溺嵌

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溺嵌

午後四時半。 長いチャイムが鳴り、講義の終わりを続ける。 大きな教室の小さなドアから、我先にと生徒が流れ出す。 「はぁ。」 思いがけずため息が漏れた。 私は昔から人の多いところが嫌いだ。 コミュニケーションも苦手だ。 そのため中高時代は気づいたらクールキャラにされていた。 「いた、お待たせ―。」 有象無象の中から現れた香織がこちらに手を振る。 私はイヤホンをはずし、左手で返事をした。 「泉まだリアぺ書いてる。」 「了解。」 「何聴いてたの?ジャズ、チルウェイブ?」 「チル。トロイモアって言うアーティストで、どこか懐かしいんだけど最新の潮流も取り入れて……。」 「あー、やっぱ文に音楽の話は地雷だな。さっぱりわからん。」 「えー。」 「ごめん、お待たせ。」 人の流れも穏やかになった出入り口から、ひときわ大きな男性が姿を現した。 白いドレスシャツを第一ボタンまで閉め、黒いスキニーを履いている。 足元は真っ白なスニーカー、実に様になっている。 「内職ばっかしてるから、リアぺに書くことなかったんでしょ。」 「いやー、TOEIC近いからさ。800取りたいし。」 「800?泉君、目標高くない?」 「こいつこないだの試験も700超えてたからね。」 「うっわ、インテリじゃん。」 「まあねー。」 最初の邂逅から早一か月、泉君と私の距離は急速に縮んだ。 講義が終われば香織も含めた三人で帰るようになったし、食事にも何度か行った。 最近は二人でもスムーズに喋ることができるようになった。 彼の素性についても、だんだんわかってきた。 一人っ子であること、心理学部であること、一匹狼に見えてただのコミュ障なこと、意外にも筋金入りのバスケットマンであること。 女の子から人気があること。 「泉じゃーん。」 「今帰り?」 通りすがりの女性が声をかけてくる。 こんなことが日常茶飯事で起きる。 「うん、またね。」 その度彼は、優しい笑顔で冷たい返事をする。 そんな態度にどこか安堵しながらも、時折背筋をなぞられたかのような感覚に陥る。 泉君はこちらを向いてにこりと笑う。 「帰ろっか。」
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