遥か、愛しのニライカナイへ捧ぐ歌

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「いらっしゃいませ。……あら、田中さん珍しい。どうしたのこんな早くに」  雪江さんの声に俺も顔を向ける。入って来たのは雪江さんの昔からの知り合いで店の常連でもある、田中智一という中年紳士だった。いつもはスーツ姿なのに今日はラフな普段着だ。  田中さんはしきりに扇子で仰ぎながらカウンターに腰掛け、アイスコーヒーを注文した。 「実は明日から一週間、沖縄に行くんだ。雪江ちゃんと南雲に土産でもと思って、リクエスト取りに来たの」 「あら、いいわねえ沖縄。仕事で?」 「バカンスだよ」 「羨ましい。ここ数年旅行なんて全くしてないわ」  カウンターを挟んで笑い合う雪江さんと田中さんが過去に付き合っていたことは、俺も知っている。 「お土産なんて要らないって。元気で帰って来てくれればいいの」 「雪江ちゃんはやっぱ泡盛がいいかな。南雲はシーサーのキーホルダーとか」 「ちょっとちょっと、南雲はもう来年二十歳なのよ。キーホルダーなんて子供じゃないんだからさ」 「あっはっは、そうか南雲ももう二十歳か!」  豪快に笑い合う二人。別れてもなお仲が良い大人の男女。一度は関係したことのある相手と健全な友人関係に戻るって、どういう気持ちなんだろうか。 「俺は何でもいいですよ、キーホルダーでも」 「まあまあ、現地でじっくり選んで来るよ」 「本島に行くんですか?」 「ああ、期間も短いから離島は次の機会にしようと思ってな。プライベートビーチ付きのホテルだから、のんびりできるって点では本島も離島も変わらないさ」  いいわねえ、と雪江さんが溜息をつく。  俺は田中さんに言葉を投げかけようとして、……止めた。 「南雲も去年は一人旅したわよね、その時は島に行ったんだっけ」  田中さんが帰ってから、雪江さんが俺に言った。俺が田中さんの前でそれを話題にしなかったから、何かを察して黙っていてくれたらしい。雪江さんは肝心なところで空気を読んでくれる人だった。 「あんまりその時のこと話したがらないけど」  その時土産に買った陶器のシーサーは、今もカウンターの端に乗っかっている。二体で対になったシーサーはカラフルでコミカルな顔立ちをしていて愛らしく、何よりいつでも溢れんばかりの笑顔を振りまいている。  それは、「彼」によく似たシーサーだった。  燃える太陽、緑に囲まれた白い道、山羊の鳴き声と、青よりも青かった空と海。それから。  日に焼けた肌と均整の取れた筋肉、頬を伝う汗、弾ける水飛沫、綺麗な目。 南雲──。  波音よりもはっきりと聞こえた低い声は、未だこの鼓膜に残っている。 「………」 「南雲、どうしたの。またフリーズしてるわよ」 「あ、えっと……すいません」 「しっかりしてよ、もう。窓際のハンサムに注文聞いてきて」  気付けば一日のピークである昼時を迎えていた。店内の少ないテーブルは全て埋まっていて、カウンターにも二、三人座っている。初めて見る顔もあれば知った顔もある。雪江さんに頼まれた窓際の男の横顔もまた、見覚えがあった。 「ご注文は」 「………」  伝票とペンを握った俺の手のひらに汗が滲むのを感じた。  整った顔のパーツの中で一際綺麗な目が俺を捕らえたその一瞬、── 「……明鷲(あきわし)……?」 「南雲!」  波音よりもはっきりと、その声が鼓膜に飛び込んできた。
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