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夜のおつとめ
黒木はハンドルを握りながら思った。
「丑三つ時は――午前2時から、その30分までのあいだ……」
車の中の小さくて、見にくいデジタル時計は、02:09。いま、:10になった。
カーステレオからはラジオの深夜放送<クラシックの誘い>が聴こえている。
<ヨハン・パッフェルベルのカノン>弦楽四重奏ーー
いまではこの小品が、はじめからさいごまで、頭のなかで繰りかえすことができるくらい聴きこんでいた。
車のヘッドライトが照らす道は街路灯がいっさいなく、曲がりくねった道の先のほうはなにも見えない。
「ハイビームにしてみるか――」
ハンドルの右うしろのレバーをむこうに倒した。
前方の空間に光の帯が広がり、浮きあがった廊下のようにみえた。じつに見通しがよくなった。
ハンドルの上部に置いた左手を離し、腕時計を見る。
割れたガラスカバーの内側の長針が0、短針が3、秒針がどこにいったかわからない。ああ、長針と重なっていたか。
「う、うわーっ!」
右コーナーのセンターラインを割って、光があらわれた。その上には黒木の車のハイビームが照らした目と口をカッ開いた人の顔が浮かんでいた。
幅の狭いふたつの光が激しくパッシングをする。軽自動車のそれとわかった。
黒木はハンドルのうしろのレバーを叩くように手前に戻すと、ハンドルの上部を右、左、右、左とハムスターの手足のようにちょこまかと動かした。
車が軋み音を出して、視界に左側のガードレールが接近すると車はつんのめってエンストした。
その際、となりの助手席の上に置いていた荷物が床に転がっていった。
「痛っ!」
黒木の右側面を光の照射がかすめ、風圧と感覚的な圧迫をあたえて過ぎさってゆく。黒木はタイヤが路面を擦ったときの饐えた臭いを嗅いだ。
「こんなときにかぎって、車が来るんだからな」
黒木はシートベルトをはずし、左腕を伸ばして転がった荷物を助手席に戻した。
黒木は前方を見た。
車内も辺りも静かだった。ヘッドライトの光が道路の直線を隠すところなく照らして、その突き当りのカーブミラーを浮かびあがらせていた。その先の道が左に曲がっていることがわかった。
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