01 - 04

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   01  1985年 この年の暮れに日本で映画『バック・トゥー・ザ・フューチャー』が公開された  「畜生、せっかく--」 まずいと知っていながら声が出てしまう。廊下を、こっちへ歩いてくる足音に気づいたからだ。これから始めようという時に--。青い作業服姿の男は急いでカーテンの裏へと身を隠すしかなかった。一人じゃなさそうだ、やって来るのは二人だ。話し声も聞こえてきた。  「だって前にも言ったでしょう。あんたにはショートが似合わないって」 「え、うそ。初めて聞いたけど、あたし」 「ううん、何度も言ってる。あんたが人の話を聞いてないだけよ」  看護婦二人が新生児室の前を通り過ぎていく。前の日に美容院へ行った同僚のヘアスタイルを、もう一人の女が酷評していた。  早くしろっ。そんな事は、どうだっていい。早く向こうへ行ってくれ。男の額に汗が流れる。  産まれたばかりの赤ん坊が寝ている新生児室に一人でいた。母親ですら許可なく入っちゃいけない場所だ。姉ヶ崎の建設現場から直に来た。一目で不審者と分かる場違いな格好だった。  やるべき事は何一つ終わっていない。今、見つかるわけにはいかなかった。二人の足音が遠ざかって行く。額の汗が床に落ちた。   産まれてきたのは、やはり双子の男子だった。あの老人が言った通りだ。男は、そのうちの一人を他人の赤ん坊と交換しなくてはいけなかった。だから妻が妊娠すると、いい加減な警備しか施されていない産婦人科医院を探した。誰も見ていない時に勝手に新生児室へ入れることが条件だった。  隠れていたカーテンから首を出して廊下に誰もいないこと確かめると、さっさと行動に移った。取り替える赤ん坊はどれでもいい。どうせ直ぐに殺してしまうんだ。  男は自分の息子である双子の前に立つと、一人を隣のカプセルに 寝ていた他人の赤ん坊と交換した。すぐに手首に付けられた両方の青い名札も取り替える。女の子は赤い名札で、隣にいたのが男の子でよかったと思う。幸い、血液型も同じだった。次は二人が着ている青いガウンだ。親の氏名がマジックで書かれているので交換しないわけにはいかない。これには手間取りそうだ。小さ過ぎて遣りづらい事はなはだしい。額に流れる汗の量が一気に増えていく。  いいか、何としてでも遣り遂げるんだ、男は自分に言い聞かす。やっと老人との約束を果たす時がやってきた。失敗するわけにはいかない。すべてが……そうだ、すべてがここから始まるんだ。      02  老人と会ったのは5年前で、それが最初で最後だった。  当時、男は鳶職の見習いとして地元の小さな会社で働いていた。高い所での作業がほとんどで、常に危険と背中合わせ。こき使われて辛いのに給料は少ない。いつ辞めてやろうかと思いながら出勤する毎日だった。面白くない。もっと金が稼げて楽な仕事を見つけて転職したい。  中学二年の夏から付き合っていた女だけが唯一の心の拠り所だった。水泳部で一緒で、お互いが学校の代表選手だ。女は運動だけでなく頭も良かった。男が高校進学を諦めて働き出したのは、金を稼いで早く二人で所帯を持ちたいからだ。それが突然、「会社に好きな人ができたの」と言われて、あっさり捨てられる。相手は営業でトップの成績を叩き出す二十代後半の先輩だと言う。木更津駅前の分譲マンションに一人で住み、週末は新車で買った黒いセリカのコンバーチブルを乗り回しているらしい。マジかよ。そんな奴には逆立ちしたって勝てるわけがないぜ。「お前の好きにしてくれ」と言って立ち去るしかなかった。  本気で愛していただけに酷く落ち込んだ。派手に遊んで気を紛らわしたいところだが、金がないからそれも出来ない。賭け事に手を出して一攫千金を夢見たが僅かな有り金を失ってしまう。友人から借金して負けた額を取り戻そうとしたが損失だけが増えた。何をしても上手くいかない。八方塞がり。不満は募り、世の中に嫌気がさして自暴自棄に陥る寸前だ。何の希望もなかった。このままで人生が終わるんだろうか。それなら何か大きな悪事を働いて社会に復讐したいという気持ちが強くなっていく。  