0人が本棚に入れています
本棚に追加
美の女神
ファンデーション、口紅、頬紅、マニキュア、その他の化粧品全部が私を彩る道具に過ぎない。
神が天使が妖精が、祝福を捧げ自分を丁寧に愛撫しているようだ。
私は『美』そのものだ、誰から見てもそれは変わりない。
いわば罪なのだ、美というものは。
手に入れたくとも手に入らない人間はこの世に大勢いる。
その者たちは妬み、恨み、そして崇める。
自分にはそれらの感情を全て受け入れ、哀れにもこの世に産み落とされた者たちを包み込む義務がある。
義務とは罪、果たすべき業。
カフカの『変身』の怪物のように、私も美しい四肢を艶やかに動かし、周りの人間を悩ませよう。
怪物に魅入ってしまうのは仕方のないことだから。
貢がれた供物に身を纏い、私は洞窟のように暗い部屋から外に出た。
空は青天、目の前に手をかざし、目を細めて太陽を見る。
熱源からは紫外線と熱気がはみ出し、私を攻撃する。
しかし紫外線クリームは肌に塗っている、女神に抜かりなどない。
私の前では太陽だって嫉妬する、だが私に汗をかかせることだって出来やしない。
美しい者は高貴であり、卑しい乞食や愚者が食べ物を前によだれを垂らすような真似はしないのだ。
己の肌を触ってみる、阻害するものなどまるでない。
サラサラと滞りなく撫でることが出来た。
体毛の1本もその肌には生えていない。
あんな下品なもの、節操なく生えているものではないのだ。
生えるべき場所に適正に生えていればよいのである。
さあ今日も出かけよう、美しき私が、愚かなる者には鉄槌を、美なるものには喜びを与えるために。
女神からの施しを受けられる人間は、生まれたときから決まっているのだ。
ナイアガラの滝が擬人化すれば、今の自分になるだろう。
そう呟いた千尋は、アパートから30分ほど歩いた場所にある公園のベンチに座っていた。
どこの誰かとも分からない子供と一緒に走りまわっている楓を眺めながらタオルで汗を拭き、自販機で買ったジュースを飲む。
「楽しいね!体動かすの」
楓は息を切れさせて、千尋の隣に座った。
さすがの彼女もじんわりと汗をかいている。
先ほどまで遊んでいた子供たちは別の遊び場に移るようで、「お姉ちゃんバイバイ!」と言って手を振っている。
楓も手を振り返し、元気いっぱいの子供たちは走ってこの場からいなくなった。
「ほら、君のだ」
千尋は楓に500ミリリットルのペットボトルを差し出した。
容器の中は橙色の液体がみっちり入っている。
外面に浮かんだ水滴と冷えたプラスチックに触れた楓は「ありがとう」と言ってそれを受け取る。
「冷たい…これはなんの飲み物なの?」
「オレンジジュースだよ、蜜柑は知ってるかい?」
「うん」
「蜜柑のジュースだ、美味しいよ」
「ありがとう」
楓はキャップをスムーズに外して、口をつけた。
ごくごくと小さく喉を鳴らしながらそれを飲む。
4分の1ほど飲んだところでキャップを締め、ポケットの中のハンカチで額の汗を拭った。
「君は…」
「うん?何?」
「君はどうにも知識に偏りがあるみたいだね」
「偏り?」
「難しい漢字やその意味を知っていたり、そうだ君釣りの仕方も知っていると言っていたね」
「うん」
「僕は釣りのやりかたなんて知らない、釣り竿と言われても棒に紐をくっつけてその先端にミミズを巻き付けるいわばレトロなイメージしか浮かんでこない」
「そうなの?」
「ああ、現代のリールがついている釣り竿が想像しにくいんだ」
「釣りやってみたいね」
「僕は別にやってみたくはないが…とりあえず今後は常識的な知識も君に教えていこうと思う、コーヒーやオレンジジュースを知らないとなるとさすがに不審がられるからね」
「わかったよ、いっぱい教えてね!」
「うん、ところで子供は知ってるかい?」
「そのくらい知ってるよ、さっきの子たちでしょ?」
「そうだ」
「子供ってコウノトリが運んでくるんだよね?」
「…そうだ」
「うそつき」
「君なぁ」
クスクスと笑う彼女は立ち上がり、ブランコに乗った。
振り子のように動く彼女の体を見ていると、お腹がグウと鳴った、もう午後6時だ。
「そろそろ帰ろうか」
「はーい」
楓はブランコから勢いよくジャンプして、地面によろけながらも着地した。
