第60話 きり。だけ。 (1)

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第60話 きり。だけ。 (1)

なりあきさまはお昼前にお戻りになられた。 俺は冷たい飲み物を用意した。 それから冷たい水で絞った手ぬぐいも。 できるだけ朝の涼しいうちにやることを済ませた。 二人分なので、楽になるものもあるし、仕事量が変わらないものもある。 そんな中で米を二合と味噌汁を炊いた。 練習をしたので、握り飯にしておいたら、なりあきさまが厨房に入り、戸棚をごそごそと探し始めた。 「あった」 「なんですか」 「川崎の蕗味噌ですよ。これをおにぎりにつけたらおいしいんです。キヨノさんには、ちょっと苦い、かな?」 「大丈夫です」 俺たちは蕗味噌をつけた握り飯と味噌汁で昼飯にした。 蕗味噌は苦かったが、懐かしい里の味がしたような気がした。 器の片づけもあっという間に終わった。 おやつのまくわうりを水に浮かべて冷やしておく。 「さて、なにをしましょうか」 なに、ってなに? 「なりあきさまはお休みになってください。お盆ですし。俺、掃除してきま…わっ」 片づけの終わった厨房でなりあきさまの質問に答えていたら、急に腕を引っ張られ抱きしめられた。 「キヨノさんも、お盆ですよ。休みましょう」 「え、でも」 少し低めの囁き声が耳のそばで聞こえる。 「キヨノさん」 急にどきどきして気がついたら「……はい」と言っていた。 風通しのいい離れにやってきた。 奥のほうまでは日が差し込まないので、風が吹けば涼しい。 俺は蚊遣りに火をつける。 「キヨノさん、座って」 「はぁ」 うながされるまま畳に座ると、なりあきさまもそばに座ったかと思ったらごろりと横になった。 「な、なんですかっ」 「ん?膝枕」 「ひ」 「ふふふ、気持ちいいなぁ」 なりあきさまはそうおっしゃって、静かに目を閉じた。 え。これ、どうすればいいんだ。 なりあきさ……、呼ぼうかと思ったが、なりあきさまはあっという間にすうすうと寝息を立て始めた。 そうだ、なりあきさまもお疲れなんだ。 目の下にうっすらとできた隈が、よく見えた。 そっと髪をなでてみる。 柔らかくてさらさらの髪だ。 立っていると、背の高いなりあきさまの頭はものすごく上になってしまう。 夜寝る時は近くなるが、近くにいるときは大体、なりあきさまの胸に抱きしめられているし、暗い。 間近でなりあきさまのお顔をじっくり見るのは滅多にない。 あ、おひげだ。 ふふふ、髪の毛なでられるのお好きなのかな。 なでるたびになりあきさまの口が緩む。 何度も何度もなでる。 いやっ、俺はなんてことを! はっと我に返って、慌てる。 そんな、なりあきさまの頭をなでるだなんて。 またどきどきし始める。 けれど、安心しきって眠っているなりあきさまがなんだかとてもかわいらしく思えて。 俺はそっと声に出さずに「お疲れさまでした」と言うと、しばらく髪をなで続けた。 「キヨノさん。キヨノさん」 ふぇ……? 肩を軽く叩かれて目を覚ます。 ふぁっ?! がばっと起き上がると、なりあきさまが笑っていらっしゃった。 「二人で気持ちよく午睡をしてしまいましたね。まくわうり、冷えてましたよ。三時も近いからいただきましょう」 きれいに剥かれたまくわうりがガラスの器に盛られていた。 「さ、お水も飲みましょう」 ガラスの器は水の入ったコップと一緒にお盆の上にのっていた。 「……なりあきさまが?」 「あ、これですか。ええ、不格好ですが、私が剥いてみましたよ。さ、どうぞ」 喉がからからだったので、まずは水をごくごくと飲み、楊枝にささったまくわうりをしげしげと見る。 不格好?どこが? 「おや、食べないんですか?」 「い、いえ、いただきます」 「はい、どうぞ」 なりあきさまに剥いでいただいたまくわうりは瑞々しくてうまかった。 それから汗を流してさっぱりしたい、となりあきさまがおっしゃるのでいつもより早めに風呂を沸かした。 薪はもう割っていたし、水も張っておいたのですぐに沸いた。 俺が塩を舐め水を飲みながら風呂を沸かしている横になりあきさまが座る。 「ここは暑いですよ」 「キヨノさんはいつもこんなに暑い中、風呂を沸かしてくださっていたんですね」 「俺、役に立てることがあまりないから。できることがしたい、です」 「なにもしなくても構いませんが、それだとキヨノさんが落ち着かないのでしょう。 