それしか自分の存在を示す方法がない。このままだと社会の小さな歯車として消耗させられて、無意味に一生が終わってしまう。だったら、そうなる前に世の中に対して衝撃を与えたい。  八月の暑い日だった、男は親方に「久しぶりに実入りのいい仕事が見つかったんだ」と言われて東京の高円寺まで連れていかれた。うちの会社が扱う現場にしては遠すぎると、みんなが思う。雇い主の笑顔と社員の待遇は大抵が反比例だ。きっと大変な仕事に違いないと覚悟していた。が、古い一軒家の解体作業で別に難しい作業ではなかった。  東京にしては家の土地が広く、道路に面した間口もそこそこあるが住居までの奥行きが長かった。敷地の回りには高い木々が立っていて、近所とは隔離された別の世界を作り上げていた。晴れていても、その場所だけは薄暗い。どこかに巣があるのだろうか、何羽もカラスがいて、その泣き声がうるさい。どことなく異様な雰囲気だった。  いつもと違って同僚たちは無言で仕事を始めた。馬鹿な冗談、卑猥な言葉が全く飛び交わない。動きも鈍くて朝から疲労困憊しているみたいに見えた。すると、すぐに一人が何でもない作業で手を切った。続いて、また一人が急に気分が悪くなって座り込む。頻繁にカラスが奇妙な泣き声を立てた。昼までには残りの連中ほとんどが気味が悪い家だと言い出して仕事を拒んだ。親方は手当てを増やして社員を働かせるしかなかった。  作業中に同僚たちが話している内容を耳にすると、この古い家の解体はどこの会社にも敬遠されて、とうとう千葉県の君津に住む親方に仕事の話が回ってきたらしかった。仕事を断られる度に、家を解体する提示額が上がっていったのだ。  男は見習いで仕事を拒めるような立場になかった。不満を口にすれば殴られるだけで手当てなんか増えない。午後の休憩時も社員全員の飲み物を近くのスーパーまで買いに行くという雑役が待っていた。  二十本近い缶ジュースを入れたビニール袋を抱えて現場まで戻ってきた時だ、敷地内の片隅で高い木と木の間に隠れるように中学生ぐらいの少年が立っていることに男は気づく。何だ、こいつ。手で左の耳を押さえているぜ。こんな所で何をしているんだ。「どうした?」声を掛けたが返事はなかった。よく見ると耳を押さえた手に血が付いていた。「ちょっと、待ってろ」  男は同僚に缶ジュースを入れたビニール袋を渡すと、急いで少年のところへ戻った。「すぐそこにガキがいて、怪我をしているみたいなんだ」と言ったのに不思議なことに誰も関心を示さなかった。立ち上がって各自、自分の飲み物を取ると静かに元いた場所で休む。口すら利かなかった。何だよ、冷てえ連中だなあ。改めて、この会社が嫌になった。  「お前、怪我しているんじゃないのか?」  少年は同じ場所でしゃがんでいた。男は横に腰を下ろして傷の具合を見てやろうとした。ところが、それを待ち構えていたように少年が素早い動きで身を寄せ、男の肩に手を回してきた。とっさに逃げようとしたが体勢が悪かった。その場に、少年とは思えない強い力で押さえらてしまう。抵抗できなかった。恐怖で体が固まる。何をされるのかと恐る恐る少年の顔を窺うと、その目が一瞬だが赤く光った。こいつは人間じゃない。蛇に睨まれたカエルのように動けない。ダメだ、殺される。  少年の口が開く。噛み付かれると思って反射的に顔を叛けた。ところが、そうじゃなかった。話し始めた。驚いたことに、しゃがれ声だった。まるで老人のような……。  話し続けた。男は弱々しく頷くしかできない。しゃがれ声が発する言葉を黙って聞いた。少年なんかじゃない、かなり歳を取った老人だ。そう確信した。  この場所に男が来るのを老人は何年も待っていたと言う。なぜ、どうして? 理解できない。意外なことに協力を求めていた。こ、このオレに? な、何を?  何か恐ろしいモノに襲われたという恐怖感は薄れていく。だが言われたことには逆らえそうにない思いは強かった。最後は、外見こそ少年だが中身は老人である男への同意を示すために、彼の手に付着した血を舐めさせられた。  うっ。  強烈な痺れが舌先から全身に走った。ただの血じゃない。毒じゃないのか? 