2人並んで歩き出した、あの夜の出来事から楓は千尋にむやみやたらに触らなくなっている。
千尋は少し罪悪感を感じたが、仕方のないことだと自分の中で折り合いをつける。
2人が大学に足を踏み入れてから10日が経っていた。
その間は2人で大学に行き、楓の希望でほぼ毎日同好会に足を踏み入れた。
楓は楽しそうに彼らと触れ合い、またやや陰惨気味だった部室もにぎやかになる。
楓はすぐに部員と打ち解け、なんと福崎までもが彼女に好意的に接しているのだ。
ちなみに同好会の部室に行かなかった日は、千尋のアルバイトがある日だった。
「ついて行きたい」とせがむ楓を、なんとか言いくるめて家に残しておくなどひと悶着あったがそれはまた別の話である。
「千尋くん、明日はどこに行こうか?」
「もうこの辺りはあらかた案内したよ、それにこうも歩き回っていては汗が止まらなくて大変なんだ」
楓は新しく買ったスカートをなびかせながら「いじわる」と頬を膨らませた。
彼女の生活用品や衣類はすでに買っている、お値段が少し張ったがこれも仕方のないことだろう。
楓との生活にも慣れてきて、初期のころのようなよそよそしい感じは大分なくなって2人で住むということが当たり前の日常のようになってきた。
ただ1つ不満なのが我がアパートの部屋が狭いということだ。
それに拍車をかけるように『本』という愛おしい障害物がさらに部屋を圧迫している。
当然寝るときは折り畳みの丸机を片付けて、2組の布団を敷くことになるのだが、これがまた近いのだ。
布団の端と端がくっついているのでまるで夫婦のようだ、これだけは何日一緒に過ごそうがモヤモヤとした気持ちは変わらないだろう。
それ以外はまあ…不満点はとくにはないと思う。
強いて言えば金銭面くらいだが、千尋も楓も小食なので節約すればなんとかはなる。
「千尋くん、帰ったら何をしようか?」
「いつも通り本を読むよ」
「いいね、私も読みかけの本があるから全部読んじゃおうかな」
「いいことだよ、本を読むということは人の心を豊かにさせるからね、それより今日は何が食べたい?」
「うーん、今日は私が作ってもいいかな?」
「君がか?」
「料理の本は読んだし、大丈夫だと思うの」
この前翁の古本屋に行ったときに、楓が確か料理のレシピ本をねだってたな、ということを思い出した。
「まあいいけど、何作る気だい?」
「初めてだし、目玉焼きでも作ろうかなって」
「料理の本に目玉焼きの作り方が載ってたのかい?」
「うん、そうだよ」
親切なレシピ本もあるもんだと千尋は思いながら、その申し出を了承した。
「分かった、なら卵を買わなくてはね、今から買いにいこう」
「うん!」
千尋と楓は夏の暑さと風の涼しさを感じながら、いつものアーケード街に向かった。
楓の焦げた目玉焼きを食べた次の日の午後、千尋と楓は大学のキャンパスの外を歩いていた。
相も変わらず汗だくな自分の体を千尋はタオルで拭いている、周りにはベンチに座って話している女性たちや、スポーツ用のシャツを着てウロチョロしている運動系サークルの男どもや、よくわからない言語で笑っているアジア系の者たちなど今日もにぎやかである。
千尋は楓の『大学の外も探検してみたい』との要望から、講義が終わって大学を案内しているのだ。
緑豊かな芝の広場や、役所のように堅苦しい図書館、おしゃれな学生が足を運ぶカフェやテラス、昼になると戦場と化す食堂などなどあらかたの場所へ案内した。
楓は満足そうに「ありがとう」と言う、千尋は「お安い御用だよ」と言った後、自分たちに向かって歩いてくる人物に気が付いた。
「やあお2人さん、元気かい?」
粗悪なお面のような笑顔で話しかけてきた山口はアロハシャツを着ていた。
なんだかよく分からないグネグネした模様が薄い青の生地に黄色で塗りたくられているようだ。
千尋はファッションには自信がないが、これがおしゃれでないことくらいは分かる。
当の本人はレディ・ガガのように華麗に着こなせていると思っているらしいが。
「山口か、どうしたんだ1人で」
「偶然君たちを見かけてね、どこかで話さないか?」
この男が言うと『偶然』も本当か疑いたくなる。
山口は片手にコーヒーを持ちながら千尋と楓の顔を眺める。
