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第64話 言葉と感情を覚えた(1)
気がついたら腕を引かれて自動車に乗せられていた。
びっくりして声も出せないでいると、隣の黒須様がにっこりと笑っておっしゃった。
「美味しいぜんざいを食べに行きましょう」
「あ、でも、俺、いや、私、買い物」
「大丈夫。買ったものはぜんざいを食べている間に三条院の屋敷に届けさせますよ」
***
老舗の甘味処の二階の小部屋に俺は黒須様と向かい合わせに座っている。
何度かお会いしたことはあるけれど、二人っきりというのは初めてだ。
こげ茶のとんびコートとマフラーを外すと、曇ってしまった丸眼鏡を白い手巾で拭われる。
俺は緊張したままそれを見ている。
「取って食いはしませんよ、キヨノさん」
「はぁ」
「だって三条院も白洲も櫻子さんまでキヨノさんと二人で出かけているじゃありませんか。
私だけないんですよ、出かけていないの。
いい機会だと思いまして」
でも強引すぎるのでは。
俺は買い物の帰りに自動車から声をかけられ、気がついたら後部座席に乗せられていたのだ。
「百合根ならご安心ください。
うちの運転手がお届けにあがっていますよ。
茶碗蒸しですか」
「はぁ」
「ふふふ。三条院が好きですよね。私は銀杏のほうが好きですけど」
「はぁ」
そうこうしていると女中さんがやってきた。
俺は黒須様に勧められるまま、栗と餅の入ったぜんざいを頼むことにした。
黒須様はなにも言わなかったので聞いてみると「いつも同じものを頼むのでいいんです」と笑った。
それからしばらく、黒須様は頬杖をついて俺をじっと見ている。
見つめられている。
なにも言わずに見られてる。
俺はどんどん緊張して身動きが取れなくなる。
あまりに見られるので俯き、どんどん首が垂れ下がっていく。
ど、どうしたらいいのだ。
「キヨノさん」
「は、はいっ」
名前を呼ばれ、驚いてばかでかい声を出してしまった。
「すみません」
「三条院とはいかがですか。うまくいってますか。
嫌なことをされていませんか。
書生のお話はまだ生きてますよ。
三条院が嫌になったら是非うちに来てくださいね」
「あ、の、いえ、なりあき様も屋敷の人たちも本当によくしてくださっています。
なに不自由ありません」
「そうなんですか」
「はい、そうです」
「なんだ、つまらない」
つまらない?
「では今度うちに遊びにいらっしゃい」
「遊び?」
「そうだ、泊りがけで一週間ぐらいどうだろう」
「一週間?!」
「拓馬と美智も呼びましょう。
二人とも九月からキヨノさんが学校に来ると楽しみに待っていたんですよ」
「はぁ」
九月から学校に行くのはどうかとなりあき様と中川さんから提案があった。
いろいろ考えたが、結局、行かないと俺が決めた。
代わりに週四日、ジェイコブズ先生が家庭教師として屋敷にいらっしゃることになった。
あとは拓馬様と美智様が週一回、いらっしゃる。
遊園地で初めてお会いした拓馬様と美智様だが、拓馬様は櫻子様の弟さんだった。
お二人とは遊んでいる。
なりあき様と中川さんがおっしゃるには、同い年くらいの人と遊ぶのも大切なことだそうだ。
今はお正月に揚げる凧を作っている。
でも、一週間も?