騙されたらしい。目の前が真っ暗になって、意識が遠のいて行く。なんとか気を失わないように必死に堪えた。  しばらくすると遠くから声がした。「おい、大丈夫か?」次第に、その声が近づいてくる。「しっかりしろ」「おい!」「起きろ」激しく体を揺さぶられて男は目を開けた。地面に寝ていた。そばにいたのは会社の同僚たちだ。みんなが心配そうに自分を見ていた。どういうことなんだ? 首を回して少年の姿をした老人を捜したが、どこにもいなかった。「あの老人--いや、違う。あの少年はどこ?」男は仲間に尋ねた。  「お前、大丈夫か?」尋ねたことには誰も答えてくれず、逆に親方が訊いてくる。その声には本気で心配している響きがあった。 「……は、はい」真剣な表情に圧倒されて、そう答えた。 「意識が戻って良かったな」 「……」良くも悪くもない。ずっと意識はあった。何も変わっちゃいない。だが立ち上がろうとすると体に鈍い痛みが走った。えっ、何でだ? 「おい、無理するな」、「まだ寝ていろ」、「動くんじゃない」と病人に対して言うような言葉を次々に浴びる。 「……」連中の言う通りだ。痛みで動けそうになかった。老人の血を舐めただけで、こんな事になるのか? 「どこが痛い?」 「体が……、こ、腰のあたりが……」 「頭はどうだ、目眩はするか?」 「いいえ、しません」どうしてだ。なんで、そんな質問を次から次へとしてくるのか……。「あの老人、あっ、いや、少年は、どうしました?」一番、気掛かりなことを訊いた。 「……」みんなの顔が困惑している。 「あの少年は、どこにいるんです?」繰り返す。 「少年、て誰のことだ?」 「誰って、……耳を怪我した少年です」 「そんな奴はいないぜ」 「いや、そんなことは--」 「俺たちの他には誰もいない。お前は頭を打って錯覚しているんだ」 「いえ、頭なんか--」 「覚えていないのか? お前は屋根から落ちたんだ」 「え?」 「足を滑らせて屋根から落ちたんだよ、お前は」 「……」それで体が痛いのか。少し納得する。 「気を失っていたからな。それで頭が混乱しているんだろう。どうだ、医者に行かなくても大丈夫そうか?」 「は、はい……、大丈夫です」もし医者へ行けば面倒な事になる。金も掛かる。後で嫌味を言われるに決まってる。 「よし。お前は少し休んでいていい。動けるようになったら呼べ」 「わかりました」  男は一人になりたかった。混乱している頭の中を整理したい。屋根から落ちたという記憶はなかった。でも仲間は、自分が屋根から落ちたと口を揃える。そして少年の姿は見当たらなかった。さっぱり分からない。夢だったのだろうか。確かに老人の話は突拍子も無いものだったが。『鏡を探し出して破壊しろ』、また、『双子の子供が産まれてくる』とか……。  男は身体を恐る恐る動かしてみた。うっ。痛みは走るが、さっきよりは良くなっている。打撲だけで骨折はしてないようだ。軽傷で助かった。『休んでいていい』と言われて休んでいられるほど甘い会社じゃなかった。なんとか立ち上がれた。少しでも早く仕事に戻らないと。作業服に付着した土を払った。その手を無意識に口元に運んで唇を拭う。濡れているみたいな不快感があったからだ。戦慄が走った。戻した手に赤い血がついていた。頬、口元、口の中と切り傷を探してみたが、どこにもない。自分の血液ではなかった。もしかして……。うっ。舌で唇に触れてみると、痺れるような苦い味がした。やっぱりだ、あの老人の血だ。間違いない。  うわっ。  驚いて首を竦めた。真後ろでカラスが死の恐怖に怯えるような声で鳴いたのだ。    03  それ以後、男は老人の存在を日増しに強く感じるようになっていく。聞かされた話を信じたわけではなかったが、すべての事が都合よく回り出す。早く辞めたいと思いながら勤めていた会社では、ベテランの従業員が家の事情や病気、喧嘩などを理由に次々と辞めていった。おのずと親方は男を頼るしかなくなる。どんどん仕事を覚えさせて任せていく。一人前になるのに時間は掛からなかった。それなりに給料は上がり、専務という役職まで得た。そして婿養子として迎えられて親方の一人娘と結婚する。