第四章

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 新居崎の怒声に、麻野は怒鳴り返す。その瞬間、新居崎の表情が苦しげに歪んでいることに気づいて、息を呑む。すぐ近くに酒呑童子がいるのに、意識は向かなかった。 「……泣かないでくださいよ」 「泣いてない」 「泣き落としですか」 「泣いてないっ」  うるさいくらいの心臓の音は、二人分。怒鳴ったり不機嫌な声をあげるのに、新居崎は麻野を抱き寄せたまま離さないのだ。  男性と身体を密着させていることが、妙に恥ずかしくて、嬉しかった。そろそろと新居崎の背中に手を回して、肩に顔を埋める。いい香りがした。芳香剤だろうか、それとも新居崎個人の匂いか。……その香りは、金木犀ではない。  かつて、酒呑童子と交際していた高校時代。  彼と結婚して添い遂げる姿を、想像できずにいた。麻野にとって、酒呑童子は恋愛対象ではなかったからだ。友人であり、家族のような存在であり、大切な存在に変わりはないのに。  けれど、新居崎と過ごす未来を想像したとき。  その世界は鮮明で輝き、色がついていた。劇的な恋愛やふわふわとした恋とは違うかもしれないけれど、一緒に歩んでいけたらさぞ幸せだろうと考えるこれは、愛しているとは違うのか。 「――きみの意見は尊重したい」  ぽつり、と新居崎が言う。麻野は、もぞもぞと顔をあげた。 「だが、聞けないこともある。きみは私の傍にいればいい。いずれ私が妻にしてやる。この男ではなく、私が。それ以外ならば、大体は譲歩してやろう」 「……大体、って、例えば」 「暮らす家とか、家具とか、子どもの人数とか」 「ぶはっ」  思わず、吹き出すように笑ってしまった。  少女漫画の主人公はどちらだ、と言いたくなるような、新婚設計だ。まずはそこで悩むだろうと考え付く限りの、新婚生活。その「新婚生活」自体に夢がつまっており、幸せな二人を基盤に広がっている想像が、なんだかこそばゆくて、無性に嬉しかった。  しばらく笑ったあと、麻野は、ふと、真顔になって、新居崎から離れた。いや、離れようとしたが、新居崎が手を離さなかったので、腰に手を回されたままだ。それでも構わないと判断して、酒呑童子のほうを振り返る。 「しーちゃん、ありがとう」 「……ふん、世話が焼ける」  にやり、と酒呑童子らしい意地の悪い笑みを浮かべた彼は、すっと踵を返した。そのまま、彼の出入り口であるベランダへ向かう。 「まったく、帰ってきて最初にこれだ。今後が思いやられる」 「あはは、もう、大丈夫だよ」 「心配はさせろ。お前が幸せな生涯を送るのを見届けるのが、俺の望みだ」  そして、酒呑童子は姿を消した。  酒呑童子――いや、静子は、京都旅行のころから、麻野と新居崎をくっつけようとしていた。それを今になってぶち壊そうとしたのは、麻野に本心を気づかせるためか。  思えば、旅行以前から、新居崎とは関わりがあった。  静子の画策の末、旅行で距離を縮めた。  しばらく会えなくて、無性に寂しくて、星空を眺めて新居崎を思い出して。  いつ頃から、意識し始めたのかわからないけれど、今の麻野にとって、確実に、新居崎は特別だ。それに気づかなかったのは、相手が大学の准教授で、年上で、えらく男前な人だからだ。好意を寄せても無駄に優しく振られて、泣かされるのが関の山だと無意識に考えていた。だから、この気持ちに気づこうともしなかった。  そう結論づけたら、麻野のなかで、何かが煌めいた。
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