古時計は3時に止まる

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午前3時、世界の時間は止まった。 部屋のライトを点け、叔父から譲り受けた立派で大きな古時計を見つめながら亥吹路(いぶくろ)はそう訝った。 いくら見つめても古時計はうんともすんとも言わないし動かない。 針が睡眠をとっているように動かないのだ。 もちろんスマホでも時刻を確認してみたが、こちらも3時からピタリとも動かない。 はてどういうことだ? 亥吹路は考えた、自分の持っている時計だけが動かなくなったのか。 はたまた自分はアリスのように不思議な国に迷い込んだのかと。 だとしたら地味な話だ、体が小さくなる飲み物も走り回るうさぎもいない。 ただ時が午前3時で止まるだけ、ルイス・キャロルも苦笑いだ。 亥吹路は声に出して60数えてみた、スマホのデジタルに表示された時刻を見ながら気持ち大きめな声で。 60数えた、3時のままだ。 いやはやおかしいぞこれは。 衣吹路は刻々と重くなる頭を動かした、なぜこんな状態になっているか皆目見当もつかない。 うむ、と唸ってみる。 体を伸ばしたり、歌を歌ってみたりしたがまったく時計の針は動かない。 仕方ない、そう思い亥吹路は立ち上がった。 部屋を出てリビングに入る、テーブルの上に置いてある時計に目をつけた。 リビングの時計なら、時も進んでいるはずだ。 亥吹路は嬉々として時計が指す時刻を見た、3時だ。 これも動いていないのであろう、秒針に接着材でも塗られているんじゃないのか? 亥吹路は時計を調べたが、接着材が塗られているようすはない。 これはさすがの亥吹路も参った。 どうしようかと考えを巡らせていると、1つ上等なアイデアが浮かんだ。 寝室で眠っている両親を起こせばいいのだ、そしてこの謎について一緒に頭を悩ますなり、絶望を共有するなりすればいいのだ。 これは言い考えだ、亥吹路は早速両親の寝室に足を運ぼうとしたが、ある考えのためにやめた。 父はサラリーマン勤務でクタクタだし、母はパートと家事でクタクタだ。 時間が止まった、などと起き抜けの彼らに話しても叱られてお終いだろうと。 それにダラダラと大学生活を送る自分とは違って、両親は酷く疲れている、起こすのは酷というものだ。 亥吹路はため息をついて、自分の部屋に戻った。 スマホと財布をジャージのポケットに入れて、タンスからくしゃくしゃのパーカーを取り出し羽織った。 両親を起こさないように玄関を開け、外に出た。 午前3時の外は思いのほか冷えた。 暗闇の空には点々と塩コショウのように星が瞬いている。 亥吹路は特に星には興味がなかったが、夏の大三角形を幼少の頃に見た時だけは酷く感心したのを覚えている。 だが星への興味はそれだけだ、この歳になってもオリオン座も分からない。 体を丸めながらテクテクと歩いていると、前に人影が見えた。 こちらへ向かって歩いて来る、しばらくするとその全貌が見えてきた。 髪を小便色に染めた、見たままの印象だけで言うととてもお上品に『ですわ』などとは言わない姫君だろう。 口をもごもごと動かしながら、亥吹路を軽く睨む。 ガムでも噛んでいるのだろう。 「失礼、そこのお人、少し聞きたいことがあるのだが」 「あ?」 イメージにぴったりの声で威嚇してくださるこの女性に、亥吹路は少したじろいだ。 しかし聞くことがあるから呼び止めたので、聞くことを聞かなければならないのだ。 「つかぬことを聞くが今午前3時だろう?」 「しらねえよそんなこと」 「いいや3時のはずだ、それで大変なことに時間が動いてないんだ、わかるかい?」 「うるせえよブス!そんなこと当たりまえだろうが!」 「いやいやそんなに邪険にしないでくれ、当たり前なんかじゃない、時は動くものだろう」 亥吹路は自分で言ってハッとした、この女は今当たり前と言ったのだ。 舌打ちを鳴らし、さっさとこの場を離れようとする女性の腕を亥吹路は掴んだ。 「君待ちたまえ!今当たり前と言ったね?なぜ時が止まるのが当たり前なんだ?」 「離せバカ!」 女は亥吹路の頭をポカと殴り、向う脛をおりゃ、と蹴った。 亥吹路はあまりの痛さにうずくまり、蹴られた脛を撫でた。 痛みのケアは自分でするしか仕様がない、痛くない痛くないと言いながらさすり続ける。 やっと痛みが治まり、立ち上がるともう女性はいなかった。 仕方がないので歩きだす、次出会った人にも同じ質問をしてみよう。 亥吹路はしつこく違和感を残す片足に多少足を引っ張られながらも、暗闇に光る明かりを見つけた。 コンビニだ、24時間営業している素敵なお店。 働いている人は大変そうだが、今の亥吹路には都合のいい場所だった。 コンビニなら店員なり、客なり誰かしらいるだろう。 この事件のことについて何か分かるかもしれない。 亥吹路は勇み足で店内に入った、外の喫煙のために置いてある灰皿の陰に誰かいたが、あの方は後回しだ。 暇そうにレジの傍で突っ立っているおじさまに亥吹路は話かけた。 