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こうして彼の個展に来るのはもう何度目になるだろう。 学生時代ふらりと立ち寄った小さなギャラリーに彼の絵は飾られていた。 丁度友達の約束まで時間があって、時間をつぶすために入っただけだった。 ギャラリーの一番奥、そこに彼の絵はあった。 目に入った時の印象は鮮烈な赤だった。 抽象画と言うのだろうか、何を描いてあるのかははっきりとは分からなかったが、ただただその絵の迫力というやつに圧倒された。 1時間以上その絵の前にいただろうか、約束の時間になっても集合場所に来ない俺を心配した友人からの着信音でようやく我に帰った。 電話口でひたすら謝って、ギャラリーを出ようとした時、入口にいた一人の男性に声をかけられた。 「気に入っていただけた様なので……。」 そう言って差し出されたのは1枚のポストカードだった。 そこには青で描かれた絵が印刷されていた。 見た瞬間に分かった。これは先ほどまで見ていたあの絵の作者と同じ人が書いたものだと。 裏側を確認すると作者名等が描かれていた。 後で調べる時に参考になりそうだと、その人に頭を下げて友人との待ち合わせ場所に向かった。 その日は、友人と遊んでいてもあの絵の事が頭から離れなかった。 ◆ その出会いからもう10年だ。 家に帰ってインターネットで調べたその名前「眞木 山陽(まきさんよう)」の作品にいまだ魅せられ続けている。 彼の名を検索したら、作品の画像と展覧会のお知らせ、それから公式ホームページに映る少し神経質そうな顔、それらが見つかった。 神経質そうなその顔は、少しだけ意外だった。 これだけ自由な作品を作れる人が神経質そうに見えるのが不思議だった。 といっても、芸術にさほど詳しく無い俺が自由なとか判断出来るのかといえば無理な上に、本当に神経質なのかという事はわからない。 そんな事どうでもいいくらい俺は、彼の絵の虜になっていた。 個展があれば通ったし、バイトをして画集も買った。 ただ、当時すでに頭角を現していた眞木さんの作品は学生には到底、手の出せる金額では無かった。 売約済みと書かれた紙が張り付けられた額縁を見て、何度溜息をついたか分からない。 それでも就職して、ひたすら節約を繰り返して、25歳の時初めて彼の絵を買えた時にはとても嬉しかった。 初めて彼の絵と出会った時の様な大作ではなかったけれど、額装された彼の絵が家で出迎えてくれるというだけで幸せだった。 まるで海の様な青いその絵は仕事で疲れた時もみると心が穏やかになる。 きっと、自分の稼ぎと運ではこの先彼の絵が買えるとしても後1枚か2枚か、きっとそんなところに違いない。 彼の絵は今や人気で、例え金があっても買えない場合もあるらしい。 ◆ 毎回個展で住所と名前を書いてくるからか、定期的に個展のお知らせがアパートに届いていた。 今日も、そのハガキを頼りに、都内のギャラリーにいた。 目の前にあるのは、初めて見た赤にとてもよく似た、だが、オレンジ、ミドリ、ピンクと様々な色で描かれた絵だった。 どこが似ていると言われると説明に窮するのだが、あの時の感動がその絵を見た瞬間に、ぶわっと全身に蘇った。 食い入るようにその作品を見る。 普段、神等信じないのだが、眞木山陽の絵に出会わせてくれた事を神に感謝したい気持ちになった。 ジワジワと感情がせり上がってきて、それが涙になってぼろぼろとこぼれ落ちた。 心が洗われるっていうのは、きっとこういう瞬間の事なんだろう。 ただただ、流れる涙をそのままに俺はその絵を見ていた。 すると、横に人が立ったのが気配で分かった。 「これ使ってください。」 心地よい重低音の声色とそっと差し出されたハンカチ。 恐らく俺の顔は酷い事になっているだろうから、心配してくれたってことかな? その人物の方を見て驚いた。 間違えるはずが無い。その人はこの絵を描いた彼だった。 「あ、あ、あの。」 「邪魔をして、ごめん。でも、これで先ず涙をふきませんか?」 「……ありがとうございます。」 俺の涙なんかでこの人の持ち物を汚してしまっていいのか、そう思ったがこのままでは逆に彼に迷惑をかけると思いハンカチを受け取って涙をふいた。 ハンカチはどうしよう。汚れた物を返すのも気が引けるし、かと言って洗って返せるような親しい関係でも無かった。 俺が、オロオロしていると眞木さんは絵の方に視線を向けて言った。 「この絵、気に入ってくれたんですか?」 「はい!!」 「そうですか。」 ふんわりとした笑顔を向けられる。 神経質だと思っていた彼の顔は、こうして笑うと全く違う印象になる。 「あの、赤……。」 初めて見たあの赤の事を、俺の人生を変えたと言っても過言ではないあの絵の事を言いたかったのだけれど、なんと言って説明したらいいか分からなくなってしまって口ごもる。 「カドミウムレッドだよ。」 「へ?」 「この絵と対になっている作品。それの事を言いたかったんじゃないの?」 あの絵はカドミウムレッドというのか。 「まあ、俺がそう呼んでいるだけで、タイトルは適当に付けられてるんだけどね。 ちなみに、目の前のはcolorsって呼んでる。」 目の前の作品には“恋を知る”とタイトルが付けられていた。 彼自身が付けた名前という事ではないのだろうか。 ただ、そのタイトルは怖いくらいこの絵にあっていると思った。 「以前、カドミウムレッドを拝見した事があって。今日この作品を見て本当に感動しました。 ありがとうございます。」 そっと頭を下げると、息を飲む音が聞こえた。 「ちょっと、奥に来てもらってもいい?」 彼のその発言に頭の中は疑問符で一杯になった。 どう返していいのか分からず混乱していると彼の後ろに長身の男性が立って、丸めたノートでポカリと叩いた。 「お前は、馬鹿か。」 そう言った後俺に向き直って 「とりあえず、その顔で帰るのは大変でしょうから、奥にスタッフ用の控室がありますのでそちらで休んでください。 で、そのハンカチですが是非洗ってうちの事務所まで返しに来てもらえませんか?」 と言った。 眞木さんは大きく頷くと 「うん、その通り。そうしなよ!!」 と俺の手を引いた。 通された、控室で俺が自分の絵に感動してくれて嬉しかった事、長身の男性は幼馴染み兼マネージャーで画商も営んでいる人物だと聞かされた。 未公開の作品も詰んであるし、是非と言われ事務所に行く事を了承してしまった。 迷うといけないからという理由で携帯の番号を交換して家に帰った。 何故、あそこまで1ファンに親切にしてくれるのかは分からなかったけれど未公開作品が見れるチャンスにずうずうしくも胸が高まっていた。 眞木さん、優しい人だったな。 表情はあの笑顔以外あまり変わる事は無かったが、雰囲気がコロコロ変わってまるで彼の作品そのもののようだった。 いや、逆なのかも知れない。彼の作品が彼の一部を表しているのだ。 部屋の一番いい位置に飾られた彼の絵を見て、ああ、やっぱり彼の絵が好きだと思った。 了
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