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「だから、私は正直に“貴女の気持ちなど分からない”と言います。わかります、なんて言ったら嘘でしかありませんから。……それでも、人が人と分かり合うことができるのは。相手の気持ちを理解しようと、努力することは誰にも可能だからです。理解できる範囲こそピンキリであっても、努力する姿勢は相手に伝わります。そして、自分の気持ちを理解しようとしてくれる相手の存在が、時にどれほど救いになることか。貴女も、それを今痛いほど痛感しているはずです。そんな相手が欲しいからこそ、私がそうではないと思って苦しいからこそ“私の気持ちなんてわかろうとしなくせに”と怒った」
「……何が、言いたいのよ」
「人は、自分を理解しようとしてくれる相手に救われ、感謝し、そして自分もまた相手の気持ちを理解しようと努力をし始めるものなのです。……宇田川小百合さん。貴女には、そんな相手はいましたか。そして貴女自身は……誰かを正しく理解しようと、そういう努力をしたことがありましたか」
「…………っ」
言葉に、詰まった。それは、今まさに小百合が思い知らされていたことであったからだ。
自分は、両親の気持ちを何も分かっていなかった。小説を書いて栄光を得ること、それが両親にとっても何物にも代え難い幸福であると信じて疑わなかった自分。――小説など書けなくなってもいいから、ただ生きていてくれればそれだけでいいなんて、そんな事を言われるなんて微塵も思っていなかったのは。己の価値観と、母の価値観が同じだと思い込んでいたから。
――…違う。思い込んでたんじゃない。私は……。
決め付けていた。そちらの方がきっと、正しい。
自分と同じ気持ちだと決めうっていれば、その方が間違いなく気楽であったから。相手の気持ちを慮るより、自分の感情だけ見つめている方に時間を割いていたかったのだ。きっとそれは、想像することがどれほど疲労し、ストレスになるかが分かっていたからに他ならない。
誰かの気持ちを考えて配慮するということは即ち、自分の気持ちだけで行動することができなくなるということ。
相手の気持ちに向き合わなければいけなくなるということ。それは時に、自分の気持ちを偽り、あるいは我慢してでも向こうを立てなければならなくなる時が来るかもしれないということ。
己の心の自由が、誰かの気持ちのせいで縛られるかもしれない――ということ。
その全てが、小百合にとっては耐え難いことだった。だから、想像することを放棄して、相手の気持ちを都合の良いように決め付ける生き方をしてきたのである。――小百合を世界で誰よりも愛してくれているはずの、両親の心でさえも。
「自分の気持ちを理解しようとしない相手の気持ちなど、誰も理解したいとは思いませんよ。……貴女が今まで、他の誰かの気持ちを全く鑑みてこなかったように。もし今、貴女が己の苦しみを誰にも分かって貰えないと嘆いているのならそれは。今まで貴女が他人を理解する努力を怠ってきた、その代償なのではありませんか」
桜の言葉が、ずしりずしりと背中に伸し掛る。どんな荷物よりも重く、痛みのない筈の背骨さえ軋む錯覚を覚えるほどに。
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