#20 夏の果て

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「お前、なんで俺なんか……好きになったんだよ」 宗介が静かに口を開いたので、那緒はその顔を覗きこむ。 カーテンから漏れる月明かり、白い頬。奥二重の目はどこか心許ないような表情をみせていた。迷子になりかけの子供みたいだ。 那緒は尋ね返す。 「なんでって……なんで?」 「好きになるようなとこ、ねえだろうが」 「なくないよ。いっぱいあるよ、好きなとこ」 挙げろというならいくつでも挙げられる。 昔は、強くてかっこいいところが好きだった。ヒーローに憧れる気持ちに近かったように思う。それは今でも変わっていないが、ヒーローを守りたいとは普通、あまり思わないだろう。 間近で不安げに瞬く宗介の瞳を、那緒は掬いあげるようにじっと見つめる。 「いっぱいあるけど……優しくて、真っ直ぐなとこが、いちばん好き」 そう伝えると、宗介は目を泳がせて「……そんなんじゃねえよ、俺は」と呟いた。 「真っ直ぐなんかじゃねえ。矛盾だらけだ」 卑下するような言葉がぽつりと落とされる。それはきっと、誰にも晒したことのなかった、紛れもない宗介の本心だった。 那緒の胸が締めつけられる。 確固とした信念のもとで生きていると思っていた。本当は宗介だって、揺れていたのだ、いつも。そう思ったら。 愛しくてたまらなくなった。 泣きたいくらい。 今日だけ泊めてくれ、と言った宗介は。 明日には家に帰って、きっと両親と顔を合わせる。 今日の出来事を宗介の両親がどれだけ怒っているか、何と言って宗介を咎めるのか。想像するだけで那緒が苦しくなるのは、宗介がまた一人で戦うつもりなのがわかるからだ。 他人に頼ることが下手な宗介は、たぶん、また自分で決着をつけようとする。人間のそういう性質は簡単には変わらない。 でも宗介は、自分に助けを求めてくれた。 その事実が那緒には重要で。 一緒に戦うことも、守ることもできる。それを、ちゃんと伝えておかなくては、と思った。 もう絶対に一人にはさせない。 一人じゃないんだと知っていてほしい。 「……あの、宗ちゃん」 抱いていた腕を離し、布団の下で宗介の手に触れる。細く筋ばった手の甲の感触。微睡みの中のようなあたたかさ。 「もっかい、ちゃんと言い直していい?」 心臓がうるさくて、宗介に聞こえてしまうと思ったが、いっそのこと聞かせてやりたい気もした。代わりに指どうしを絡ませる。宗介は拒まない。 「好き、……です……」 育て続けてきた心が、ぎこちなく声になって喉を震わせる。 ちゃんと宗介の鼓膜まで届いたか自信がなくなって、きゅっと指に力を込め、もう一度。 「宗ちゃんのことが好きです」 ずっと昔に芽吹いていた感情が、ようやく咲くのを許されて、那緒の中で確かな言葉になったーーそんな感じがした。 数ヶ月前に言ったそれとは違う。宗介がなかったことにしようとした、あのときの言葉とは。 宗介は、那緒の瞳を見つめ返しながら、しばらくなにも言わなかった。那緒には永遠にも感じられた清らかな沈黙ののち、ふ、とその眼差しが陰る。 「……お前がアルファで、俺がオメガだからだろ」 静かに、しかしどこか投げやりに宗介が言うので、那緒は間髪いれずに否定を口にした。 「違うよ。それは違う。だってさ、宗ちゃん」 そんなことを言わせてしまうほど、現実が宗介の心に巣食ったその根は深く、那緒にはそれが苦しかったが。 「そうなる前から俺たち、一緒にいたじゃんか」 物心ついた頃にはもう出会っていて、那緒は那緒だったし、宗介は宗介だった、そこからなにも変わっていない。 ただそれだけなのに、宗介が「わかんねーよ……」と目を伏せるから。 「わからせるよ、俺が」 ごつん、と額を合わせた。 頭の中身がこれで全部、宗介の中へ流れ込んでいけばいいのに。はちきれそうな愛おしさが残らず伝わればいいのに。 やわらかい夜風が頬を撫でる。今夜が涼しくてよかった。熱帯夜だったらこんなそばで触れられなかったかもしれないと、那緒は少しだけ思った。 「俺のこと、そういうふうに見てよ」 吐息が当たる距離。焦点が合わないほど近い。 「ずっと近くにいられるなら、友達でもいいやって思ってたけど。友達じゃ、守れないときもあるから、今日みたいに」 フェロモンの匂いは消えていないが、触れたところのあたたかさのほうが、何倍も存在感があった。知ってしまうと、欲しくなる。この体温を独り占めしたい。 「宗ちゃんの、いちばん近くにいたい」 宗介のことはなんでも知っているようなつもりでいたのに、初めて見る顔も、初めて聞く声も、いくつもあったしきっとまだあるのだ。そばで守りながらひとつひとつ知っていきたいと思った。 ゆっくりでいい。宗介さえ許してくれるなら、時間はいくらでもある。 宗介が眉を顰めた。 「ヘタレのポンコツ野郎が何言ってんだ、バカ」 でもその目元は薄っすらと朱がかっているのが、暗闇にもわかってしまって。無意識のうちに口元を緩ませた那緒は、「ニヤニヤしてんじゃねえっ」とゼロ距離からの頭突きを受ける。 「いだっ……いきなりなにすんだよ……っ」 じん、と疼く額の痛みに、目を瞑って耐えていたら。 唇にやわらかいものが触れた。 え、と思ったときにはもう離れている。 「……えっ」 慌てて開いた瞼の向こうで、宗介はじっと那緒を見ていた。 黒真珠のような瞳が淡く煌めく。 なにか言いたげでもある。 けれど、なにも言わないまま宗介は、ぷいっと顔を背けた。 「え、宗ちゃん……いまのなに、ねえ」 「寝るぞ」 ごろんと寝返りを打ち、那緒に背中を向けてしまう。 夢だったかと思うほど一瞬の出来事、しかし、少しかさついた感触がまだ那緒の唇には残っている。 「うそ、宗ちゃん、説明してよ。ねえ、ちょっと、こっち向いて」 「黙れ。自分で確かめただけだ」 「な、なにを」 「……嫌なことかどうか」 ぼそりと言われた言葉に、期待と不安とが入り交じって那緒を襲う。一気に渇いた感じのする喉を小さく鳴らし、尋ねるも。 「け……結果は……?」 「うるせえ、寝ろ」 つれない返事に那緒は「無理だよぉお」と悲鳴をあげた。 それを笑うように、外では気の早い鈴虫が鳴いている。秋の訪れの微かな気配を謳っている。
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