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ピンク色のランドセルを背負った少女がヒロユキの真後ろに立っていた。
五年生か四年生くらい。紅茶に牛乳をたらしこんだような髪はやや長めのストレートで肩の下あたりまで伸びている。可愛い顔立ちをしているが、どこか薄汚れていて、黄色い通学帽子の庇がほつれていた。服装も今風ではなくて、色の褪せた青っぽいブラウス、えんじ色の格子柄のキュロットを穿いている。
「あの、これ。お使いで来ました」
少女は白い封筒をヒロユキに差し出した。
表書きは<お弁当注文書>
裏書きは<釣鐘堂店主 阿僧祇晴陽>
ヒロユキは思い出した。毎年、ゴールデンウイークに弁当の大量注文が入ることを、惣菜マネジャーの玉川莉乃から聞かされていた。あいにく、玉川マネジャーはきょうは公休日で不在である。マネジャーのほかに惣菜部社員は二人いるが、そのうちの一人は早番勤務のため五時半に帰宅しているし、もう一人は今頃、店長からの御叱りミーティングの真っ最中のはずだからさすがに報告には行けない。
「お弁当のご注文ですね。ありがとうございます」
ヒロユキは口先は明るく、しかし受け取る手は面倒臭げだった。
少女は訝し気にヒロユキを眺め、かすかに笑った。
ヒロユキはぎょっとした。子供とは思えない意味深で、大人っぽい表情に見えたからだ。心の内を見透かしたような嗤いとでもいうべきなのか。
「気をつけた方がいいよ」
少女はぼそりとつぶやくと、ランドセルをカタカタ鳴らしながら売り場から去っていった。
クソ生意気なガキだな。いったい、何に気をつけろというんだ? こっちはあと三十分で閉店業務を終わらせなきゃならないのに。そうしないと、<山だるま>が、チクチク嫌味を言いに来るのだ。
おい、退店時間は何時だか知ってるだろうな。ちんたら掃除してないで、さくさくやれ。
達磨のように腹が太った、夜間管理マネジャ-の山田。それでついたあだなが、<山だるま>。
ヒロユキはバックヤードに入ると、マネジャーの事務机に封筒を投げた。
封筒は勢いよく机上を滑り、青色のポリバケツへ落下していった。封筒は油と水でふやけた生ゴミに中へ沈んでいった。ヒロユキは確認を怠ったのだ。本当は封筒は机の上にあるべきだという常識がそうせたのに過ぎなかったのだが。
彼にとっての優先順位は売り場掃除を早く終わせることであり、封筒を机の上に置いたか落ちたかはたいした問題ではなかったのである。
しかも入れ違いに、店長から怒られていた社員が戻って来て、そのゴミポリバケツを処分してしまった。
やがて店内に営業終了のBGMが流れ始めた。
ヒロユキは、後片付けに専念しているうちに、弁当注文の封筒をすっかり失念していた。本来なら、弁当の注文の依頼があったことを社員に報告しなければならないのだが、早く帰宅することばかりに気をとられて、忘れてしまったのだ。
閉店時刻から十五分ほどすぎると、店内の照明が半分に落とされ、陳列ケースのスポットライトも暗くなった。
「よし、終了だ」
ヒロユキは社員に業務が終了したことを告げると、ロッカーで着替えをすませて、退社した。
従業員通用口のそばに自転車置き場がある。
外灯があたりを薄暗く照らしていたが、闇に紛れて何か名状しがたい煙のような動きが視界を遮った。ヒロユキは教科書が詰まったリュックを背負いながら闇の奥へ目を凝らした。
なんだ、ありゃ?
彼は目をしばたいた。もう一度目を凝らした。何もなかった。
きっと疲れ目ってやつだ。
ヒロユキは自転車にまたがった。午後九時半をまわった商店街通りはどこもシャッターをおろしており、水銀色の明かりだけが雫のように落ちていた。
商店街通りから広い国道へ出た時、ピンク色のランドセルが見えた。
こんな時間にランドセルを背負った小学生の姿はいかにも不自然に思えた。
親に虐待でもされて帰る場所がないのだろうか。家に帰っても居場所がないとか。それにしても、肩を落とし、元気なさそうに歩いている。
どうしよう、声をかけてあげようか。
ペダルをゆっくり漕ぎながら思案していると、突然、ヒロユキは思い出した。
しまった! 客注のことを言うのを忘れてた! 封筒は机に置きっぱだけど、大丈夫だろうか。戻った方がいいだろうか。店に電話するか。
後悔と逡巡が頭をぐるぐる回る。
ヒロユキは左手をハンドルから離してズボンの尻ポケットからスマホをとりだした。右手でハンドルを操り、左指はディスプレイをなぞった。
その時、視野の片隅を黒い塊が横切った。
一瞬のうちにバランスが崩れ、自転車の車輪は道路の縁石に乗り上げて、そのまま転倒した。
道路に激突する金属音が響き、スマートホンが渇いた音をたてて滑っていった。
左の肘から肩にかけて激しい痛みが走った。
落車のショックと痛みで声も出ないし、起き上がることもできなかった。
「大丈夫ですか」ランドセルの少女がヒロユキをのぞきこんでいた。「だから注意したでしょ。あなたがいけないのよ」
少女は薄く笑うと、ヒロユキを救護することもなく、そのまま行ってしまった。
救急車のサイレンが聞こえたのは、それからしばらく経ってからだった。
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