201人が本棚に入れています
本棚に追加
第2話
目が覚めるとふかふかしていたのは伯爵様のベッドで、俺は自分が伯爵様に抱きしめられて寝ていたのに驚いて大声を上げてしまった。
慌てて口を手で押さえたけど、伯爵様は目を覚まされてしまった。
少し顔をしかめながらも、俺を見るとにっこりとお笑いになった。
「キヨノさん、おはようございます」
「おはようございます、伯爵様」
とはいえ、俺はまだ伯爵様の腕の中だ。
「まだ信じられません、キヨノさんが私の腕の中にいるなんて」
伯爵様はぎゅっと俺を抱きしめた。
「あ、あの、伯爵様」
すると伯爵様は眉を寄せた。
「キヨノさん、私たちは昨日夫婦になったのですよ。
『伯爵様』はよしてください」
「ではなんとお呼びすれば……」
「『旦那様』、ですかね」
ですかね、って。
でも田村様のことを俺たちは「ご主人様」とお呼びしていたし、古くからお勤めされている方は「旦那様」とお呼びしている。
それと同じだな。
「旦那…様」
「はい、なんですか、キヨノさん」
う。
なんですか…って。
「あの、どうして、その夫婦ということに、なってしまったのでしょうか」
「私の一目惚れですよ。
田村さんのお屋敷に書類を取りに寄ったとき、キヨノさんを一目見てわかりました。
貴方が私の伴侶になる人だと」
昨日の朝早く、お屋敷周りの掃き掃除をしていたら、黒い舶来品の自動車が止まった。
俺がきょとんとして見ていると、中から長い外套を着て帽子を被った伯爵様が出てこられ「貴方、お名前は?」と手を取られて聞かれた。
「いや、そんなことはどうでもいい。こんなに手を冷たくされて」と言われて、そのままお屋敷の玄関から入ろうとされるので俺は足に力を入れて踏ん張った。
「伯爵様、お、いやわたしはここからは入れません」
「構いません、私と一緒ですから」
伯爵様はひどい勢いだった。
そして「ああ、すみません」と手を離された。
俺はほっとした。
やっと解放されると思った。
「これでは貴方を温められませんね」
そうおっしゃると、伯爵様は手にはまった鹿革の薄い手袋を外すと外套のポケットに入れ、また俺の手を掴んだ。
「ああ、かわいそうに。
すぐに温めてあげますからね」
そんなことをされるとは思わず、俺がまたもやきょとんとしていると手を引かれお屋敷の玄関からどんどん中に入っていかれる。
伯爵様と俺を見た人たちは大声を上げた。
「伯爵様、いかがなさいましたか」
「その者がなにかいたしましたでしょうか」
「どうぞお怒りをお納めください。
キヨノには後で重い罰を与えますから」
執事や使用人頭たちが口々に伯爵様にそう声をかけた。
「すみません、田村さんはどちらですか。
まだおやすみかな。
失礼なのは承知の上ですが、お話したい」
皆の顔が青ざめた。
旦那様に直接伯爵様がなにか話をされるのだと思った。
「かしこまりました。
すぐにお話できるように準備いたします。
どうぞこちらへ」
執事の宗方さんが屋敷の中の、話をする洋間に伯爵様を案内しようとされた。
伯爵様はまだ俺の手を握っていて、俺まで一緒に洋間に行こうとした。
「三条院伯爵様、その者をこちらへ」
「いいえ、だめです。
この方が重要なのです。
そうだ、温かい飲み物をいただけますか」
「はい、すぐにご用意いたします」
伯爵様はしゃがむようにして俺の顔を覗き込んだ。
「よかったね、もうすぐ温かくしてあげますよ」
その後、一緒に洋間に行くとそふぁというふかふかした長椅子に座るように言われ、泣きそうになりながら「はい」も「いいえ」も言えずに立っていた。
すると伯爵様はご自分の長い外套をお脱ぎになり、俺の肩にかけてくるむようにするとひょいとそふぁに座らせた。
