第四章

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 きらきらと心がざわめく。  ふいに。  新居崎の手が、腰から離れた。 「待て」 「先生?」 「落ち着け。私は、何をしてるんだ。いや、そもそも、何を口走っている。違う、そうじゃないだろう」  頭を抱える新居崎の姿に、麻野は苦笑した。憂いを帯びた美男子は、自分の言動に後悔しているらしい。  どうやら、先ほどの剣幕は、混乱からのものだったらしいと麻野は察した。何も新居崎は、本気で麻野へプロポーズをしたわけではないのだろう。突然現れた酒呑童子の言葉に流されつつあった麻野に、意思の大切さを教えるためについた虚言だったのだ。  そう思った途端、落胆する自分がいることに麻野は気づく。  けれど、同時に嬉しくもある。  そこまでして、こんなふうに混乱までして、麻野を助けようとしてくれたのだ。本当に新居崎は優しい。 「そもそも妖怪など存在するのか。これは白昼夢じゃないのか。いや、違う。問題はそこでもない」 「先生、もう大丈夫ですよ。しーちゃんは、帰りました」 「あ、ああ。……しーちゃんは、帰ったのか。しーちゃん……田中静子だったな。いや。あの姿はどう見ても男で、女で、別人のように。だが、人間ですらないような」 「いったん落ち着きましょう。ね?」  新居崎は、がしがしと頭を掻いて、深く息を吐きだした。沈黙がおりて、麻野は今のうちに床にこぼしたままのお茶を片付け始める。  新居崎は立ち尽くしたままだ。  科学脳の彼にとって、妖怪の存在がショックだったのかもしれない。麻野はそっと伺いながら、どうしたものかと思案する。  どうやら麻野は、新居崎のことが、好きらしい。  らしい、というのは、確固たる証拠がないので、疑問形をとってしまうのだ。けれど、好きという言葉が、すとんと納得できた。  中学生時代の友人が話してくれた、目が合うだけで呼吸がとまったり、姿を見かけるだけでどきどきしたり、そういった「ザ、恋」という情熱ではないけれど。  それでも、一緒にいて楽しいし、これからも傍にいたいと思うし、何より新居崎のことをもっと知りたいと思うこの気持ちは、とても特別なものだ。  恋をすると不安を覚えたり、嫉妬深くなったりすると聞いていた。  今の麻野はとても穏やかだ。  あくまで「今の」である。  新居崎と出会い、彼に惹かれたことによって、今後、麻野は自分でも知らなかった己を発見するだろう。それが負の感情であれ、よい感情であれ、知れることを喜ばしく思う。  新居崎の将来に、麻野はいないだろう。新居崎と釣り合う女性になる努力をするべきかもしれないが、不思議と、無理に背伸びしようだとか、彼の趣向に合わせようだとか、そういった考えは持てなかった。
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