第四章

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「遅くなってごめんなさい、でも、準備できました! から!」 「よくわからんが」  新居崎は、口を開いて、閉じた。何か思案するような表情で、一度ドアを振り返ったあと、新居崎から進んで部屋の奥へ上がり込んできた。 「とりあえず、失礼する」 「はい、汚いところですけどどうぞ」  しまった、簡単にでも部屋を片付けておけばよかった。  リビングとはいえ、民俗学関係の資料が食卓に積み重なっておいてあるし、筆記用具もパソコンも出しっぱなしである。  また怒られる! と慌てて片付け始める麻野の隣を通り抜けて、新居崎はベランダに出た。 「暑かったですね、すぐにクーラーいれますから」 「ここから、星を見ていたのか」 「あ、はい。……先生」  渡さないと、と置きっぱなしだった封筒を掴んだ麻野だったが、新居崎がベランダに出たままぼうっと空を見上げていることに気づいて、動きを止める。  夏の生ぬるい風に前髪を揺らす姿は、そのまま闇に溶けてしまいそうなほどに憂いを帯びていた。  握り締めた封筒を、机に置いて。  誘われるように、新居崎の隣に立って空を見上げた。 「先生から宇宙の話を聞いて、あれから興味がわいたんです。って言っても、全然詳しくないんですけどね。空を見てると、落ち着くというか。大きいなぁって思うんです」 「ああ。宇宙は広くて大きい。未知が当たり前のようにあるんだ」 「……未知、ですか。なんだか先生が言うと、不思議ですねぇ」 「は?」  半眼で睨まれて、麻野は肩をすくめる。 「先生って、けっこうはっきり言うじゃないですか、理論的にだとか、物理的にだとか。不確かなものって、信じないんだと思ってました」 「きみは私をなんだと思ってるんだ。不確かなものは存在するし、だからこそ面白いんだろう。……私にだってわからないことは沢山ある」 「例えば?」 「だから、沢山あると言っているだろう」  そう答える新居崎の表情は、やはり、憂いを帯びていて。少なくとも京都旅行の間は、こんな表情をしていなかったはずだ。あのあと、何かあったのだろう。  でも、何があったんですかと直接聞くのも憚られるし、聞いたところで役にたてることなど微量に過ぎないはずだ。もしかしたら、麻野にはどうすることもできない事柄かもしれない。  麻野のような、いち学生に、准教授の悩みを解決できる力はない――と、わかってはいても。  なんとか力になりたいと思ってしまうのは、麻野の性分だった。 「お仕事、忙しいんですか?」 「まぁな。教授が多忙を極めているから、手伝いに駆り出される」 「先生なら、そつなくこなしそうですねぇ」 「嫌だとか言える立場じゃないからな」 「すごいですね。私なんか、あれ以降、自分の課題に追われてます。神田教授のお手伝いは相変わらず雑用しかできないし。私もいつか、努力し続けたら、先生みたいになれますか?」 「無理だろう」  ぴしゃり、と言い切った新居崎は、踵を返して部屋に入った。
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