第65話 言葉と感情を覚えた(2)

1/1
前へ
/68ページ
次へ

第65話 言葉と感情を覚えた(2)

あれから数日が過ぎた。 かりかりとつけられた心臓のひっかき傷は鈍くどくんどくんと痛んだ。 けれど、あのときの切なく泣きそうな、なのにほんわりと温かいような黒須様の、桜のようなお顔が忘れられなかった。 なりあき様のことをお話になっていたときの、幸せそうに微笑むお顔にしてあげたかった。 しかしそうなるには俺は邪魔で、だけどなりあき様から離れたり消えたりすることはどうやっても考えられなくて。 俺はすべて上の空だった。 ただ一緒にベッドに入るときは、俺は自分の場所はここなのだと自分にわからせるようになりあき様にしがみついた。 なりあき様は優しく俺の背中をなでたり、こめかみに口づけてくれたりする。 不安でなかなか寝付けず、なりあき様が寝てなでてくれていた手が止まると自分が闇夜に吸い込まれて夜が明けると消えてしまうのではないかと思い、寝ることができなくなってしまった。 なりあき様もお屋敷の人たちも心配して、声をかけてくれた。 話してはならない。 俺は曖昧に薄笑いするしかなかった。 *** その日はジェイコブズ先生が午後からいらっしゃった。 いつもは午前中にいらっしゃるのに、ご都合がつかなかったので変更となった。 読み書きや算術、海外のお話のあと、先生は立派な臙脂の布を張った本を俺に見せた。 歌で芝居をする、という俺には想像もつかない「歌劇」というものにもなった、大陸の向こうでは有名で人気のお話だという。 「どうしようかと思ったのですが、キヨノさまも少しずつ、こういったものを知っていくのもいいかと思いまして」 ジェイコブズ先生は真っ黒な瞳で俺を見ながら言った。 先生が本を構える。 臙脂の表紙に先生の茶褐色の手がかかり、薄く黄色がかったページが開かれた。 ジェイコブズ先生は静かに朗読し始めた。 内容は幼馴染として過ごした男と女がいて、女は男を好きになった。 成長して十七になると女は見合いをし、結婚することになった。 しかし女は男を忘れることができないでいる。というものだった。 最初に先生があらすじを教えてくれていたので、理解はしやすかった。 しかし、俺の心はそれどころではなかった。 女が狂うほど男を好いているのに、どうやっても決められた結婚は止めるわけにはいかない。 その心の動きをこれでもか、と書いてある。 先生の深く低い声は男の声なのに、聞いているとそこにその女がいるようだった。 「キヨノさま」 「え」 「ぼんやりして、大丈夫ですか」 「はぁ」 俺はひどくぼんやりと答えた。 腰を屈め、ジェイコブズ先生が俺の顔を見る。 先生の金色の髪はきっちりと後ろに流され、綺麗なおでこが見えている。 茶褐色のお顔に黒い瞳。 深く深く、底が見えない瞳。 「おとなっぽすぎましたか」 「あのっ」 俺は先生の腕を掴んだ。 「そのご本、ふりがなはありますか」 「ええ、ありますよ」 「俺……私にそのご本を貸してくださいませんか。 明日までに読みます」 「それは構いませんが、続きが知りたいのですか」 「はい」 「やはり早すぎることはなかったのですね。 お屋敷の方々はキヨノさんを大切にしていらっしゃいますが、もっと大人であるということに気をつけて差し上げたほうがいいと、常々感じていたのですよ」 先生は本を俺の胸の前に差し出した。 「ゆっくりお読みください。 返すのはいつでもかまいませんよ」 「ありがとうございます」 「すぐに読みたそうですね」 「はいっ」 「中川さんにはそのことをお伝えしておきましょう」 「はい」 「キヨノさま」 「はい」 「先ほど出した書き取りの宿題は止めにします」 「え」 「この本をしっかりお読みください」 「ありがとうございます」 それから俺はその本を読んだ。 実は本をまるまる一冊読むのは初めてだった。 絵本ならあったが、文字ばかりの、それもこんなに分厚い本を読むのは初めてだった。 難しいことばがたくさん出てきた。 わからないまま、読む。 どうしても困ったときはなりあき様からお借りしている辞書を引いた。 