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その翌日――。宇野はいつも通り、朝早くベッドから起き出した。夜勤明けの一日が終わり、今日は丸一日休みだ。しかし、早朝に起きる習慣がついているせいで、休日といえども朝寝もできず、こうして目が覚めてしまう。――と言ってもまだ時刻は朝の五時。さすがに起きるのには早すぎる。しばらくの間、ごろごろと寝返りを打つことにしたが、もうひと眠りしようと目を閉じれば、朝倉の顔と、昨夜、彼がくれた言葉が思い出された。おかげで二度寝なんかできやしない。
――君はオレの……、すっごい大事な相棒だから!
ぱち、と目を開け、はあっとため息を吐く。どうして彼の言葉にはこんなにも、期待させられるのだろう。朝倉は異性愛者で、宇野を仕事上のパートナーとしてしか見ていない。確かに信頼してくれていることは理解しているが、それは恋愛感情ではなく、おそらく今後、変化していく見込みもない。それなのに、朝倉の真剣な言葉は、いつも宇野の心の奥に仕舞い込んでいる期待をくすぐるのだ。だから宇野は、見込みのないこの気持ちを、彼を諦めることができなくなる。
あんなふうに大事だって言われたら……、わかってても、カン違いしそうになっちゃうじゃん……。
「いっつもふざけてばっかいるくせに……。朝倉先生のばか……」
壁に向かって、ぽつりと呟く。まだ寝ぼけた頭でも、昨夜のことを思い出すと、朝倉への想いが一気に溢れてきて、頭の中がパンクしそうになる。そうして、溢れ出る想いを堪えきれず、彼に伝えてしまいたくなる。本当はずっと好きだったのだ、と。仕事上の相棒としてではなく、恋人になりたいのだ、と。
いつもなら、晩酌が始まれば適当に酔っ払ったフリでもして、彼に「好きだ」と何度も言って、翌日には知らんぷりをして、それでなんとなく伝えた気になっていた。けれど、昨夜はそれもできなかった。彼があまりに真剣だったせいだ。
「好きって言いすぎてるのかな、僕……」
宇野は独り、ぼやきながら起き上がり、着替えて家を出た。散歩にでも出て、気晴らしでもしよう、とそのまま特にどこへ行くでもなく歩いていく。こんな日は、海沿いへ行くのは気が引けて、宇野の足は自然と山のほうへ向いていった。夏の海は、たいてい早朝から観光客でにぎわっているから、静けさとは無縁なのだ。
人通りの少ない道を選んで歩き、知らない角を曲がってみる。通ったことのない道は新鮮で、気分転換にはちょうどよかった。自分で地図を広げていくような感覚にだんだんと楽しくなってきて、足取りも軽くなるが、そのうち、ふと気が付いた。
あれ……。ここって、どこらへん……?
何度も角を曲がるうち、方向感覚をまるっきり失って、呆然と立ち尽くす。今、自分が鎌倉の、どの辺りにいるのかすら全くわからなくなってしまった。こんな時はケータイのマップを見ればいい、とポケットを探るが、ポケットに何度手を突っ込んでも、そこには家の鍵しか入っていない。どうやらケータイを忘れて、ここまで歩いてきてしまったらしい。
「うわぁ、迷子じゃん……」
めんどくさいけど……、来た道、戻るしかないか……。
それがいい。このまま、知らない道をずんずん進んでいっても、あてずっぽうで近道をしようとしても、どんどん迷ってしまいそうだ。ところが、くるりと方向転換をした瞬間。「あれ、宇野さん?」と声をかけられた。前方を見れば、見覚えのある男が立っている。
「あ……、たしか……」
藍染の友人、早瀬だ。手にはリードを持ち、チャトを連れている。
「やっぱり。宇野さんですよね」
「早瀬さん……!」
「こんにちは。おうち、この近くなんですか?」
「いえ……。あ、あの……ちょっと散歩に出て、考えごとしてたら、歩きすぎて……、道がわかんなくなっちゃって……、はは……」
笑みを零し、頭を掻いた。この年齢になって、迷子はちょっと恥ずかしい。宇野は誤魔化すように足下にいるチャトに目をやった。チャトはハーネスとリードをつけて、ちょこんと座り、眩しそうに宇野の顔を見上げている。
「すごいですね。チャトくんって、お散歩できるんですか」
「……ええ、最近はそうしてるんです。元々、野良だったから、家の中だけじゃ退屈しちゃうんじゃないかと思って」
「そっかぁ。おうちに来て、ちょうど一年くらいでしたっけ。お利口さんですねぇ」
チャトの鼻先に指先で触れると、チャトは小声で「ニャ……」と鳴いた。思わず頬が緩む。そっと喉元を撫でてやれば、目をうっとりさせて、ゴロゴロと喉を鳴らし始めた。
「かーわいい……。相変わらず、おっとりさんだねぇ」
「いやぁ、今でさえこうですけどね、チャトを拾ったときは、大変だったんですよ。去年の今頃かなぁ、おれたち、同棲するって決まってたんですけど、尚央が突然、野良猫抱いて、連れて帰るっていうから――」
「同棲……」
同居ではなく、同棲という言葉に、思わず反応して訊き返してしまった。すぐに口を噤んだが、早瀬は笑みを零す。
「あ――……、すみません。びっくりしますよね」
「いえ……」
「おれたち、実はそうなんです。おれが尚央に惚れ込んじゃって」
「へぇ……」
「当たって砕けろで、本当に砕けなかったからよかったですけどね。なんかすいません、こんな話して――……」
「いえ、いいですね。すごく……、羨ましいです……」
本音がそのまま言葉に出てしまったが、もうどうでもよくなって、宇野は誤魔化すこともしないまま、苦笑いを浮かべる。すると、早瀬は少し驚いたような顔を見せたが、すぐに目を細めて言った。
「へぇ、そっか。宇野さんも、恋してるんだ。もしかして……、おれたちとおんなじ感じですか?」
「まぁ……、僕はきっと早瀬さんたちみたいには、いかないでしょうけど……」
「そんなことわかんないじゃないですか。――あ、そうだ。迷子なんですよね? 病院までの最短近道教えてあげるんで、その代わり、話聞かせてくださいよ」
「え……!」
「なんか、思い詰めてそうだし。こんなところでこんな時間に会ったのも、きっと運命ですよ。ね?」
爽やかな笑顔で詰め寄られ、一気に近づいた距離に、ドキッとして宇野は身構える。なんだか面白がられているような気もしたが、もうこの胸の内側に抱えている重い感情を洗いざらい吐き出してしまいたい。宇野はしぶしぶ頷いた。
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