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赤い傘とともに、母が死んだ。
黒いワンピースに赤いカンカン帽。大きな革のバッグ。それからこの赤い傘。
これだけが、母の形見。
母一人、子一人。ロンドンのアパートに住んでいたのは私が五歳になるまでだった。
仕事が忙しいから、と私を寄宿学校に入れた母。仲が悪かったわけではないのに思い出がほとんどない。
(こんなことなら、わざわざ帰ってこなけりゃよかった…)
今週末には友達ととっておきのクッキーでお茶会を開くはずだったのに。なんてことを考える。
(なんて味気ないお別れ。)
涙は出ない。
母は手紙を書かない人だったので、私への愛の言葉は残っていない。
(どうやって悲しめって言うのよ…)
子供が出ないなんて、と批判されるのを恐れて形だけ母の葬式に出た。
悲しいでしょう、苦しいでしょう、泣いていいのよ、いつでも頼って…
寄せては返す波のように人がよってきては振り返りもせず去っていく。
私は空虚な言葉たちを聞き流してうつむいていた。
「娘ってのは君かい?」
この場には相応しくない陽気な声が降ってきて、反射的に顔をあげた。
そこに立っていたのは黒いスーツにカラフルなネクタイを締めた男の人だった。
「あなたは…?」
「俺は君のお母さんから君のことを頼まれてた者だ。はじめまして。」
差し出された手を握ると元気よく上下に振られた。
「ボロボロに泣いてたらどうしようかと思ってたけど、元気そうだね。」
よかったよかった、と微笑む彼に、私までつられて笑いそうになる。
「正直、お母さんのこと…覚えてないの。思い出もないし、死んだって聞いてもそうなんだとしか思えない。」
いい終えてから、言い過ぎたかもしれないと思った。母が私のことを頼んだ人だ。よっぽど親しかったに違いないのに…
不安になった私の心とは裏腹に、男の人は微笑んでみせた。
「じゃあいつか、君が泣きたいときに泣くといい。」
予想外の返答に私は目を見開いて、その顔がおかしかったのか男の人が笑う。つられて私も笑って、二人して大笑いした。
「そんなこともあったね。」
彼がそっと微笑む。
「あなたは本当に、不思議な人だったわ。おかげで救われた。」
「…今度は君の番だよ。」
彼が私に傘を差し出す。
母の形見の赤い傘。
まだ涙は出ないけれど、母がどんな人だったのか彼がたくさん教えてくれた。
私はそれを従えて家のドアをくぐった。でも、不安になって振り返る。
「困ったときは、助けてくれる?」
「もちろんさ。」
どんとこい、というように胸を叩いて彼が笑う。
「信じてるわ。…行ってきます!」
「行ってらっしゃい、メリー・ポピンズ。」
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