そして心なしか楓を見るときだけ1センチほど鼻の下が伸びているように見えた。
「いつも会室で話してるだろう、改めて何を話すんだ?」
「石動くんは冷たいなぁ、こうやって友人が誘ってるんだから素直に誘いに乗ってもいいんじゃないか?」
「私は話したいな、山口くんと」
「嬉しいこと言ってくれるな楓さんは」そう言って顔の筋肉を弛緩させた山口は手に持ったコーヒーのカップを近くのゴミ箱に捨てた。
楓がそう言うなら仕方がない、そういった心境で千尋も山口の誘いに合意して一緒にカフェに行くことになった。
山口いわく「湿っぽい会室も素敵だけど、たまには静かでゆったりとしたカフェでお話しするってのも悪くないだろう」という話だ。
千尋は普段カフェなどには行かないが、コーヒーくらいなら奢るというからノコノコついていく。
5分ほど歩き、大学の中にあるカフェに到着した。
店の中は比較的にぎやかで髪を染めたり、耳に穴を開けてピアスを挿入している男女が楽しそうに話している。
楓と100歩譲って山口はこの場にマッチしていると言えるが、千尋はそうではない。
しかもこのカフェに来るのは初めてである。
挙動不審気味にキョロキョロしながら、周りを見渡した。
奢りという言葉に釣られてホイホイついて行ったことを少し後悔している。
3人はカウンターでコーヒーを頼んで受け取り、適当な席に座った。
千尋は涼しい室内で自分の汗を拭いている。
店内のいくらかの客がこの席を瞥見した、目線の先は楓だ。
長身のモデルのような女性がこの狭い空間に現れたのだ。
誰だって興味が湧くだろう。
「楓さんは人気者だな」
「そうみたい」
楓は特段興味なさそうに微笑んだ。
山口は不思議な顔をした、ありもしない地雷を踏んだと思ったのか話題を変える。
「しかし君は本当に汗かきだね」
「体質だよ、まったく疎ましい限りだ」
「代謝がいいんだよ、千尋くんは」
「あんまり代謝がよすぎるのも考えものだけどね」
「まったくだ」
汗を拭き終わった千尋はコーヒーをひと口飲んだ。
楓も美味しそうに味わっている。
「そういえば楓さんはどこに住んでるの?」
「この大学の近くだよ、歩いて20分もかからないんだ」
一瞬の躊躇いもなく楓は嘘をついた。
あながち間違いではない嘘だが、彼女は一切の淀みなく言い切った。
千尋はこういった質問を同好会の連中に投げかけられることは分かっていたので、事前に彼女と打ち合わせをしていたのだ。
しかし嘘を1ミリも顔に出さずに言えるのは並な精神ではないと思う。
いや、昔祖父に聞いた話では女性は嘘をさも当たり前のように吐くとのことだったのでもしかしたら楓に限った話ではないのかもしれない。
もっとも男の千尋には永遠に真実はわからないだろう。
「へえ!この近くなんだ!」
「君、女性の部屋に遊びに行くなんて言わないよな?」
「さすがに僕だってそこまで品のない真似はしないさ」
「ならいいんだけどね」
一応のフォローを入れた千尋は自分のコーヒーに砂糖を入れた。
楓はそれを不思議そうに見た後に、同じように砂糖を入れた。
それを飲んで目を輝かせる、よほど彼女の舌は気にいったのだろう。
「楓さんは甘党かい?」
楓の表情の変化に気づいた山口は嬉しそうに聞いた。
楓は「うん」と笑顔で答えた、山口の顔はさらにだらしなくなる。
「君のような女性を伴侶にできる男は幸せだろうなぁ」
「ふふ、お世辞がうまいんだね」
「お世辞なんかじゃないさ」
山口はニコニコとしながら自分のコーヒーを飲む。
そしてチラリと千尋を見て、カップをかざして見せつける。
意味が分からない、この男は何がしたいのか。
千尋はなんとなく店内を見渡してみた、比率としては男より女のほうが多い。
それどころか男だけで1つのテーブル席に座っているというケースは今この瞬間では皆無である。
全員女か、女に混じって男がいるという状態である。
3人女、男1人。
2人女、2人男。
もしくは1人女、1人男のカップルである。
1人女、2人男というケースは我々だけである。
「どうした石動くん?」
「いや、この店は女性が多いなと思ってね」
「まあカフェだからね」
「カフェは女の子が来る場所なの?」
「そんなことはないけど、カフェで男が1人で甘ったるいパンケーキをむしゃむしゃ食べてたら変だろう」