俺は黒須様を見る。
黒須様はずっと微笑んでいらっしゃるが、眼鏡の奥の目はよく見えなかった。
白洲様とは全然違う。
夏の白洲様となりあき様と花火を見たのは、楽しかったなぁ。
「私といては退屈?」
「いえ、そんな」
「考え事をしていらっしゃるようだったから」
「あ、いえ、その……すみません」
「とっつきにくくて気難しい、と言われているのは知っていますよ」
「そうなんですか」
「おや、三条院から聞いていない?」
俺が首を横に振ると、黒須様は意外そうだったが、くふんと笑った。
そうこうしているとぜんざいが運ばれてきた。
焼かれて香ばしい匂いのする小さな餅が二つと大きな栗の甘露煮が入っているぜんざいは、黒漆の椀によそわれている。
そして黒須様の目の前に置かれたものは、小さな朱塗りの盆にのった銚子と猪口だった。
「冷めないうちにどうぞ。
櫻子さんも絶賛のぜんざいです。
きっとキヨノさんも気に入ると思いますよ。
彼女の舌は確かだから」
「黒須様は…お酒、ですか」
「ええ。熱燗のちょっと手前です。
こんな寒い日にはもってこいだ」
「ぜんざいはお好きではないのですか」
「実は甘いものはそんなに好きではないのですよ。
というか、食全般にあまり関心がない」
意外。
俺がぼんやりしていると、黒須様はご自分でお酌をし酒を飲み始めた。
こういうときはお酌をしたほうがいいのだろうか。
なりあき様は滅多にさせてくれない。
「私のことはいいですから、キヨノさんはしっかりお食事をとってください」とおっしゃる。
「自分は手酌でいいですよ。そのほうが安心して飲めるから。
さ、お召し上がりください。
大きな丹波栗でしょう。この店の御自慢なんですよ」
「はぁ」
俺は箸を取って、ぜんざいを食べ始めた。
ぷくぷくの大きな小豆はしっとりと煮てあり、ぷちんぷちんと皮が弾ける。
餅も伸びがよく、なめらかで香ばしい。
大きな栗は甘露煮にされているが、ほくほくねっとりして口の中が栗いっぱいになる。
ほぅぅぅ。思わず大きな息を吐いてしまう。
うまい。
「美味しそうに召し上がるんですね。よかった、気に入っていただけて」
夢中になって食べていた。
恥ずかしくて思わず身体がかたくなる。
「その塩昆布もどうぞ。これがまたいい味なんです」
そう言って、黒須様は銚子の横の豆皿の塩昆布を箸でつまんで口に入れた。
「私は酒のあてに食べるのが好きですね」
俺もぜんざいについていた塩昆布を食べてみる。
うまい。
丁度いい塩加減と昆布のうまみが口いっぱいになる。
ぜんざいを一口すする。
うまい。
「三条院の学生時代の話、聞きたくないですか」
ぜんざいを食べ終わり、お茶をすすっていると黒須様が突然そんなことをおっしゃった。
「お聞きしたいです」
いつだったか、写真を見せてくださるとおっしゃったがそれが見つからず、今も見ていない。
そのこともぽそりと言うと、
「おやおや、なおさらうちに遊びにいらっしゃい。
三条院が写った写真もありますよ」
と、黒須様がおっしゃった。
それから黒須様は学生時分のなりあき様についてたくさんお話をしてくださった。
初めて知るなりあき様のお話は面白く、とてもどきどきした。
そして少しだけ、寂しくなった。
俺の知らないなりあき様を黒須様と白洲様をよくご存知だ。
一緒に勉強し、遊び、泣き、笑った時間を俺はどうやっても持てない。
なりあき様と俺とは差がありすぎて、どうやっても縮められない。
黒須様はなりあき様のことを本当に、本当によくご存知だ。
なにが好きで、なにが嫌いで、どういう気質で、どういうものをお望みなのかを。
「黒須様はなりあき様のことが本当にお好きなんですね」
少し酔ったのか、ほんのり赤い顔をしてうっとりとしていた黒須様は俺を見ながら破顔した。
「僕は三条院のことを愛しているからね」
その言葉を聞いた途端、俺の心はかりかりとひっかき傷が幾つもつけられた。
「愛して…る?」
「そうだよう」
黒須様はお美しいお顔でそうおっしゃった。
「好きよりも、もっと好きの『愛してる』?」
「うん」
白いお花がどんどん桜のように染まっていく。
そんな顔の黒須様がいらした。
俺は少しばかり混乱している。
これは……黒須様はなりあき様のことがお好き、ということでいいのだろうか。
好きよりももっと好きの、黒須様はなりあき様を愛している、ということ?
でもなりあき様は俺のことが好きで、俺もなりあき様が好きだ。
なりあき様と俺は結婚をしていて、で、で、で、で……
それだけだ。
***
ぼんやりとしてしまった。
落ち着こうとしてすすったお茶はすっかり冷めていて、やけにひんやりしている。
このままでは黒須様はおつらい思いをしてしまうのだろうか。
いや、もうなっているのだろうか。
もし、なりあき様と黒須様がご結婚……、そんなの考えられないっ!
でもそうしないと黒須様は幸せになれず、でも俺はそんななりあき様を見ていられなくて。
え。
え。
え。
え。
突然、黒須様が大声で笑い出した。
「キヨノさんは見ていて楽しいなぁ」
楽しいっ?!
「安心してください。
三条院にはなにも言っていないし、これからも言うつもりはありませんよ」
「でも」
「ちょっとした意地悪です」
いじわる。
「もう潮時です。
櫻子さんも待たせすぎている。
近々、櫻子さんとの祝言の招待状が届きます。
三条院と一緒に出席してください」
「でも、そしたら黒須様はなりあき様とは」
「おや、あなたの夫と僕が結ばれてもいい、と?」
「それは…でも、あの」
「内緒にしておいてください」
そんな。
そのあと、俺はどうやってお屋敷に戻ったのか、なにを食べたのかまったく覚えていない。
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