でもまだ体調が戻ってからそう経っていないのだから、無理はなさらないでくださいね」 「はい、ありがとうございます」 なりあきさまが手ぬぐいで俺の額の汗を拭ってくれた。 風呂が沸くとなりあきさまは一緒に入ろうとおっしゃったが、俺は遠慮した。 ここは温泉ではないし。 なりあきさまのあと、俺も風呂をいただいてさっぱりしたところで「ああああああっ!」と大声を出してしまった。 「キヨノさん、どうしました?」 「晩に食べるもの、あ」 俺は三食同じものを食べるのに慣れている。これまでそれが当たり前だったし、このお屋敷に来て毎食違うものを食べるのに驚いていた。 しかし、ここでの生活が長くなってしまったのかそれにも慣れてしまった。 俺は飯を炊くのと味噌汁しか作れない。 俺はそれでいい。 しかしなりあきさまはそれではまずい。 どうしよう。 俺がつっかえつっかえながらなりあきさまにそう言うと、なりあきさまは笑った。 「私も昼と同じでも一向に構いませんよ」 「でも」 「キヨノさんと一緒に料理をするのも楽しそうだ」 「だけど」 「キヨノさん、蕎麦を食べにいきませんか」 「蕎麦?」 「温泉旅行気分ですよ。 盆は明日からだから、店はまだやっています。行きましょう」 そう言われ、俺はこざっぱりした開襟シャツを半ズボンを履かされた。 なりあきさまも開襟シャツに薄手のズボンを履いている。 そして蕎麦屋へ向かった。 盆は八月十三日から十五日までだが、なりあきさまが「ゆっくりしてくるといい」と皆さんに十二日から十六日までのお休みを出した。 これからの食事の準備、どうしよう。 うんうん唸っていると、なりあきさまが苦笑いをしながら俺を呼んだ。 「食事のことですか? 大丈夫ですよ、なんとかなります。 私に任せておいてください」 「なりあきさまに?」 「ええ。キヨノさんは明日のお昼、またご飯と味噌汁を作ってください」 「でも」 「小林の畑に茄子のいいのがなっていましたよ。あれで味噌汁を作ってください。きっとおいしいですよ」 「はぁ」 そうこうしていたら蕎麦屋に着いた。 俺たちは天婦羅蕎麦を食べることにした。 なりあきさまは「ぬき」と言って、さきに天婦羅だけが運ばれ、それを食べながら冷酒を美味しそうに召し上がっていた。 「なりあきさま、海老が、二匹も……」 「たまには贅沢をしてもいいと思いますよ」 「いえ、お屋敷では十分贅沢をさせていただいています」 「じゃあ、私からの贈り物だ」 「そんな」 「熱々を食べてみてください。それにここの蕎麦の喉ごしは天下一品ですよ」 贅沢な海老天におどおどしていたのに、食べ始めると俺はすぐに蕎麦に夢中になった。 うまい。 なりあきさまが「蕎麦屋に入ったらね、出汁巻き卵を頼むといいんですよ。そうすればその店の味がわかります」と大きな卵も注文なさった。 お出汁をたっぷり含んだ出汁巻き卵は噛むとじゅっと旨味が口に広がった。 卵の甘い香りとお出汁のいい匂い。 天婦羅は衣はさくさくで中の具は熱々でほくほく。 蕎麦は細めできゅっと水でしめてあって、喉ごしがとてもいい。 最後に蕎麦湯までいただいて、俺は満腹になってしまった。 お屋敷に戻ると風呂の残り湯と井戸の水で軽く汗を流し、早いが寝間着に着替えた。 そしていつものように燭台を持ったなりあきさまに手を引かれ、離れに向かった。 蚊帳は夕方、なりあきさまと二人で吊った。 布団の上にごろりと横になると、なんだかどきどきした。 落ち着かなくてごろごろした。 「どうしました?」 「本当に二人きりなんだなぁ、って」 「ふふふ、かわいらしいことを。そうですよ、キヨノさんと私の二人だけです」 海の底に二人だけ。 思わず手を伸ばすとなりあきさまが手首をつかみ、ぐぐっと引き寄せてくれた。 ああ、なりあきさまの懐の中に俺はいるんだ。 なりあきさまの胸に顔を埋めていると、そっと顎に手がかけられ、「ふ?」と思ったときにはもうキスをされていた。 すごくすごく嬉しかった。 二人きり。 二人だけ。 「もっと」 「はい」 俺はなりあきさまの背中に腕を回しぎゅうぎゅうと力を入れて抱きしめ、そしてキスをする。 やがれそろりとなりあきさまの舌が俺の口の中に入り込み、そうなるともう、俺はわけがわからなくなる。 いつもは誰かにこんなことをしているのが知られるのがいやで、どこか我慢していたけれど、今夜は二人きり。二人だけ。 もっと。 もっともっと。 なりあきさまは俺の髪に指を入れ、ぐちゃぐちゃにしながら俺にキスをする。
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