「なんで変なの?」
首をかしげる楓に山口は言葉に詰まっている。
千尋は仕方がないので助け船を出した。
「君は優しいからこういう考えはしないかもしれないが、ある特定の人間は世間の風潮やらしさを大事にするんだ」
「どういうこと?」
「男は男らしくとか、女は女らしくとか、たとえば君が今履いてるスカート、男が履くのは彼らにとってはダメなんだ」
「なんでなの?」
「さあな知らないけどダメなんだ」
「おかしいね、それ」
「僕もそう思うが『偏見』のある人間はそうは思わない」
「その言葉なら知ってる、じゃあ山口くんは偏見のある人間なの?」
楓の矛の先が山口に向いた。
仰天したように目を開いている、そして千尋を睨んだ。
千尋はその視線には応えず、コーヒーにミルクを入れた。
助け船を出したのだが、その船は泥船だった。
すまないと謝りたいが今謝ると話がこじれそうなので、黙って変色したコーヒーをかき混ぜる。
千尋の薄情さに怒ったのか呆れたのかは分からないが、山口はもう千尋には頼らなかった。
「違うんだ楓さん、僕は別に偏見家でも差別主義者でもないよ、ただ一般論を言っただけなんだ」
「一般論なのになんで偏見があるの?」
「そ、そんなの僕だって知りたいよ!でもね、やっぱりそういう考え方をする人は世の中にたくさんいるんだ、だからさっき僕はあんなことを言ったんだ、でも僕は断じて差別なんてしないさ、男がブラジャーつけてようが女がコンド…女性が…その…相撲を取ったって僕は何も思わないよ、変なんて1ミリも思わない、君に誤解されたままだと辛いからはっきり言うけど僕は偏見なんて持ってないんだ」
「そうなんだ」と笑顔で言う楓に対して山口が不安になったのは言うまでもない。
山口の首に流れた一筋の汗を千尋は見逃さなかった。
しかしまあよくもこうまで舌が回るものだと千尋は感心した、自分は口下手なほうだから羨ましいとも思う。
だが舌が回りすぎると、その人間の本性が見えてくることも分かった。
卑猥な日常は思考と精神を凌辱する。
いつも部長や福崎と話している成果が出たのだろう、自分も気をつけようと千尋は思った。
「か、楓さん、コーヒーがなくなっているね、もう1杯飲むかい?」
「ううん、大丈夫!ありがとう」
「…そうか」
少しシュンとなった山口が不憫だったので千尋はお代わりを頼んでみた。
山口はいつものニコニコ顔ではなく、憮然な態度で立ち上がり、カウンターに向かった。
こういうときにも人の本性は出るなと考えつつ残りのコーヒーを飲みほした。
「千尋くん、奢ってもらってるのに悪いよ」
「君は見た目だけでなく、心まで美しいんだね、でもその優しさが人を傷つけることになることもあるんだ」
「そうなの?」
「うん、これが人付き合いの難しいところでね、相手の感情の機微を見抜かなくてはならない」
「難しそう…」
「難しいとも、これが嫌で僕は反社交的人間になったんだ、何が言いたいかというと君はさっきの山口の提案を受け入れるべきだったんだよ、彼が落ち込んでたのを見ただろう?」
「うん、少し変だった」
「彼は君に奢りたかったんだ、男だからね、女の子のご機嫌は取りたいものさ」
「なんでそんなことするの?私別に不機嫌じゃなかったのに」
「君が不機嫌だろうが機嫌がよかろうが彼は君に奢るという行為をしたかった、男だからね」
「あんまり分からないよ、また偏見の話?」
「少し違うが似たようなものだね、男女の問題ってのはデリケートで、そしてそれが当たり前のように我々の脳の中にインプットされてるんだ、白い服についたカレーの染みのようにしつこくね」
「カレーは知ってるよ」
えへへと笑う彼女に千尋は思わず、「また賢くなったね」と返してしまった。
そうこう話しているうちに山口が1個のコーヒーカップを持って席に戻ってきた。
「ほらよ」と言わんばかりの勢いで千尋の前に置く、楓は山口をじっと見て口を開いた。
「ねえ山口さん、今こんなこと言うのなんだけど、やっぱりコーヒー飲みたくなっちゃた、もう1つお願いしてもいいかな?」
山口は『待ってました』という表情で、「もちろんだよ!すぐ持ってくるからね」と足早に再度注文しにいった。
「これでいいかな?」
そう言って笑う楓を千尋は窘めた。
