遥か、愛しのニライカナイへ捧ぐ歌

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*  一人旅と言えば聞こえは良いが、実際はただ一緒に行く友人がいなかっただけだ。一人なら行き先も泊まる場所も、現地で何をするかも全て好きなように決められる。誰に気を遣うこともなくのんびり過ごせる一人旅というものが、俺は好きだった。  去年の七月、ちょうど一年前。  特別想いを馳せていた訳ではないが無性に「南国」へ行きたくなり、突発的に地元を出た。雪江さんに貰った早めの夏休みを利用して、俺は日本の最南端へと飛んだのだ。  二度目の沖縄旅行だった。一度目は雪江さんと那覇にホテルを取って観光名所などを回るだけだったから、今回はどうしても離島へ行ってみたかった。それも観光客の多い有名どころではなく、なるべく人のいない静かな所へ行きたかった。  久高(くだか)島──神の島とも呼ばれる神聖な場所。琉球信仰においてアマミキヨという神が始めに作った島とも言われているその聖地について、俺は何の知識も持っていなかった。ただ立ち入り禁止の場所が多く遊泳禁止の浜などもあり、ビーチで浮かれる若者達がいなそうだなという印象だけで行くことを決めたのだ。  そこで出会ったのが、城間(しろま)明鷲という男だった。  明鷲は俺より三つ年上の当時二十一歳で、普段は本島で暮らしているが、祖母が住んでいるこの島へたまにやって来ては力仕事をしているとのことだった。  案の定観光客は殆どなく、十数人でフェリーに乗って辿り着いた島で初めに見た明鷲は、島の猫達に囲まれて笑っていた。猫の多い島だった。人馴れしていて、しゃがめば俺の元にも数匹集まってきたのを覚えている。 「一人か?」  明鷲が俺に声をかけてきたのは、俺が手持無沙汰で立ち尽くしていたからだ。来てみたは良いもののツアーガイドも友人もおらず、フェリー乗り場で貰った地図とパンフレットを手にぼんやりしていた俺が、何となく哀れだったのだろう。 「行きたい場所あるなら教えるけど、地図読めるか」  明鷲の白いTシャツが眩しかった。猫を抱えた腕が逞しかった。 「それとも、飯食ってくか」  俺を見下ろすその目が、綺麗だった。  俺は何も考えず明鷲について行き、フェリー乗り場の目の前にあった食事処へと入った。 座敷へ上がって沖縄そばをすする明鷲と向かい合い、俺も同じものを食べた。扇風機の緩い風が汗に濡れた髪を撫でてゆく。タオルで額を拭いながら蕎麦を食べて、それから外で一服して、さてどうしようかと考えたところで明鷲が言った。 「自転車借りてけ。有料だけど、歩いて回るのは結構難儀するぞ」  確かに、一緒にフェリーに乗って来た人達は自転車や原付バイクをレンタルしてさっさと行ってしまったらしい。そこには俺達しかいなかった。  自転車やバイクで一時間かからず一周できる、小さな島。だけど未舗装の道が多く、暑さもあって移動手段に自転車を使ってもかなり体力を消耗する。明鷲は親切な男で、島の見所を俺に説明しながら一緒について来てくれたのだった。 「ここから先は入っちゃ駄目なんだ」  看板には『フボー御嶽(うたき)』とあり、行事の祭祀場がある場所として有名な聖地らしい。明鷲自身も入ったことがないと言うから驚いた。元々は男子禁制で女しか入れない地だったのが、現在では男女共に立入禁止なのだと言う。  そして、アマミキヨが降り立ったとされるカベール岬。左右を島の緑に挟まれた白く長い一本道の先にある、久高島で最高の見所と呼ばれる最北端にある岬。視界いっぱいに広がる真っ青な海と空は今でも忘れられない。明鷲は言っていた、この先に続く海の彼方には神と死者が暮らす神域・ニライカナイがあるのだと──。 「俺もそこから来て、そこに還る。去年死んだオジィもニライカナイに還ってった」  それは天国という概念なのだろう、俺は黙って明鷲の言葉を聞いていた。  内側が大きく抉れた崖の上に立つのは怖かった。足場も不安定で、少しでもバランスを崩せば青い海の中へと真っ逆さまに落ちてしまいそうだった。明鷲が俺の腕を支えてくれなければ、きっと一人では崖の上に立とうという気すら起きなかっただろう。  それからロマンスロードと呼ばれる遊歩道の中にある休憩所で明鷲とジュースを飲んだ。休憩所といっても木製の小さな屋根付きテーブルとイスがあるだけだが、芝生が広がる向こう側に見える海と空は絶景だった。 しばらくそこで休んでいたら、ふいに明鷲が言った。 「海入るなら、良いとこ連れてくぞ」 何しろ何がどこにあるのか、道も分からない。俺は迷うことなく明鷲について行くことにした。 休憩所から自転車で数分、明鷲が指した先には二本の、木製の手摺のようなものがあった。南国の葉っぱが生い茂る奥にさり気なく存在していた手摺だ。言われなければ気付かなかったと思う。 明鷲に続いて近付いてみると、その先は殆ど垂直の岩場になっていた。眼下には綺麗な浜が広がっている。手摺に捕まりハシゴを下りて行く訳だが、途中からは手摺も命綱もない状態で岩場の凸凹に手足をかけ、自力で下りて行かなけらばならなかった。 死ぬ思いでようやく辿り着いた浜から見た空と海の青さは、生涯忘れることはないだろう。 静かで誰もいない「ウディ浜」。どこまでもどこまでも広がる海と、紺碧の空。俺はその美しさに言葉を失い、明鷲と顔を見合わせて表情だけで笑った──。  その後は明鷲が集落にある「オバァの家」に俺を招き入れ、冷たいお茶をくれた。日に焼けて皺だらけのお婆さんは嬉しそうに明鷲と喋っていたが、俺には二人のその言葉を聞き取ることはできなかった。 「やまとぅのにーにーやハイカラーではばね。よんなーして行きよーさい。うり、くゎーしをかめー」 「本土から来た男はかっこいいって。ゆっくりしてけ、菓子も食ってけって」  縁側でお菓子と麦茶を頂きながら、俺達三人はオバァと明鷲の言うところの「ゆんたく」をした。オバァが俺に何か言い、明鷲がそれを訳し、俺が答える、という会話を一時間近くした後で、俺は何度も礼を言ってオバァの家を出た。名所を回るのに思いのほか時間を要してしまったため、帰りのフェリーの時間が迫っていたのだ。  明鷲の親切は有難く、別れるのに少し寂しさを感じた。たまたま訪れた旅行先でちょっと仲良くなった程度の男なのに、もう会えないと思うと泣きそうになった。だけど俺達は特にアドレスを交換することもなく、俺は明鷲に手を振って本島へ向かうフェリーに乗った。
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