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借りてきたハンカチは家で丁寧に洗ってアイロンをかけた。 それを持って、指定された事務所の前に居た。 普通事務所って言われたときに思い浮かべるものよりも、建物から綺麗だ。 多分この床は大理石だろう、自分の場違い感が二の足を踏ませた。 それでもと、受付においてある電話機で名前を名乗るとすぐに受付まで迎えに来てくれた。 ただ、その人が眞木さんの幼馴染のマネージャーの人で驚いた。 普通は事務の人が対応するものだと思っていた。 事務所は普通の会社の様だった。 だが、間仕切りというか、目隠しになっているパーティションに無造作にかけられた絵に目を奪われた。 その絵は穏やかな天気の空の様な絵だった。 ぬける様な爽やかなという言葉をよく聞くが、まさにそんな空の様な絵が飾ってあった。 俺の様子に気が付いたマネージャーさんが「ああ。」と気づいた。 「それは、山陽が高校時代に描いたものですよ。」 そう説明された。 その絵はどの画集にも収録されていないものだった。 これだけでもここ来てよかったと思えた。 そもそも、泣いてしまって迷惑をかけたのに、俺が得をしてしまうこと自体おかしな事だ。 マネージャーさんに案内されて応接室に通される。 てっきり直ぐに返して終わりだと思っていた。 通された、応接室の豪華なソファーに座った。 どうしていいか分からず、そわそわとあたりを見回す。 そこにも、彼の絵が飾られていた。 それは、以前彼の個展で見た絵だった。 思わず、感嘆の吐息をもらす。 そうして、時間を忘れて眺めていると、そっと静かにドアの開く音がした。 そちらを見ると眞木さんが入ってきたところだった。 勢いよく立ち上がって頭を下げた。 すると笑顔を浮かべて眞木さんは「わざわざ、ありがとう。」と言った。 慌てて、洗ったハンカチと持参した菓子折りを渡した。 近づいた眞木さんからは油絵具の匂いがした。 それを受け取ると眞木さんは、「じゃあ、行こうか。」と言う。 何のことを言っているか分からない俺が困惑していると、ああ、とばかりに眞木さんは言った。 「アトリエを案内したいんだよ。」 うんうんと頷いている眞木さんに、ぽかんとしてしまう。 「いや、そんな悪いです!」 最初に出てきたのはそんな言葉だった。 「せっかくだから、見て行ってよ。 見せたい絵があるんだ。」 見せたい絵という言葉に思わず反応してしまった。 ファンなんだ、仕方がないだろう。 おずおずと「お願いします。」と答えてしまった自分がいっそ滑稽だった。 ◆ 案内されたのはその建物の最上階だった。 扉を開けると、先程眞木さんからした絵の具の匂いよりもっと強い香りと、絵の具を溶く為の油の匂いが、流れ込んできた。 ここで製作をしているなんて、正直現実感がない。 「こっちだよ。」 案内された部屋は何枚も、何枚もキャンバスが立てかけてあって、そこにはすべて彼の絵が描かれていた。 部屋の真ん中、イーゼルに立てかけられてその絵はあった。 思わず息を飲む。 それは、赤い絵だった。 けれどあの初めて時の“カドミウムレッド”ではなく、もっとずっと淡い赤だ。 その淡い、消えてしまいそうな火の様な色をしていて、少しだけ灰色のをした靄の様なものが絡みついている。 煙だろうか。 なんだろう。この絵を見ていると、酷く不安になった。 そんな様子の俺を見て、何故か眞木さんは口角を上げた。 「すごいなあ。本当にすごい。」 眞木さんはあまり主語を言わない。 「その絵は、君のことを描いたんだ。」 興奮した様子で言う眞木さんに、目を見開いた。 俺のことを描いたという事実が俄かには信じられない。 「君だけを描いたのは初めてだったけど、描いてよかった。」 そう言って笑顔を浮かべる眞木さんを見つめた。 「君はこの絵が嫌いみたいだね。 それとも、自分自身が嫌いなのかなあ。」 矢継ぎ早に言われ、困惑していると、きょとりと見つめられる。 「共感覚だよね、それ。」 共感覚という聞きなれない言葉と、それを断定する様に言う眞木さん。 何も言えずただ、口を戦慄かせるだけだった。 「あれ?自覚無いのか。 いつも個展で泣いたり、笑ったりしてたのは?」 「そ、それは、眞木さんの絵に感動していたからで……。」 見られていたという気恥しさから上ずった声で返した。 パニック状態になっており、以前から俺が俺として認識されていて且つ観察されていたという事実には気が付けなかった。 「でも、今は嫌な気持ちなんでしょ?」 思わず、絵の方を見た。 やはり、もやもやとした気持ちになる。 「そんなに顔に出てましたか?」 「うーん。表情ってやつは、俺には分からないよ。 ただ、雰囲気でわかるだけ。」 首を傾げながら言う、眞木さんに嘘をついている感じも、俺をからかっている感じも全くなかった。 「ちなみに、俺以外の人間が描いた絵を見てもそうなの?」 「そもそも共感覚?っていうのが良く分からないのですが、貴方以外の絵を見てもなんとも思わないですね。ただ綺麗だなって思ったりする位です。」 正直に答えると、眞木さんはクスクスと笑いだした。 その声色はまるで子供が喜んでいるようで、神経質に見える見た目とあいまって一種異様な光景に見えた。 「俺だけ、なんて嬉しいなあ。」 怪しく笑う眞木さんを呆然と眺めるしかできなかった。 それでも、嫌悪感は全く湧かず、芸術家というものはこんなものなんだろうなと思った。 ひとしきり笑うと満足したようで眞木さんは、俺を見て言った。 「また、こうやって話をしたいけどダメかな?」 「へっ!?いや、あの、ダメではないですけど……。」 口ごもった俺にお構いなしに眞木さんは 「じゃあ、また話をしよう! ここにはいつでも来て構わないから!! また連絡、するから。」 そう言って、部屋の隅に大量に並べて立てかけてあるキャンバスを一枚一枚確認し始めた。 直ぐに、一枚を持ってきて俺に差し出した。 それは、穏やかなサーモンピンクの絵だった。 思わず見惚れた。 優しい、優しいその絵に思わず笑顔が浮かんだ。 「やっぱり、笑顔の方がいいなあ。」 眞木さんに言われてはじめて自分の顔に笑顔が浮かんでいることに気が付いた。 「その絵は、君にあげるよ。」 碌に会話も交わしたことのない俺に何を言っているのか最初は分からなかった。 「いや、でも、あの、悪いですし。」 「悪い?君に持っていて欲しいんだ。」 押し付けられるようにして受け取った絵は、やっぱり優しいもので、思わずギュッと抱きしめた。 それを見た眞木さんが、切なげな笑顔を浮かべていたことを俺は手元にある絵で頭がいっぱいの俺は知らなかった。
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