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首の後ろで一つに束ねた、長い黒髪。整いすぎている、能面のような無表情。背の高い新居崎よりも背が高い男は、和服の裾を風になびかせながら、立っていた。
深紅の瞳だけが爛々と、新居崎を獣のようにとらえている。
「麻野。一緒にこい」
そう告げたのは、部屋に突然現れた男のほう――酒呑童子だ。暫く京都へ行っていたはずだが、戻ってきたらしい。
「どこに行くの?」
酒呑童子の視線が、麻野へ向く。だが、身体は新居崎と向かい合ったままだ。まるで威嚇しあう獣のように、お互いの存在を意識しているのがわかる。
「今から、契りの儀式をする」
「ちぎり?」
「お前を正式に俺の嫁にする。そうすればお前を襲う者などいなくなるし、俺が生涯守ってやれる」
派手な音をたてて、湯呑が床に転がった。少し遅れて手から滑り落ちたお盆が、床を打ち付ける。
「え。……でも、あの、しーちゃん、彼女がいたんじゃ」
「特定の相手はいない、ただの遊びだ」
確かに静子――もとい、酒呑童子が連れていた女はいつも違った。それは確かだ。けれど、なぜいきなり、酒呑童子は麻野を嫁にするなどと言い出したのだろう。
幼いころに麻野からプロポーズをして。
高校時代、正式に求婚された。
そして交際期間を経て――麻野は、酒呑童子に振られた。彼の差し出した手を取ったのに、酒呑童子のほうから、麻野を捨てたのだ。ほかの女がいいから、麻野とは「友人」でありたいと、彼は言った。
「――麻野。お前は俺の許嫁だ。そうだろう?」
「うん」
「傍にいると言ったはずだ、お互いに」
「言った」
「ならば、迷うことなどない」
「……迷うよ」
麻野は、落としたお盆を見つめながら。頭の中を整理しつつ、口をひらく。
「しーちゃんは、私と別れたんだよ? なのに、いきなり結婚なんて言われたら混乱するよ。だって、生涯友達でいようって約束したんだから」
「事情が変わった。もう一度、俺の手を取れ」
酒呑童子が、麻野へ手を伸ばす。
静子の、女性らしく磨き抜かれた手ではなく、男性のごつごつとした手が、目の前に差し出された。
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