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マンション近くの路上、一台のタクシーが停まる。
……光だ。
タクシーの前に飛び出そうとして躊躇した。同じ思いはさせたく、ない。
少し落ちついて、タクシーが発車する気配がないことを確認してから、前へ立った。俺に気付いた運転手に窓を開けるように合図する。
「光! 約束が違うだろ。ああ、いいわ、降りろ! 」
「柊晴、外だから。お願い」
光にそう言われ、運転手の青ざめた顔、それから通行人の好奇な目に晒されていた事に気付いた。
同時に、全く落ち着けていない事にも。
「降りろ」
今度は穏やかに、だけど、強い口調でそう言った。
「ごめんなさい。無理なの。帰ってくる、きっと。だから、お願い。今は……」
「信じられる訳ないだろ」
「お願い」
「無理だ」
「お願い、必ず戻る……だから」
戻る?
その意味を考える。戻るくらいなら、行かなきゃいいじゃないか。
……光が、苦痛に顔を歪め、腹部に手を当てた。小刻みに震え、懇願するような瞳……こんな顔をさせたいわけじゃない。ここに居ても、治らない。
「どれくらい、必要なんだ」
「……3年……」
光が、俺を愛してくれる未来がそこにあるなら何年だって待つつもりだ。だけど、これはそうじゃない。
「無理」
「そんなの……」
「誕生日。光の誕生日に、帰って来い。それから……これ」
そう言って以前受け取らなかった、キャッシュカードを渡した。渋々受け取った光に言った。
「月に1回は必ず下ろせ。出ないと、離婚しない。この約束だけは守って貰う」
「なら、今……離婚」
「光。力で降ろそうか? 」
俺の言葉に光がまた渋々ながら頷いた。
「……分かった」
「約束だ。帰って来い」
そう言って、窓から小指を出す。絡めた指。いつかのデジャヴ。守られなかった、あの……指切りは。守られなかった。だけど、夫婦になれた未来があった。だから……
「信じてる」
そう言った。
「分かった」
「すいません運転手さん、行って下さい」
穏やかにそう言った。運転手は、俺と光を交互に見て、ほっとしたように走り出した。
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