Kさんの傘

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Kさんの傘

 次は何にいたしましょうか?  もう一杯水割りで行かれますか?勿論カクテルも色々出来ますが……。水割りでよろしいですか?同じもので。承知しました。  昼間の雨も上がって良かったですね。どうも梅雨時は一日中降ったりやんだりで、鬱陶しいですよねえ。こういう季節は体調を崩される方も結構多いですから、そうなってしまいますと、バーに一杯やりに行こうなんて気にはなりませんものね、ええ。実際今日も御覧の通り、お客様お一人の貸し切り状態です、はは。  この店はどうやってお探しに?ウェブか何かですか?はあ、飲み足りないからふらふら裏通りを歩いてたら何となく目についた?なるほど……そういうのいいですよね。正しいバーの探し方だと思いますよ。やっぱり初めてのお客様のご来店は、バーテンダーにとってはとても嬉しいものです。どうも有難うございます。どうぞ、今後とも御贔屓に願います。  はい?この店ですか?ええ、おかげ様でここで始めてからもう4年目に入りました。何せ、こんな小さいバーで、御覧の通り閑古鳥が鳴いてしまうこともしょっちゅうなんですが、それでも細々ながらやってこられたのは、それなりに常連のお客様もついて下さったからだと思います。ええ、有難いことです。  ところが、この半年ほどの間に、その貴重な常連さんを立て続けに失ってしまうことがありましてね。先行きが不安に思っていたところに、久しぶりに初めてのお客様をお迎えすることが出来たので、今日はもう本当に嬉しいんです。お店から一杯サービスさせて頂きます。いえいえ、本当にいいんです。ほんの私の気持ちです。  常連さんを失った事情ですか?ああ、何だか余計なことを言っちゃいましたね、えへへ。そうですね……少々長くなりますが、他にお客様もいらっしゃいませんし、お話いたしましょうか。  さっきも言いましたように、この店はこちらで開店して4年になります。小さな店ですが、そのこじんまりしたところが妙に落ち着く、いわゆる自分だけの隠れ家みたいな店にしようと思ったんですが、幸い、そんな雰囲気を気に入ってくださる常連のお客様も、順調に増えてまいりました。  その常連さんの一人に、Kさんという方がいらっしゃいました。Kさんは、もう一線を退かれた初老のお客様で、ロマンスグレーの銀髪に上品な物腰の、私から見ても素敵に齢を重ねてこられた男性だなあという感じの方でした。実際、ご自身のお話や、ご近所の噂とかから判断すると、一定の資産をお持ちの方のようで、もともとある程度裕福なお家のお生まれのようでした。服装や持ち物なんか見てても、時計やらライターやら、さりげなく一級品を身に着けておられましたね。  特に印象的だったのは、雨の日にお見えになると、決まって同じ傘を差して来られるんですが、その傘がとても凝ったものでした。いぶし銀の光を放つ持ち手は、本物の銀製だそうで、そこには二重らせんのように絡みつく蛇の意匠が彫刻されています。骨の先端部分も、一本一本に小さいながらも、何というかチューリップのような装飾が施されて、傘を広げると、一時に花がぱっと咲いたように見えるという効果がありましたね。布の部分は、一応男物らしく黒色ですが、これも良く見ると細かい織込みが入っていて、光の加減によっては、矢羽根のような斜めに走る模様が浮き上がるようになっていました。  特注品とのことですが、Kさんはこの傘がとてもお気に入りで、かつご自慢だったようで、雨の降る日は必ずこの傘を差してお見えになっていました。他の常連さんの印象にも残ったようで、「Kさんの傘」はご本人が目の前にいようといまいと、しばしば話題になっていました。Kさんご自身もそれを喜んでおられたみたいでしたね。  ところがそんなある日、Kさんは突然、亡くなられてしまったんです。  今から半年ほど前の雨の夜、まさにご自慢の傘を差して交差点を渡っておられたのですが、そこに信号無視で突っ込んできた大型トラックに轢かれてしまいましてね。殆ど即死だったようです。原因は居眠り運転だったようで、運転手は勿論逮捕されました。  私も御贔屓にして頂いてたのでショックでしたが、ある意味有名人だったKさんの死は、常連のお客様たちにとっても悲しい出来事だったようでした。暫くは「じゃ、Kさんを偲んで献杯」という言葉がこの店でも良く聞かれていましたね。  ところが、Kさんが亡くなられて二週間ほど経ったころでしょうか。その日も雨の日だったんですが、初めてのお客様が一名お見えになっていました。あと、他に常連のお客様が二名、仮にAさんとBさんとしましょうか、このご両名がご来店されていました。 私は初めてのお客様のお相手もしながら、時々AさんやBさんのお話にも加わる、という状態だったんですが、ふと気づくとご両名の様子が少し変なんです。さっきまで楽し気に話しておられたのが、お二人とも急に黙り込んでしまって、心ここにあらずといった感じでした。  何か気になることでもおありなのかなあ、と思っていると、初めてのお客様がトイレに立たれました。すると、お客様がドアの向こうに消えた瞬間、Aさんが私に向って、小声ながら鋭い調子で「鳥飼ちゃん、あれ!あれ!」と言うんです。  あれってなんのことだろう?とAさん達を見ると、入り口のところにある傘立てを何度も指で指し示しているんです。そちらに目をやった瞬間、私は思わず息を飲みました。  そこにはKさんの傘が差してあったんです。  AさんもBさんも、そして初めてのお客様も折り畳み傘でしたので、傘立ての床の部分に倒れるように置かれていました。そんな中にあって、あの異彩を放つKさんの特徴的な傘が、そこに堂々と屹立していたのです。  私とAさんとBさんの三人は思わず顔を見合わせてしまいました。三人が同じもの、本来そこに在る筈の無いものを見ているのは明らかでした。