ハワイへの新婚旅行中だった、帰国する前日の早朝に親戚からシェラトン・ワイキキの部屋に国際電話が掛かってきた。親方夫婦が運転するベンツが東名高速で起きた多重衝突事故に巻き込まれたという知らせだ。自動車は飲酒運転をしていた大型トラックの下敷きになって大破。二人とも即死だった。男の肩書きは専務から代表取締役に変わった。  ある日のこと、木更津にあるスーパーで従業員数人を連れて買い物をしていると、三年前に別れた女に出くわした。車椅子に乗る男と一緒だった。向こうも動きを止めたから、こっちに気づいたのは間違いない。でも、すぐに女は視線を逸らした。手にしていた洗剤を商品棚に返すと足早に通り過ぎて行く。慌てて車椅子の男が追いかける。驚いたことに女は、すっかり若さを失っていた。初々しかった色気は影も形もない。タイトなジーンズを好んで穿いて腰から太股のラインを強調していたのに、その日は身体の線が見えないジャージ姿だった。背中まで伸びた自慢のストレート・ヘアも普通のショート・ボブに変わっていた。連れて歩きたいと思わせる女ではなくなっていた。捨てられて悔しかった思いを長く引き摺っていたが、それが一変に消えてなくなる。帰りに駐車場で、また顔を合わす。車を停めた場所が近かったのだ。女は車椅子の男が助手席に座るのに手を貸しながら、もどかしいのか「もう、早くしてったら」と辛辣な言葉を吐いた。そして急いで運転席に座ると、逃げるように色褪せた赤い軽自動車で立ち去った。それを男は義父の保険金で購入した白いメルセデス・ベンツ230Eのウインドウから見ていた。女がターンしてスーパーの駐車場から出て行くとき、一瞬だが目が合ったような気がした。  この時ほど老人の存在を強く意識したことはなかった。男は約束を果たす為に子作りに励んだ。妻が妊娠すると医者に超音波検査を急がせた。腹部と経膣の両方で子供が双子だと分かると、課せられた役目に気持ちが高ぶった。とうとう出番が回ってきた。産まれてきた子供にオレが『血の洗礼』という大切な儀式を行うのだ。  その犠牲は大きい。精神の錯乱、または心神喪失を主張しても認められる可能性は低いだろう。殺人だから、まず執行猶予は期待できない。十年以上の懲役刑を食らうことになりそうだ。  でも男に、それを老人への報いとして行うという気持ちは少しもなかった。確かに老人に会わなければ社長という地位につくことはなかったに違いない。メルセデス・ベンツという高級外車のハンドルを握ることも考えられない。こき使われ続けて惨めな人生を送っていたはずだ。だから感謝はしている。しかしそれが大きな代償を払う理由ではなかった。男は老人の魂を世に送り出す手助けが出来ることに大きな喜びを感じていた。  忌々しい鏡によって老人は棺の中に閉じ込められたらしい。それが取り除かれた今、再び蘇ろうとしている。楽しみだ。出来ることなら男は鏡を探し出して永遠に葬り去りたかった。そうすれば老人が恐れるモノは存在しなくなる。  産婦人科の新生児室で行う行為を考える時、決まって二つの鳥類の生態を思い起こす。イヌワシとカッコウだ。イヌワシは卵を二つ産むが孵化する日をずらす工夫をしている。最初に孵ったヒナは遅れて孵ったヒナの頭をクチバシで突いて殺す。母親は見て見ぬ振りだ。つまり遅れて孵ったヒナは、最初に孵ったヒナが上手く育たなかった場合のスペアに過ぎない。厳しい自然界で確実に子孫を残していこうとする術らしい。  カッコウは托卵という習性を持つ。ホオジロ等の巣に卵を産み付けて育ててもらうのだ。カッコウのヒナは短期間で孵化するので、ホオジロの卵やヒナを巣の外へと押し出して殺してしまう。我が子を殺されながらカッコウのヒナにエサを与え続けるホオジロ。これらの事はテレビの番組を見て知った。こんなに残虐で犯罪的行為が自然界に存在するとは驚きだった。だから忘れなかった。まさかテレビの番組を見たとき、いずれ自分が同じような行為をするとは夢にも思わなかった。     04  手放す方の息子に、やっと青いガウンを着せるのが終わった。三つの小さなボタンには手こずった。一息つく。額の汗を作業服の袖で拭った。ごめんよ。他人に育てさせる我が子に心の中で謝った。  