「『これでいいかな?』なんて言うんじゃない、山口に聞こえたらどうするんだ、さっきも言った通り人間関係というのは難しいんだ、こっちにその気がなくてもあっちに不快な思いをさせればそれはこちら側の責任になるんだよ」
「ごめんなさい…」
「いや、君はまだこの世界の暮らしになれてないから仕方ないが、人の好意を杜撰に扱うと必ずしっぺ返しを食らうことになる、このことは家でしっかり話し合おう」
「うん」
少し落ち込んだ彼女の肩に千尋は手を置いた。
楓は嬉しそうにそれを見て笑顔になる。
「おまたせ」
山口は2つのコーヒーカップを持って席に座った。
そのうちの1つを楓に渡す、「ありがとう」と言ってそれを受け取る。
山口の機嫌は直ったようでいつもの笑顔で楓を見つめている。
コーヒーには口をつけず、両肘をテーブルについて掌に顎を乗せている姿はまるで乙女のようだ。
楓は自分のコーヒーに砂糖をふんだんにいれている。
千尋は複雑な気持ちでそれを眺めた。
「このカフェってさ、カップルが多いよね」
「そうかい?」
「うん、やはり僕らは華の大学生だからね、恋人くらいは作らなきゃ」
「そうかもね」
「君と楓さんは仲がいいみたいだけど付き合ったりする気はないのかい?」
「ないね」
「おい、そういうことは嘘でも本人の前で言うもんじゃない」
「じゃあ最初から聞くな」と千尋は言いたかったが、なんとなく罪悪感も沸いたので黙って首をすくめた。
さっきの仕返しかそうかは分からないが、山口は満足そうに口元を緩ませている、腹の立つ男だ。
楓はその話に耳を傾けながらコーヒーを飲んだ、美味しいらしく体をやや左右に振りながら笑顔になっている。
「石動くん、女神って知ってるかい?」
唐突でなんの脈絡もない質問に千尋は戸惑った。
この男の言う『女神』の持つ意味と意図が掴めなかったが、話題作りのためだろうと深くは考えなかった。
「知ってるよ、女の神だ、月の女神『セレネ』とか愛と美の女神『アフロディーテ』とかだろう?」
「うん確かにそれも女神だ、でも僕が今言ってるのはこの『大学』の『女神』だよ」
「え?この大学に女神がいるの?」
目をキラキラさせる楓に山口は笑顔で頷いた。
「もちろんさ」
「初耳だね、こんな大学に女神がいるなんて、名前は女神『サセン』かい?それとも女神『マドギワ』とか、女神『ヤッカイバライ』って可能性もあるね」
千尋の高尚なジョークは山口の耳には合わなかったらしく、軽く流された。
千尋は少しヘソを曲げながら山口の話を聞く。
「その女神ってのがまた美人でね、それはもう多くの殿方に詰め寄られてるって話さ」
楓が少し悩ましい顔をした後、「あっ例えか」と言ったので千尋は思わず噴き出した。
楓はかわいらしい目で千尋を睨みつけている。
それに構わず山口は話を続ける。
「ここからが大切なんだがその麗しき女神は1度も男になびいたことがないんだよ、どんなにイケメンのスポーツマンだろうが、金持ちの息子だろうに口説かれてもただの1度もだ」
「なんでそんなことがわかるの?」
楓が純粋な疑問を飛ばした。
山口はそれをキャッチする。
「僕の情報網を舐めちゃいけないよ、それにその証拠はSNSにもある、彼女や彼女の友人のSNSに頻繁に彼女の姿が写ってるんだけど投稿時間を見ると男と遊んでる暇なんてないんだ」
楓は意味が分からないという顔をする、たぶん『SNS』の意味が分からないのだろう。
千尋は小声で「後で教えてあげるよ」と呟き、山口を見た。
『どうだ!』といわんばかりの得意気な表情をしている。
「深夜は?」
「なに?」
「深夜だよ、2時とか3時にもその女神とやらはお得意のSNSに男はいないよアピールをしているのか?」
「それは…」と言って山口がゴモゴモと口の中で言葉を転がしている。
馬鹿馬鹿しい。
「それ見ろ、信憑性なんてあったもんじゃない、夜に男と遊んでるかもしれないじゃないか」
「し、しかし日中は毎日友人と遊んでると投稿されているんだ」
「だからって男になびいていないとは限らないじゃないか」
「ぐう」とでも言いそうな表情になった山口に千尋は得意げな顔をしてみせた。
楓は残ったコーヒーを飲んでいる、コーヒーの表面には何やら粉塵のようなものがたくさん浮いている。
砂糖だ、どれだけ入れたんだ?
