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第3話
朝食はぱんというものを初めて食べた。
田村様が召し上がっているのは知っていたが、食べたのは初めてだった。
俺が珍しそうにしているのが面白いのか、伯爵様は始終笑顔だった。
そして、昨日のように長い外套と帽子の姿になると玄関まで俺と屋敷の人たちを見送りに来させた。
「結婚したばかりだというのに一緒にいられなくてすみません。
なにせ急なことだったので。
今日はできるだけ早く帰ってきますよ。
貴方の世話役として藤代をつけましょう。
それから執事の中川です。
なにかあれば屋敷の者誰にでも相談してください。
中川と藤代がなんとかしてくれますよ」
「はぁ」
間が抜けた返事しかできないのは、やっぱり自分に何が起こっているのか理解しきれていないせいだった。
「いってきます、キヨノさん」
「いってらっしゃいませ、伯爵様」
俺はいつもの癖で腰を直角に折り、頭を下げた。
「キヨノさん」
伯爵様がふぅっと小さな溜息をついた。
「貴方は私の妻なのですよ。
使用人じゃありません」
「あ」
「いってきます、キヨノさん」
伯爵様はそう言うと俺に抱きつき頬に口づけをした。
ふ?
「い…ってらっしゃいませ、旦那様」
「うーん、それも田村さんのところみたいですね。
また考えましょう。
中川、藤代、頼みますよ」
「かしこまりました。
いってらっしゃいませ、旦那様」
中川さんがそういうと使用人の人たちが一斉に礼をしたのを俺は火照る頬に手を当てながらぽやんと眺めていた。
伯爵様は待たせてあった自動車に乗り込むと行ってしまわれた。
取り残された俺は、誰かから問い詰められることも折檻されることもなかった。
なにも強要されることもなかった。
むしろ、なにをやってもいいと伯爵様から言われているようだった。
「お、俺、仕事がしたいです」
落ち着かない。
昨日からのことが信じられくて。
藤代さんは少し驚いた顔をしたが、「わかりました」と俺の部屋だという伯爵様の続きの部屋に連れてくると、少し待っておくように言われた。
俺の部屋は洋間のしつらえになっていて、落ち着かない。
畳が恋しい。
身じろぎ一つせずに椅子に座っていると、藤代さんが中川さんを連れて戻ってきた。
「キヨノさん、藤代から聞きました。
お仕事がしたい、ということですが」
「は、はいっ!」
俺は椅子から飛び下りた。
「俺、なんでもします!」
「旦那様はキヨノさんに労働をさせるつもりはなさそうでしたが」
俺はしゅんとして俯いた。
なんのためにここにいるのか、よくわからないんだ。
不安で。
不安で。
「キヨノさんの思う通りにして差し上げるようにとことづかっています」
あ。
「どうでしょう、キヨノさん。
午前中、私と一緒に屋敷を回るというのは。
執事ですので、屋敷のあちこちを見て回らなくてはなりません。
使用人たちは誇れる仕事ぶりですが、やはり自分の目で確かめたいですからね。
お昼を召し上がりながら、午後のことをご相談させていただくのはいかがでしょう」
「はい!」
「藤代もご一緒しても構いませんか」
「はい」
「では三人で回りましょう。
ところで、キヨノさん」
「はい」
「お召し物は和装と洋装とどちらがよろしいですか」
「和装が慣れています」
「左様でございますか。
ではそのままでよろしゅうございますね」
「はい」
朝、ベッドから出ると「自分でできる」と言っているのに伯爵様は俺に着物を着せた。
「でも」
「はい?」
「もう少し、動きやすいものがいいです」
「そうですね。
午後からどうされるか決めたあと、必要ならば着替えましょう」
「はい!」
中川さんと藤代さんとお屋敷を回るのは楽しかった。
俺の希望が叶うと知って、みなさんとお昼も一緒にさせてもらったし、着替えたあとは薪割りをさせていただくことにした。
これなら今までやってきたので、できる。
「これで旦那様が入られるお風呂を焚きましょう」
藤代さんが言うと中川さんが大きくうなずいた。
俺もうなずき、風呂焚きに合うように細いのと太いのを割っていった。
外は寒かったが、身体を動かすとだんだん暑くなってきた。
藤代さんは慣れないせいか、着ぶくれしながら軍手をはめ、俺が割った薪をまとめてくれた。
申し訳なくてお屋敷に戻っているように言ってみたけど、そうはしなかった。
伯爵様がおかえりになると聞いて、俺は裏庭から回って玄関を覗いてみた。
「キヨノさん!」
伯爵様はすぐに俺を見つけた。
「おかえりなさいませ、旦那様」
俺は慣れたように頭を下げた。
「やっぱり、違うな」
「う?」
「それでは他の使用人と同じになってしまいます。
もっと、こう、特別な感じでキヨノさんに呼んでもらいたいです」
「とくべつ?」
「そうだ、名前で呼んでください」
伯爵様のお名前?
「キヨノさん、私の名前を覚えていますか」
伯爵様はなにも言わない俺に焦れて、そう聞かれたけど、「覚えていません」と言ったら折檻されるんじゃないだろうか。
どうしよう、お聞きしたかな。
「昨日、役所でたくさん書いたのですが覚えていますか」
ああ、役所。
「婚姻届を提出する」といってあちこち連れまわされ、名前をたくさん書いたけど、自分のことで精一杯で伯爵様のお名前まで見ていなかった。
それよりどうして伯爵様があんなことを言い出したのかまったくわからない。
「キヨノさん」
「はい」
伯爵様が真面目な声で、俺の両肩に手をかけ真剣なまなざしで俺を見た。
「私の名前は三条院成明です」
「はぁ」
「呼んでみていただけますか」
「はい、三条院様」
「違いますよ、成明、です」
「なりあき、さま?」
「そうです!」
伯爵様は俺をぎゅっと抱きしめた。
「ただいま帰りました、キヨノさん」
「おかえりなさい、なりあきさま」
「はい。
思ったより遅くなってしまって申し訳ありませんでした」
伯爵様は俺を抱きしめ、頬にまた口づけをした。
俺は逃げ出したくなった。
「あの…」
「なんですかキヨノさん」
「それ、やらないといけないんですか」
「それ?」
「抱きついたり、さっきみたいなのをしたり」
「ハグとキスのことですか?」
はぐときす?
「多分、それです」
「おいやですか」
「好きじゃないです」
「慣れてください。
愛情を表すためですよ」
「はぁ」
玄関先でずっと伯爵様とお話をしていたら、中川さんが声をかけてくれた。
「そろそろ中に入りませ。
身体が冷え切ってしまいますよ。
そうだ、旦那様、今日のお風呂はキヨノさんが割った薪で焚きますから、ゆっくりと浸かってください」
「キヨノさん、薪割りをしたのですか。
ほかには?
さぁ、私に教えてください」
伯爵様はまた俺の手を引いて、お屋敷の中へ入っていった。
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ブログ更新
気がついたら伯爵様と結婚していて困っています / 「キヨノさん」連載開始
https://etocoria.blogspot.com/2019/06/kiyonosan-start.html
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