ずっと今まで子供なんか好きじゃなかった。うるさく騒々しいだけの存在で、近所で遊ぶガキどもを怒鳴ったことが何度もある。それが、どうだ。自分の息子が産まれた途端に気持ちは逆転した。愛おしくて仕方がない。出来ることなら二人を手元に置いて育てたかった。  お前を手放すことになるが、愛していないわけじゃない。もちろん、お前をスペアの息子とも考えていない。いつか会いに行くからな。お前の成長した姿が見たい。それまで精々、好きなだけ悪事を働いてくれ。  えっ、ウソだろ?  男は驚きに一瞬だが身を引く。赤ん坊が目を開けたのだ。それもハッキリと。まるで父親の謝罪を受け入れたかのように。その目つきは好奇心に溢れ、聡明さを窺わせるものがあった。こいつは賢くなりそうだ……。ああ、しまった。急に後悔の念に襲われる。こっちを手元に残すべきじゃないのか。そうだ、そうしよう。早く終わらせる事が最も大切なのは分かっているが、男は着せたばかりのガウンを脱がせ始めた。初めから遣り直しだ。時間はなかった。いつ見回りの看護婦がやっくるか分からないのだ。ラチェットでクランプを鉄パイプに取り付けて足場を作っていく作業とは勝手が違い過ぎる。ちっ。上手く行かない。手先は器用じゃなかった。デリケートな細かい仕事には向いていない。どんどん焦る。この三つの小さいボタンが憎い。額に流れた汗が目に入った。畜生っ、ダメだ。男は諦めた。優秀な子を手元に残すことよりも、誰にも見つからずに赤ん坊の取り替えをやり遂げることが大切なのだった。このままで行く。それしかない。  雑念を振り払うかのように、取り替えた他人の赤ん坊に自分の息子のガウンを急いで着せようと身を屈ませた時だ。甲高い声を背中に浴びた。  「何、してるんですか?」  全身が凍りついた。絶体絶命。その声からして小太りの口うるさい婦長に違いなかった。嫌なヤツに見つかっちまったもんだ。この女もこの場で殺すか? 一人殺すも二人殺すも、こうなったら同じ事だ。ポケットには小型のナイフが忍ばせてあった。仕事で使うヤツで、持っていても不自然じゃないように仕事を終えたばかりの作業服姿で産婦人科病院へ来たのだ。  「この部屋に入ってはいけませんよ」婦長が近づいてくる。「何をしてたんですか? 誰ですか、あなたは?」 「……」男は返事ができない。体を動かすこともできなかった。  この状況をどう打開すべきかと必死で考えた。でもパニックで何も頭に浮かばない。汗すら止まった。もう寒いくらいだ。このクソ女も殺すしかなさそうだ。  「警備員を呼びますよ」背が低いくせに、この時とばかりに高圧的な態度だ。  そうか、なるほど。新生児室まで入ってくるまで気づかなかったのは、婦長がスニーカーを履いていたからだ。これじゃ、足音は聞こえてこない。男はポケットの小型ナイフを握った。  「す、すいません。黒川と言います。子供のガウンが脱げていたので着せてやろうと思って--」マジかよ。信じられねえ。自分でも驚きだ。こんな上手い嘘が咄嗟に口から出てくるなんて。 「え? あら、本当だ」婦長の厳しかった表情が少し和らぐ。男の手から赤ん坊の青いガウンを取り上げて、胸のところに書かれた名前を確認した。「お父さんですね。困りますよ、勝手に入ってこられては」 「すいません。風邪でもひかれたら大変なことになるかと--」 「ここは冷暖房完備です。ご心配には及びません」言いながら婦長は手早く赤ん坊にガウンを着せていく。「後はやりますから、出て行ってください」 「わかりました」男は大人しく踵を返した。『血の洗礼』は日を変えてやれば……。  え、……ちょっと、待てよ。  ドアに向かって一歩を踏み出したところだった、ある考えが頭に浮かんだ。この新生児室に何か赤ん坊を殺す凶器になりそうな物はないか? 姿勢はそのままにして目だけで探す。近くにピンセットが置いてあった。これは使えそうだ。無意識にも口元が緩む。今日のオレは冴えてるな、そう思うとポケットに忍ばせてあった小型ナイフを取り出し、振り向いて一気に婦長に襲い掛かった。 「ぎゃーっ」
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