夜のおつとめ

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「進んだ……」  黒木はシフトレバーをリバースにいれると、助手席のヘッドレストに手を掛けてうしろに身をひねった。ブレーキの赤い光が消えると、白い光に頼って、ひと息分、車をバックした。赤い光を一瞬見たのち、黒木は振り返った。 「きゃっ!?」  黒木の体が反り返った。フロントガラスに女の上半身が見えた。バンパー、スレスレにまで女が接近していた。黒い髪の毛の先っぽがボンネットに触っている。 それならと、黒木はまえを見ながらバックすることにした。目のまえの女を見ながらブレーキペダルを離し、アクセルを踏み込んだ。  ガッシャッン!  いやな音がした。 「あちゃぁ、やっちゃったか!?」  バックミラーで映っている物を確認すると、黒木の車のテールランプに照らされた車の鼻先が見えた。  黒木は俄かに現実に戻った。自分の失態に両手を前後に激しく揺さぶった。  前方を見るが女はいなかった。  黒木は安堵したというより怒った。自分が起こした接触事故はこの女のせいじゃないか、と苛立(いらだ)ち、正直女が幽霊かどうかなど、どうでもよくなった。 なんなら女をひっ捕まえて――幽霊であったとしても――うしろの運転手に突き出して、事故の責任をとらせようかとも思っていた。  黒木は車外に出て自分の車とうしろの車の当たったところを見にいった。  見覚えのある車だった。 さきほど、あわや正面衝突しそうになった軽自動車だった。  黒木はその車にむかって頭を下げた。 だが、軽自動車からは人は降りてこなかった。  黒木は運転手の降車を待つことなく、軽自動車のフロントまわりを見た。  さいわい擦った程度の傷だった。目を凝らして見ないとわからないような傷が軽自動車と自分の車にあった。  これしきの傷ならわざわざ警察を呼ぶこともないだろう。示談にして話し合ったほうが、金も手間も省けそうだと黒木は考えた。  軽自動車のなかには、黒い影がいた。  コンコン。  黒木は軽自動車の運転席のよこの窓を叩いた。  だが、黒い影は微動だにしなかった。  コンッ。  黒木は再度窓を叩いたが、やはり反応は同じ。黒い影はじっとしている。  男なのか? 女なのか? 人間なのか? 人形なのか? 軽自動車の車内は暗く、黒木には判別がつかなかった。  車窓に何かがへばりついた。  髪の長い女だった。  今度はしっかりと顔が見えていた。顔があざだらけで、まぶたがふくれあがり、口と鼻の穴から血が流れていた。  黒木が後退ると女が車内の暗闇に吸い込まれるように消え去った。  軽自動車の内側からフロントガラスに黒い液体が飛んだ。フロントガラスの内側が横なぐりの雨で濡れたように滴っていた。  黒木はそれを見て、腰砕けになり、じぶんの車に逃げもどった。
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