そして運ばれてきた熱々のお茶を俺に飲むように勧め、部屋をもっと暖かくするようにお茶を運んできた女中に言っていた。
どうしようもなくなって、あとでどんなに折檻されるかわからないけど、とりあえず伯爵様のおっしゃることをお聞きすることにしてぶるぶると震える手で洋風の取っ手のついた茶碗を持とうとした。
「こんなに震えてかわいそうに」
伯爵様は俺の横に座り、肩をさすって温め始めた。
俺はもう生きた心地がしなかった。
宗方さんに案内されて洋間に入った田村様のお顔は忘れられない。
顔も覚えていないような使用人の子どもが伯爵様の外套を羽織り、座っているのだから。
「おはようございます、田村さん。
早朝からのご無礼、お許しください。
でも私は急がなくてはならないのです」
「お約束の書類はご用意できていますが」
「それではありません、この方のことです」
「うちの使用人のこと、でしょうか」
「はい。
私はこの方を娶ることに決めました。
一刻でも早く手続きがしたいのです。
そのための書類も早急に準備していただけないでしょうか」
「お待ちください、一体どういう」
宗方さんの視線が痛い。
何か説明できるなら俺もしたい。
けれど、俺もわけがわからない。
「今日中にこの方を伴侶とします。
この方がいなくなる費用や代わりの者の手配はこちらもすぐにいたします」
あまりの勢いに田村様は呆気に取られていらした。
「三条院伯爵様、お時間は大丈夫ですか」
宗方さんの声かけに伯爵様は上着の内ポケットから懐中時計を取り出し時間を確認した。
「もうこんな時間ですか。
ありがとう、宗方さん、助かりました。
この方を連れていきます。
会合の帰りに寄りますから、書類のほう、よろしくお願いします」
伯爵様は会釈をすると、今度は外套ごと俺を抱きかかえ玄関の車まで戻った。
そして車に俺を乗せると宗方さんから大きな封筒を受け取っていらした。
「宗方さん、この方のお名前はなんとおっしゃるのですか」
「キヨノ、でございます」
「キヨノさん。
とても素敵なお名前だ。
では宗方さん、キヨノさんの書類の準備、頼みます」
「承知いたしました」
宗方さんが深々と礼をし、伯爵様は俺の隣に乗り込むと運転手に車を出させた。
伯爵様が大きな封筒を携えて会合に参加なさっている間、俺は特別に運転手と一緒に伯爵様の控室で待たされた。
そのあとまた車に乗り、田村様の屋敷に行くと伯爵様は宗方さんから書類を受け取った。
お二人の話の内容から、どうやら俺が田村様から解雇され自由になった、という証明書や俺の身元がわかる書類のようだった。
「ありがとうございます、宗方さん。
田村さんにもご迷惑をかけたと伝えてください。
後ほど、詫び状を差し上げます」
「承知いたしました」
俺は車に中にいたので詳しくは聞き取れなかった。
不安になり、宗方さんを見るが宗方さんは俺のほうを見ようとはしなかった。
車に乗り込んできた伯爵様は上機嫌で、そのまま車を役所に向かわせた。
そして何時間もかかる手続きの末、俺は伯爵様と夫婦になってしまっていた。
あとは伯爵様のお屋敷に連れてこられ、朝も昼も食べておらず、理解できないことばかりで、とにかく疲れて疲れて、出された握り飯がうまくて、そのあとの記憶がない。
「キヨノさん」
「はい」
急に呼ばれて、顔を上げてしまった。
伯爵様のお顔を正面から見ることになった。
寝起きで御髪が少し乱れていたが、とても整ったお顔をされていた。
左目の下に小さなほくろを見つけた。
「今朝は一緒に朝食をとってくださいますね」
「はぁ」
俺はのろのろと起き出した。
最初のコメントを投稿しよう!