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ハルが生まれた日の朝、父親の晴明は突然の機能性発声障害を発症した。
酒も煙草もせず、健康には人一倍気を配ってきた彼のその症状は、何人の医者に罹っても原因不明と言われ、最終的には『ストレス』の一言で片付けられた。
晴明は、医者に『ストレス』だとか『心因性』と言われるたびに、自分の心の弱さを呪った。
妊娠と同時に発覚した妻の病と、もうすぐ生まれてくるわが子。
その二人の『もしも』を、『その日』までずっと考えずにはいられなかった自分の弱さが招いたことなのだと、心から悔いた。
彼の家は、この島に『鬼涙島』という名前がついた頃に建てられた神社『鬼木神社』の神官の家系だった。
『数年に一度、鬼の血を引く子どもが生まれる』
晴明は、先祖代々から受け継がれてきたその言葉と、日に日に病に侵されていく妻の身を案じて、さほどお腹が大きくないうちから、何度も妻を説得した。
進行性の乳がんで、病巣の広がりも早く、医者からは「出産を望むのであれば、命の保証はできない」とまで言われたのだ。二つの生命を天秤にかけることなど出来ないと思いながらも、肉眼で拝むことのできる愛する生命を前に、「諦めてくれ」と言わないなどできなかった。
しかし、どんなに説得しても「必ず産む。そして、必ず私は死なない。この子も大丈夫よ」と、妻は頑なに意見を曲げなかった。
彼女の強さに押され、晴明はその言葉を信じて、祈ることしか出来ない自分の非力さを呪いながらその日を待った。
妻の出産は、本土の大学病院で万全の体制を整えて行われた。
帝王切開で無事に長男を取り上げた後、がんを切除する手筈だった。
しかし、彼女を救うことはできなかった。
手術室の前で祈るような気持ちで聞いていた彼女の心音は、息子の産声と共に消え、悲痛な叫びを最後に晴明の声も消えた。
突然声を失ったあとの生活は、不便の極みだったけれど、それでも晴明は必死に前を向いていた。
自分と妻の名前から一文字ずつ文字をとって名付け、島の人々に「大巫女様」と呼ばれ、敬われていた母の手を借りて育てていた晴仁の成長は何よりも楽しみであったし、日に日に大きな二重まぶたの目と、鼻筋の通った小鼻が妻に似ていくことが嬉しかった。
言葉の覚えも早く、時折亡き妻を思い出しては感傷に浸る自分の頭を撫でてくれることもあったそんな息子は、きっと思いやりに溢れた優しい子なのだと思っていた。
大病もせず、本当にすくすくと育ってくれて、自分にもとても上手に話してくれるものだから、それが当たり前になってしまって、晴明は気付けずにいた。
どうしてこの子は、話せない自分と会話ができるのかということを。
晴仁が小学校に入学した頃、母は晴明を本殿に呼び出して
「ハルは何で自分には母親がおらんのんかって聞いてこんか分かるか?」と尋ねてきた。
「どうしてだろう?」
言われてみれば一度も聞かれたことがなくて、質問を返してみると、母はとても神妙な顔をした。
「ハルは……あいつはのぅ可哀想な子じゃて……。聞こえとるんじゃ、人の心の声が。神さんの力を持って生まれて来よったんじゃ……」
占いが得意な母の言葉は、重みがあった。
晴明はまだ幼い息子の胸中を想って、呪い石を握り締め、声にならぬ声を上げて泣いた。
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