ふりがなを指でなぞり、たまに声に出しながら読んでいった。 暗くなったのにも気がつかなかった。 風呂のことも夕飯の準備もすっかり忘れてしまうくらいだった。 今夜、なりあき様は会食で遅くなると聞いていた。 俺は夕飯と風呂に中断されるのが嫌だったが、しぶしぶそれに時間を割き、どんどんと読んでいった。 「キヨノさん? そんなに布団にもぐって苦しくありませんか?」 何時かわからない。 夜も随分遅く、真っ暗な寝室のドアが開き、足音が近づき、そしてなりあき様の声がした。 「お布団がお山みたいになっていますよ。 お腹でも痛いですか」 そっと布団をなりあき様がめくる。 「キヨノさん?!」 なりあき様の枕を抱きしめ、顔を埋めて丸くなっているのを見られた。 「いかがされたのです。 このところ様子がおかしかったし、今日は特にいつもと違うと中川たちも心配していました」 この声、もしかしたら俺の声じゃなかったのかも。 こうやって一緒に寝ているのは、黒須様だったのかも。 本の中の女は苦しんで苦しんで苦しんでいた。 黒須様を桜の花にできるのはなりあき様だけで、それで。 「ジェイコブズ先生から本をお借りして熱心に読んでいらしたそうですが、それになにか書いてありましたか」 書いてあった。 俺は「嫉妬」という言葉と感情を覚えた。 そして「愛」だの「恋」だのが、こんなに熱く人を苦しめるということも。 なりあき様の手がそっと俺の肩にふれた。 「ふっ……」 「え、キヨノさん」 やっぱりだめだ。 俺は 俺は 俺はなりあき様に抱きついた。 もう切なくて切なくて泣くしかできなかった。 「なにがあったのです。 泣いてばかりいてはわかりませんよ、キヨノさん」 なりあき様がぐっと俺を抱きしめた。 微かに湿った白檀の香りがした。 暁の君様の匂いだ。 そうだ、あの方も切ない思いを抱えたまま、千も万も時間を過ごしてこられたんだ。 そんなに長い間、俺は耐えられない。 ……黒須様はいつから? いつからお好きだったのだろう。 ずっとずっと前から? 好きよりももっともっと好きの「愛してる」をかかえて? ずっと秘密にして? ずっとそのままで? 俺はどうしてここにいるんだろう。 俺はここにいてもいいのだろうか。 そうか、俺は帰るところがないのだ。 「キヨノさん、お返事をしてくださいっ。 私はここにいます。 貴方を抱きしめているのが貴方の成明です。 キヨノさんっ」 俺のなりあき様…… それが引き金だった。 俺は自分の中にとどめておくことができず、堰を切ったように泣き、そして全部、全部、黒須様のこと、ジェイコブズ先生からお借りした本、そして自分のどうしようもない気持ちも全て、洗いざらい話してしまった。 約束していたのに。 でも、俺は自分を止められなかった。 *** 気がつくと次の日になっていて、俺は熱を出していた。 身体の節々が痛い。 流行の感冒だといけないとお医者様を呼んで診察してもらったが、それではなかった。 ただひどく衰弱しているので、安静にしておくように言われた。 おでこの上の氷嚢が気持ちよかった。 うつうつと眠っていた。 白檀の香りがする。 俺は暁の君様の腕の中で寝ていた。 「泣いたな」 「……ん」 「誰が悪いのではないよ」 「……ん」 「ただ、つらいな」 「……はい」 「眠れ。 人形のようだったおまえがやっと魂を込められたのだ。 疲れて当然だ。 成明(なりあきら)ももうすぐ戻ってくる」 「はい……」 *** なりあき様は黒須様と一緒にお戻りになった。 「ごめんなさい、黒須様、申し訳ございません」 黒須様はベッドで泣く俺の枕元に近づいていらした。 「僕も意地悪だったよ。すまなかったね」 静かな、とても静かなお声だった。 「最後に。 結婚する前に。 僕もなにかしたくなったんだ。 ずっとずっとこれから先も『なにもなかったこと』のように、自分の気持ちを無にすることができなかった」 「俺が、いなかったら、よかったのですがぁ。 俺はぁ、それができなくて」 「僕はキヨノさんのことも大好きだよ。 三条院がこんなふうに変われたのは、キヨノさんのおかげだ。 