折り畳み傘の本数は、お客様の数に一致しています。私が店に入った時点では、まだ降り出していなかったので、私の傘もカウンターの中でした。明らかにもう一人分の傘、それもKさん以外に持つ筈のないものが、そこに存在しているのです。 「あれってさ……」  Bさんが口を開いた時、トイレに行かれていたお客様がお戻りになりましたので、あわてて三人とも黙り込みました。そのまま、何気ない風を装いながら会話を続けましたが、どうしても傘立ての方に目が行ってしまいます。AさんもBさんも気が気じゃないという風情で、殆ど内容の無い受け答えが続くばかりです。  そうこうしているうちに、初めてのお客様が口にされた話題が、少々面白いものだったので、これ幸いと私達三人もその話題に乗っかる形になりました。何やら変な雰囲気が支配しそうになっていたので、ある意味助かったわけです。  そして、ひとしきり盛り上がった後、何気なく傘立てを見やると、そこにはもうKさんの傘はありませんでした。  結局、それから似たようなことが何回かあって、朧げながらパターンのようなものが見えてきたのですが、要は雨の日になると、毎回ではないのですが、偶にKさんの傘が傘立てに差されていることがある。誰もそれが現れる瞬間は見たことはないのですが、ふと気づくといつの間にかそこにある。そして暫くすると、またいつの間にか消えている。どうもあの傘はそういう現れ方をするらしいということが、分かってきました。  このことから、私と常連さんの間では、Kさんはあの世に行ってからも、この店が忘れられなくて時々ふらっとやってくるんだろうなあという話になりました。そして誰もそのことを気味悪がったりしませんでした。確かに不思議な話ですが、生前のKさんの気さくなお人柄は、多くの常連さんから慕われていましたし、私にとっても、そこまでこの店を気に入って頂けたのであれば、バーテンダーとして冥利につきますからね。騒がしくするでもなく、誰かを脅かすでもなく、初めてのお客様にはそもそも気にもなりませんし、静かに現れて、また静かに去っていく。ある意味理想的なお客様とさえ言えるでしょうね。こちらの方も誰も騒ぎ立てることもなく、せいぜい気が付いた常連さんが「あ、Kさん来てるね」と口にされると、他の常連さんが傘立てをちらりと見やって、またもとの会話に戻っていく。初めてのお客様がいらっしゃる時には、見えても敢えて話題にしない。そのうちいつの間にか傘は消えている。そんな感じでした。  そんなある晩のこと、常連さんのお一人、Sさんがお見えになって、飲んでおられました。その日は昼間からずっと晴れていて、夜になっても雲一つ無い、月の綺麗な晩でした。当然Kさんの傘も無いわけですが、何故かKさんの話題になりました。  ところが他にお客様がいなかったせいか、いきなりSさんの本音トークが始まったのです。 「ぶっちゃけ、今だから言うけどさあ。あの傘趣味悪いよね。なに、あの蛇の彫刻」  いきなりSさんからそういう言葉を聞いた私は「はあ……」としか返せませんでした。 「たまに見かけるとウンザリしてたんだよ。今日は無いからいいけどさ。俺、もともとあの人の成金趣味が本当は鼻について嫌だったんだ」  Sさんがそんな風にKさんの事を思っていらしたとは、私には驚きでした。Kさんがご存命の時は、皆さん本当に仲良く楽しく飲んでおられましたので。 「要は親が金持ちだったから贅沢出来ただけのことだよね。あの人の親は商売に成功して一代で財産を築いたんだから、それなりに立派かもしれんけど、それにしても所詮成金なわけじゃん?成金の息子も成金に過ぎないってことだよ」  他にお客様もいなかったせいかもしれませんが、酒量も毒舌も絶好調という感じで飛ばしておられました。私も、これはいくら何でもと思ったので、あまり死んだ方の悪口は言われない方が……と申し上げたのですが、「いいじゃん、今日は雨の日じゃないから傘も無いし、Kさんもいないよ」とか言って聞く耳持たずの状態でしたね。そうやってひとしきり飲んでから、少々覚束ない足取りでお帰りになりました。  ところが、Sさんはその帰りに亡くなられてしまいました。  酔っぱらったままフラフラ歩いているうちに、車道で大の字になって寝てしまわれたんです。そこを通りがかった車に轢かれてしまったという事故でしたが……正直、交通事故と言うには運転していた方にも少々気の毒な状況でしたが、救急搬送された病院でSさんは亡くなられました。  そして、その事故現場というのが、偶々Kさんが雨の日に交通事故に遭われたのと同じ交差点だったんです……。  あの日最後にSさんと会話した人間はこの私です。そのせいでしょうか、あの時交わした言葉の一つ一つが、鮮明に思い出されるんです。 「いいじゃん、今日は雨の日じゃないから傘も無いし、Kさんもいないよ」  確かにSさんはそう仰いました。  でも、本当にそうでしょうか?  “Kさんが雨の日にお見えになる時は、必ず自慢の傘をお持ちになる”、はっきり言えるのはそれだけです。それって、要は“普通の”お客様でも良くある話ですよね。そして普通のお客様と同じだと考えるなら、当然、“晴れの日にはお見えにならない”、とはならないわけです。  あの日……つまりSさんがKさんの悪口を並べてお帰りになった日も、Kさんは此処にいらしてたんではないか……どうもそんな気がしてならないんです。  ああ、お気づきですか?ええ、先ほどからまた降り出していたんですよ。しとしと降る雨は、雨音が静かなんで、気づきにくいですよね。  はい、お察しの通り、もうお見えになってます。  お客様の丁度真後ろに傘立てがございます。ちょっと後ろを振り返って頂ければ、Kさんご自慢の傘が見られますよ……。 [了]
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