15 不安

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15 不安

 クリスマス直前の夜、早苗は商店街を走っていた。明日、保育園で使いたい画用紙が足りなくなってしまい、急いで文具店に向かったのだった。なんとか間に合って買い物を終えて歩いていると、道路を挟んだ向こうのキャバクラの前がにぎやかで思わず目を向けた。(え?)  颯介がいた。キャバ嬢二人に囲まれて親しげに話をしている。なんとなく建物の陰に入り様子を伺ってしまった。しなだれかかる女たちをそのままにしている颯介に不信感が募った。女たちは店に入り、颯介は少し歩き始めた。目で追っていると、三軒先の店からまた女が出てきて颯介を見つけ腕を回してくる。颯介は慣れた様子で女をあしらっている。そして次の店に入って行った。  早苗は今見たことが、なんだかとても信じられなかった。男ならこういうところに出入りしてもおかしくないのかもしれない。浮気をしているともいえない。ただ、颯介のやけにこなれた対応が早苗の心に黒い染みを作った。  次の日、早苗はなんとか一日の仕事を終えて、最後のお迎えの保護者を待った。今日は葵が最後まで残っている。 「葵ちゃん、寒くない?もうママ来ると思うからね」 「大丈夫」  屈託のない笑顔で葵は答えた。母親を心待ちにしているけなげな様子を見て、早苗は自分と妹の子供時代を思い出す。一日離れていた母親と会えるこの時間が一番うれしい時間だった。 絵里奈がシュシュでまとめた長い髪を乱しながら走ってやってきた。 「すみませーん。遅くなってー」  息を切らせている絵里奈に葵は、「ママ、おかえり」 と、笑顔で言いながら絵里奈の髪の毛を優しく引っ張った。 「ただいま。葵」  絵里奈はここのところ綺麗になってきてる早苗が、今日はやけに暗く沈んでいて顔色も悪いので、思わず心配になり声を掛けた。 「あの、先生。どうかしました?なんかすごく顔色悪いですけど」 「あ。いえ。大丈夫です」  絵里奈は颯介のことだと察した。今の早苗は自分が離婚する直前の時のような顔をしている。お節介かも知れないと思ったが、どうしても放っておけず訊ねた。 「あの。間違ってたらすみません。大友君のことですか?」  ハッとして早苗は顔を上げた。そして絵里奈が颯介の古くからの友人だったことを思い出した。 「ああ。絵里奈ちゃんのママはそう……大友さんのご友人でしたね」  思わず颯介のことを口走った早苗は涙をこぼしてしまった。 「あの。ちょっとお話しませんか。葵を家に置いてきますので。先生ももう終わりでしょ? 十五分したらまた来ますから」  そういって早苗の返事も聞かずに葵を連れて絵里奈は帰って行った。  絵里奈は渋る葵を母に預けて保育園に向かった。(あいつ、何やったんだ)保育園の門は締まっていて外に早苗が立っていた。 「先生、どうぞ乗って」  促されるまま、早苗は薄いピンク色のワゴンRに乗った。 「なんか、すみません」  早苗は頭を下げた。 「いえいえ。普段すっごいお世話になってるし。最近、大友君とも話してなかったのでちょっと気にはなってたんです」  早苗はすぐ近くのファミリーレストランに車を停めた。 「お茶でもしましょうよ」 「あの。葵ちゃんは」 「大丈夫です。ばあばとじいじと仲良くやってますから」 「じゃあ」  心細かった早苗は絵里奈と店に入る。  飲み物を注文して絵里奈は率直に聞いた。 「大友君が何かしたんですか?」  早苗は一息ついてから話した。 「特に何かしたわけじゃないんです」  昨日の晩のことを話した。 「あいつ……」  絵里奈は空中をにらんでいた。 「大したことじゃないと思ってはいるんです。でもよく考えたら私、大友さんのこと何も知らないんですよね」  絵里奈は颯介がすっかり猫を被って早苗と付き合っていることを想像していた。最後に颯介と話をしてから、この二人がどういう付き合いをしているのかわからない絵里奈には、颯介は根っからの遊び人だから気をつけろとも、ここ最近は真面目だから大丈夫だとも言えなかった。 「あの。今どういうお付き合いなんですか?」 「この前、結婚したいと言ってくれたんです……」 「ええ? 結婚? あいつが?」  驚いて絵里奈は言葉が乱暴になってしまった。 「結婚って言われなかったらこんなにショック受けなかったかもしれないんですけど……」  (颯ちゃん結構本気なんだ……) 絵里奈の知っている颯介は口が裂けても結婚の文字が出てこない男だった。 「きっと職場関係で飲みに行ったんだと思いますよ。確かに大友君は昔から優しかったので結構モテてましたけどね。だけど名前の通り拘束できない風のような人で。それが結婚なんて言い出すからには相当、先生に本気なんだと思います」  あまりストイックに言うのも嘘くさいので、本当のことを控えめに言った。 「そうですか。私、こういう経験がないものですから、どうしたらいいのかわからなくなってしまって。聞いてもらってありがとうございます。ちょっと楽になりました」 「よかった。なんかあったら言ってくださいよ」 「ありがとうございます」  早苗は明るさを取り戻して言った。  早苗をアパートに送り届けた後、絵里奈はすぐに颯介に電話をかけた。 『おう。なんだ。久しぶりだな』 『ちょっと。昨日何してた?』 『え。何してたっけ』 『キャバクラ巡りしてなかった?』 『え。ああ。何で知ってんだ。職場の忘年会で二次会がキャバなだけだよ』  『ふーん。悪いことしてないでしょうねえ。』 『なんだよ。してないって、やけにとげがある言い方するなあ。いきなり何なんだよ』 『キャバ嬢といちゃついてるとこ、早苗先生に見られてたんだよ』 『え……』  さすがの颯介も息をのんだ。 『どうしたらいいのかわからないって泣いてたよ』 『今から行ってくる。またな』  電話が切れた。(はあ。世話やけるなあー……って私もか。) 気が楽になった絵里奈は帰ったらいっぱい葵を抱っこしてやろうと思った。  電気の入っていない冷えたこたつで横になっているとチャイムが鳴った。(なんだろ) 「はい」 「俺。颯介。開けて」 「あ、うん」  ドアを開けると息を切らせて汗ばんだ颯介が立っていた。 「あのさ。ごめん。心配させて」 (ああ。葵ちゃんのママが言ってくれたんだ) 「ん。もう平気」 「ほんとか?」 「うん」  無理をして作った笑顔から涙がこぼれた。颯介は早苗の肩を抱いて部屋に上がる。 「ごめん」 「こんなことで悲しくなるなんて思わなかった。もういい大人なのに」 「俺が悪いんだ。早苗と会う前は確かに遊んでてチャラチャラしてた。ここんとこ全然飲みに出歩いてなかったんだけど忘年会で調子に乗っちまった」  早苗は深呼吸をして気持ちを落ち着かせようとした。颯介は早苗の背中をさする。 「大人でも子供でも傷つくときは傷つくよ。もう調子に乗らないように気を付けるから泣かないでくれ。気に入らないことがあったら小さいことでも言ってくれ」 「うん」  早苗は颯介の腕の中でいつの間にか安堵していた。
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