僕にはできないことで、僕は激しく嫉妬した。 でも以前の三条院よりよっぽどかいい。 それにね」 黒須様は淡々と続ける。 「僕は生きているのは虚しいと思っていたんだ。 今でもそうなんだけど。 だけど、あんなにうまそうにぜんざいを食べるキヨノさんを見たら、なんだか生きよう、と思った」 「?」 「僕はね、いてもいなくてもいいとずっと思っていた。 自分の生にあまり執着がなかったんだ。 三条院に出会って三条院のそばにいたい、僕はここに留まりたいという執着を持った。 キヨノさんに出会って地に足をつけて生きてみようと思った」 「黒須様……」 「キヨノさんとも仲良くしたいです。 それに、潮時でした。 もう進むしか僕には道がない。 元気になったら三条院と遊びにいらっしゃい。 もし、あなたが僕を許してくれるなら」 黒須様は白い百合の花のように笑った。 そしてこのあと白洲様と会うのだと言った。 「僕の愚痴を聞くのは白洲の役目なんです。 明日、二日酔いで動けなかったら頼むよ、三条院」 「飲みすぎるな」 「白洲も今夜は荒れるだろうから、二人で二日酔いかもな」 「おいおい」 「じゃあ、おいとまするよ。ではまた」 黒須様をお見送りに行ったなりあき様が戻ってこられた。 「なりあき様っ」 俺はベッドから下りてなりあき様のほうに走っていき、飛びついた。 「危ないっ。まだふらついていらっしゃるのに。 私はここにいますよ、キヨノさん」 俺を抱き留めたなりあき様は俺の顔をじっと見た。 「お願いがあります」 「なんですか」 「俺、やっぱりなりあき様と離れるのはいやだ。できない」 「私もできません」 「だから、俺、なりあき様とひとつになりたい。 溶けてひとつになりたい」 「……キヨノさん」 なりあき様は俺をひょいと横抱きにして運ぶと、ベッドに寝かせた。 一緒に横になってほしかったが、まだお仕事の格好のままだったので、それは言わなかった。 「貴方、なにをおっしゃっているのかわかっていますか」 「なに…って」 「身体をつなげたことは、私たちはありますね。 大切な初めてのときを私が台なしにしてしまった。 あれをまたする、ということですよ」 「なりあき様はおいやですか」 「キヨノさんを傷つけてしまいそうになるのが怖い。 それより貴方のことです。 私とそういうことがしたい?」 無理矢理拓かれたあのときのことは思い出したくもない。 だけど。 「したい」 「本当に?」 「本当に。 なりあき様は?」 「私もしたいです」 あ…… よか……った 「時期を見ましょうか」 「え。今日じゃないの?」 「貴方はお熱があるんですよ、キヨノさん」 しょんぼりしてしまう。 「それに衰弱しているのでしょう。 身体に負担がかかります。 元気になってから、ですね」 「……そう……ですか」 「今夜はキスをいっぱいしてあげます。 身体もたくさんなでてあげる。 キヨノさん、お好きでしょう」 恥ずかしくなってきてしまったが、うなずいておく。 「キヨノさんにふれるのは私も好きですよ」 そういうとなりあき様は俺にキスをした。 軽く唇が重なり、あっという間に離れていってしまったのでがっかりしていたら、またすぐに唇がやってきて、にゅるりとべろが入ってきた。 なりあき様のべろは俺の口の中のあちこちをなでた。 べろをなでられたときも驚いたが、歯の根元をぐるりと舐められたときにはぞくぞくっとしてしまって、声が出た。 そのあとはなりあき様は俺のべろを食べて吸った。 それにも驚いて身体を離そうとしたが、なりあき様は俺の頭をしっかりと抱えていらしたので逃げられなかった。 熱い…… あとで熱を測ったら上がっていたので、中川さんにしかられてしまった。 言葉と感情を覚えた  了 *** ブログ ETOCORIA: キタかもしれない、あの瞬間の一歩手前まで / 「キヨノさん」第64~65話 https://etocoria.blogspot.com/2020/11/kiyonosan-64-65.html
/68ページ

最初のコメントを投稿しよう!

201人が本棚に入れています
本棚に追加