休日返上

2/5
11人が本棚に入れています
本棚に追加
/42ページ
               2  釣鐘堂の注文書が紛失していることに気がついたのは、遅番社員が出勤し、ほどなくして高校生アルバイトの鈴木ヒロユキの母親からの電話が入ってからだった。  ヒロユキは落車転倒したあと、通りすがりの人の機転でようやく救急車が呼ばれた。左肩擦過傷と左鎖骨骨折と診断され、入院したという。母親はご迷惑をおかけしますと何度も詫びながら、閉店間際に小学生の女の子が注文書を持参して、息子がそれを作業場の机に置いたので確認してくださいという旨を話した。  莉乃は、朝出勤すると必ず机の上をチェックする。申し送りのメモや伝票などがあるからだ。しかし、莉乃は封筒を見ていなかった。昨日の遅番社員も受け取っていないという。  コンコースの防犯カメラを再生すると、ピンク色のランドセルを背負った少女がヒロユキに封筒を渡し、ヒロユキが封筒を手にバックヤードへ向かっている動画が映った。防犯カメラは惣菜の厨房内には取り付けられていない。 「机に置いたつもりが、ごみ箱に入っちゃたのかなあ」  莉乃は青色のポリバケツをのぞきこんだ。 「ゴミ箱の中だったら、おれが気がつかないで捨てちゃいました」  遅番社員は事の重大さを認めていないような口ぶりだ。 「うーん、よく見ろよ」  まだ二十代の男性社員の頭を叩きたい衝動をこらえながら、莉乃は頭を抱えた。  拙い、おおいに拙い。注文書には、盛り付けるおかずの内容と品数、正確な数量、お渡し時間などが書かれているはずだった。  莉乃はノートパソコンを開いて顧客名簿アプリを立ち上げた。  つりがねどう、つりがねどう・・・  つぶやきながら、エディタの名簿覧を追っていく。  釣鐘堂。  阿僧祇晴陽(あそうぎはるひ)様  住所 栃木県黒芦尾村(くろあしおむら)  電話番号 九〇二八二・・・  莉乃は傍らの電話機を手元へ寄せた。 「釣鐘堂です」  男の無愛想な声がした。 「ふれあいポート錦糸町店の惣菜を担当している玉川莉乃と申します。この度はお弁当のご注文をありがとうございました」  莉乃は不手際を詫び、ファックスで再送信できないかたずねた。 「あいにくだが、そういうことならキャンセルしよう。ファックスがあれば初めからそうしているよ。なんのために、お使いを出したと思っているんだ?」 「申し訳ございません」  莉乃は見えない相手に向かって頭を何度も何度も下げた。はいそうですか、とあっさり引き下がるわけにはいかない。大事なお得意様だし、営業成績にもかかわるし、下手したら自分が懲戒処分だ。 「謝るだけでは理由がわからんよ。おりんは、惣菜売り場の若いお兄さんにしっかりと渡したと言っている・・・お兄さんがちゃんと責任を果たさなかったということかな」  おりんとういうのは、ランドセルの少女を指しているのだろう。 「本当に申し訳ございません」 「まあ、誰にでも失敗はあるがの。わかったから、あなたがここまで来られるのなら注文書を渡そう。ちゃんと書き直しておくよ」 「ありがとうございます。早速、伺わせていただきます。明日でもよろしいですか」 「もちろん。ところで場所はわかるかね?」 「はい」  顧客の住所はわかっているし、ネットで地図検索をすれば問題ない。念のため、莉乃はパソコンに登録された住所を読み上げた。 「まちがいない。ただし、来るときは山歩きに適した靴と服装で来た方がいいよ。なにしろ田舎でね、道がぬかるんでいたり、でこぼこしてるから」 「わかりました、ありがとうございます」  莉乃はほっと胸をなでおろした。  明日は自分の公休日だが、お客様の家へ伺うだけである。住所が遠いのが気になるが大したことないだろう。  しかしそれからが大変だった。  アルバイトのヒロユキが急遽欠勤になってしまったから、莉乃がその埋め合わせをしなければならないからだ。  ルーチンの製造に接客、発注。次は十六時現在の売上数値確認をして売り場の手直しと作業指示。ここまではマネジャーとしての仕事。そして十九時からはバイト担当の仕事をこなす。値下げと売り切り、清掃。  デスクワークにとりかかれるのは、閉店午後九時を過ぎてからである。  こんな時間になってやっと落ち着くのだ。朝七時に出勤してもまだ帰れないい長時間勤務。  しかし、あの<山だるま>は嫌味たらっしくのたまう(・・・・)。 「残業はするのは、人員計画ができていないからです。人件費を削らないと、惣菜部門は今月も赤字ですよ。労働分配率を把握していますか」  そこまで言われては残業申請はさすがにできなかった。  あいつは、言うだけで何もしないクソ野郎だ。ご苦労様のねぎらいすらない。  莉乃は静かになったバックヤードでパソコンに向かった。  キーボードを打つ音だけが静かに流れていく。  せめて缶コーヒーくらいをと、飲みながらキーボードを打つ。  店長の奥田に、本日中に計画書を提出すると約束してあったから、明日に引き延ばせない。  疲れと眠気で思うようにはかどらなかった。  莉乃は廃棄寸前のおにぎり弁当のパックを破いた。空腹にはステキなほど美味だったが、急に悲しくなって涙が頬を伝わった。  毎日、毎日、こんなことの繰り返し。怒られてばかりで楽しいことなどない。たまに結果を残しても、誰も褒めないし、達成感も希薄だ。  働いているというより精神肉体苦行だ。  ほーっと大きくため息をついて、宙をぼんやり眺めた。よほど疲れているのか、視線の先に黒い靄のようなものが見えた。風船のように膨らんではしぼみを繰り返しながら、天井を浮遊している。  まるでわたしの心みたいだ・・・けっこう疲れてるな。あんな幻覚を見るようじゃ。  きょうはもうおしまい。  計画書は未完成だが、なげやりな気持ちの方がが勝ってしまった。    
/42ページ

最初のコメントを投稿しよう!