「すみません、今は午前3時ですよね?」 「え?あ、はい、そうです」 「時計、動いてませんよね?3時から」 「ええ、そうですね」 「いやそうですねじゃあないでしょう、時が止まってるんです」 「はい…それが何か?」 こいつもか、あの小便女のように時間が止まっていることに関して違和感も危機感も抱いていない。 まるでそれが当たり前のように受け入れている、気持ちの悪い連中だ。 いつまでも白昼夢と戯れているがいい。 亥吹路は店員をじとーっと睨みつけ、プイッと踵を返した。 たまたま店内にいた立ち読みおじさんにも話しかける。 「すみません、今3時ですよね?」 「聞こえてたよさっきの話、寝ぼけてないで早く帰んな」 亥吹路はカチンときた、寝ぼけてよだれを垂らしているのは諸君らのほうなのに。 なぜ自分が痴れ人のような扱いを受けなければならないのか! 亥吹路は立てた腹が収まらぬまま店の外に出た。 外に出て、そういえばと思った。 灰皿のほうに誰かいたな、あの人間にも聞いてみよう。 灰皿に近づき、顔をのぞき込ませた。 そこには高校生くらいの女子が、うずくまって座っていた。 「何をしている?」 「別にいいでしょ」 「別にいいが聞きたいことがある、今午前3時だろう?」 「うん」 「そして時計は動いていない、これっておかしいと思わないか?」 「思う」 「なに?」 「おもう」 亥吹路の顔はぱあっと明るくなって、そうだよなぁと言って女子高生の傍に座った。 「いや失礼、今まで聞いた相手が悉くちんぷんかんぷんなことを言うのだ」 「私も同じようなもんだよ、家族だって変なふうになってる」 「僕は家族には聞いてないが、道すがら小便とコンビニのおっさんたちに聞いてきた、あれはダメだ、洗脳されている」 「洗脳?マジで言ってんの?」 「マジとは汚い日本語だ、もっと美しい言葉を使いたまえ」 「ってか何その話し方?」 「うるさい」 「それよりあなた名前は?」 「亥吹路だ」 「いぶくろ?変な名前」 「名前じゃない、姓だ」 「じゃあ名前は?」 「なんでもいいだろう、君の名前は?」 「ハルカだよ」 「そうか、まあいい、とりあえずこの状態をなんとかせねば」 「どうやって?」 どうやって、と聞かれて亥吹路は自分がなんの案も持っていないことに気づいた。 亥吹路にはこの状況に対してどうこうする力はない、強いて言えば警察に連絡するくらいだ。 亥吹路は自分のスマホから、110の番号を押して電話した。 電話に出て対応する女性に今の現状を説明したが、まともに聞いてもらえず最後には乱暴に切られた。 「これが日本のありさまだ、何が国家だ、何が警察だ、肝心なときに限って役に立ちやしない!」 「諦めなよ、もう無理だって」 「なんだと諦める?もう君は諦めているのか?これだから今の日本は憂いを嘆かれるんだ、もう少しシャンとしたまえ!」 「じゃあどうするの?」 「それを今から考えるんだ」 亥吹路は頭を抱え、唸った。 ハルカは横からそれを眺めている。 ダメだ、1つもいいアイデアが浮かんでこない。 「とりあえず、私たちみたいに時が動いてないことを認識している人間を探せばいいんじゃない?」 「ふむ、そいつはいい、君もなかなか賢いな」 まあねと。 得意げに鼻を鳴らすハルカを見ていたら、なんだか亥吹路の頭が嫌に冷静になってきた。 こうやって同じ境遇の人間と話すことはいいことだ、安心する。 「それにしても、明日の大学とバイトはどうなるのだろう」 「亥吹路さん、大学生なの?」 「ああ、大学は学ぶことなぞないからどうでもいいんだが、バイトがな…」 「ふーん…」 「君は見たところ高校生だろう?バイトなどはしていないのか?」 「してないよ、面倒だし」 「そうなのか、女は金がかかるからみんなバイトをすると友人に聞いたのだがな」 「私の家、裕福だから」 「腹の立つ女だ」 そう言って2人は笑った、時が止まっても案外悲しいことだらけではなさそうだ。 冷たい闇を見つめながら、亥吹路は冷たい息を吐く、ハルカも少し寒そうにしている。 「コーヒーを買ってくる、君も飲むか?」 「うん」 亥吹路は再度コンビニの中に入り、温かい缶コーヒーを2つレジに持っていき金を払った。 店員のしれっとした顔にムカついたのでまたじとーっと睨んでやった。 「ほら、ブラックでいいだろう?」 「ありがとう」 ハルカに手渡し、地面に腰を下ろした。 コーヒーから立ち上る湯気を見つめながら、亥吹路は考えた。 この現象は何なのか?なぜあの人間たちは時が経たないことに気づきながらも違和感を覚えていないのか? 考えてもよくわからない、コーヒーを少し口に含み、そのまま飲んだ 「あつっ」 「気を付けたまえ」 舌を火傷して、乾かしているハルカはあまりこの事態に危機感を抱いていないのだろうか? まあいい、いつものように考えるさ。 亥吹路はこの止まった時についての考察を、頭の中で巡らせ続けた。
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