩れかかっている。 「ったく、暑いわね。梅雨は嫌いよ。べたつくしむしむしする。早く明けてくれないかしら」 「暑くなったらなったで、お客さんが増えるかもしれませんよ」  適当に返しながらパンにバターを塗り、オーブンに入れてメモリをセットする。その間にコーヒーのおかわりが入り、新しいカップを用意した。 「結局、一年中同じよ。夏も冬も、こうやって静かにコーヒー作って出してるだけ」  客からは見えない位置にある換気扇の前で、雪江さんが煙草を咥える。気だるげに紫煙を吹き出すその姿は、やはりスナックのママだ。 「コーヒー作ったり出したりしてるの、殆ど俺なんですけど……」 「そのくらいしなさいよ。仕入れだ何だって、全部私がやってるんだから」 「一服したらちゃんと働いてくださいよ。もうすぐ昼休憩の人達がどっと来る時間でしょ」  俺に向けて思い切り舌を突き出す雪江さんは、やはり中年と呼ばれる年代ではあっても可愛らしかった。男を惹きつける魅力はあるが、同時に、男に捨てられるタイプでもある。本人も熱が引いたらすぐに目が覚める性格なため、常に男はいても長続きしない。この人はそのくらいが丁度いいのだ。
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