休日返上

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休日返上

                1  玉川莉乃(たまがわりの)は三十三歳、独身。高校時代にデパ地下のデリカテッセンでアルバイトをしてから、サラダや揚げ物の世界に魅了されてしまった。  薄くスライスしたオニオンに生ハムとレモンと刻んだ生パセリとフレンチドレッシングを和えたな一品が白い洒落た大きな皿に盛りつけられていく。  透き通るようなオニオンに黄色いレモンと淡紅色の生ハムが色鮮やかだ。いかに美味しそうに見せるかを考えなきゃならないの。先輩のアルバイトが教えてくれる。照明の光の位置も大事よ。順光、サイド光、逆光・・・光の差す方向で食べ物の色が映えたり、沈んだりするのよ。先輩が盛りつけた<生ハムとオニオンのレモン和えサラダ>は陳列ケースの中で、宝石のように輝きはじめる。  たったひと品のサラダでも深い愛情が込められているのだ。ステキな思いが込められたお惣菜の数々がスポットライトを浴びて、買われていくのを待っている。  だがその純粋な思いも最近は褪せてきた。  重くどんより澱んだ閉塞感に彼女はずっと悩んでいた。原因はわかっている。売上と利益の低迷、食品ロスの悪化。人員不足。上層部からのプレッシャーと叱責。不振部門の吊るしあげミーティング。  心の奥には闇のような黒い穴が広がっていくような病的な感覚があった。  出勤して更衣室で着替えている最中に、会社専用に持たされているPHSの着信が鳴った。 「もしもし、玉川か?」相手は店長の奥田だった。「奥田だけど、今どこにいる?」不機嫌そうな声だ。 「ロッカーです」 「じゃ、着替えたら事務所まで」 「はい」  莉乃も負けないくらいにぶっきらぼうに答えた。黒い穴がむんと膨れた感じがした。きっと、数値の苦言だ。ここ数日のあいだ、予算比も昨年比も割っている日が続いているからだろう。人手不足で予定数量を製造できない、提出書類が多すぎる、残業するな、あれもやれこれもやれ・・・パート従業員からは不平不満が噴出している、負の理由はいくらでもあった。だが、店長にしてみればただのいいわけだ。うんうんと、納得などするはずもない。 「おはようございます」   莉乃は事務所に入った。出勤しているのは店長だけである。泥ごぼうを連想させる細い容貌とモヤシのような細い目をしている。額はのっぺりと広く不健康そうで、肌には脂がてかっていた。年齢は五十に近いそうだ。モヤシのような眼が生き物のようにぴくりと動いた。 「ゴールデンウイークの販売計画はどうなっている?できた?」 「いや、その、まだできてません」莉乃はどきまぎしながら俯いた。「明日までには提出します」 「あのさ、お前んとこだけだよ、出してないの。で、さ。何を仕掛けるんだ?まさかイメージもできてないってことは、ないよなあ」 「はい、涼味関連をトップに展開して、あと焼き鳥とおつまみ唐揚げを」 「ふーん。で、いくら売るの? 昨年対比で何をどのくらい?」 「えっと・・・」  ハッタリでもかませばいいのだが、奥田はその整合性をあとで必ずチェックするから、ごまかすことはできない。 「申し訳ありません、きょう中に作って提出します」  さっさと退散しないと、朝の作業が間に合わなくなる。店長は説教が始まると、延々と長いのだ。相手がアルバイトだろうとパートだろうと、彼らの契約時間がすぎてもお構いなしだ。莉乃は頭を下げて退室した。彼女の後ろを奥田の声が追いかけた。 「ちょっと待った! 弁当の客注はどうなってる? 例の釣鐘堂(つりがねどう)さん。今年は何個の注文だ?」 「今年も千八百円の豪華絢爛弁当を百八個です。ただ中身がまだ決まってなくて、昨日、釣鐘堂さんが来ることになってましたけど。確認します」  釣鐘堂は、毎年ゴールデンウイークと年末になると、いつも大量の高価な弁当を注文してくれるお得いさんなのだ。 「おお。いい金額だな。しっかり応援体制を組んで作れよ。おれもフタくらいならできるぞ」  珍しく笑った。まだそれほど機嫌は悪くないようだ。  
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