そんなことを千尋が考えていると、山口は似合わないしゃっちょこばった顔で千尋を睨んでいる。
「な、なんだい?怒ったのか?」
「怒るだと?いいや、逆に覚悟が決まったんだ」
「覚悟?」
神妙な面持ちの山口はニヤリと笑った後、テーブルを人指し指で2回、強く叩いてこう言った。
「僕が落とす」
「…何だって?」
山口は腕を組んで千尋を挑発的な目で見つめている。
その言葉の意味を聞けということなのだろう。
「落とすってのはどういうことだい?」
「そのままさ、僕が女神を口説き落とす」
「君が?美人で難航不落と言われている女神を彼女にするってことかい?」
「彼女にするかは分からない、ゴールは口説いて彼女の心が僕に向かうことだからね」
「素敵!」
今まで黙って聞いていた楓が口を開いた。
山口は頷き、「そうだろう」と相好を崩した。
千尋は一応最後まで話を聞こうと思い、黙って山口を見つめた。
嬉々として人から産み落とされた女神の話を続ける。
「で肝心の顔なんだがね、これが写真だ、SNSに上がってた」
山口はポケットからスマホを出して、何秒かいじくった後画面を上向きにしてテーブルの上に置いた。
千尋と楓はそれを覗き込む、画面には明るすぎる光に照らされていた3人の女性が写っている。
このけばけばしい写真が、プリクラかスマホで写真加工されたものか千尋には分からない。
だがその嘘っぱちの写真の中で、中央に写っていた女性は頭1つ抜けて美しかった。
この女が女神だ、千尋はそう思った。
「綺麗だね、この人」
「名前は『藤島ほたる』さんだ、確かに美人だろ?だけど…」
山口はわざとらしい笑顔をして言った。
「楓さんも負けてないよ、君は綺麗だ」
「お上手だね」
気色が悪い、よくそんなセリフを軽々しく言えるものだ。
2人は恋人同士のようにちんちんかもかも「うふふふ」と笑う。
そんな光景をしり目に千尋はコーヒーを飲みつつ、再度写真を見た。
『美人に碌なやつはいない』、この千尋の実体験に基づく持論である。
「しかしあれだね、こんなにいじくられては本当に美人かどうか判断がつかないな、はっきり言って別人だろうこれ」
千尋が正直な感想を言うと、山口は『やれやれ』といったように、かぶりを振った。
癪にさわる男である。
「そんなことを言う坊やな石動くんにはこの写真も見せてあげよう」
何が『坊や』だ、なぜこの男に自分が馬鹿にされなければならないのか。
まったく納得がいかない、そもそも『坊や』なのは君ではないのか?
嘘に塗れた偽りのみてくれをピースサインで彩った加工写真を見て、『この写真を見て!かわいいだろう!』なんて呆けた顔で言っているんだ。
何と情けない!自分で言ってて恥ずかしくないのかこの男は。
抗弁したいことは山ほどあるが、千尋は『大人』な人間なのでそれを胸の内にしまう。
不機嫌な眼つきで次の写真を見た、今度は女神1人だけのようだ。
黒いTシャツを着て、多くの食材が乗せられているパスタを食べている。
しかし美味しそうである、なんという名前のパスタなのだろうか。
加工の程度は先ほどよりは優しいようだが、それでも全体的に白みがかっている。
「かわいい!」
「だろう?」
「なんで普通に写真を上げないんだ?女性には撮った写真をなにかしら加工しなければいけないルールでもあるのか?」
「わかってないな石動くんは」
また山口はかぶりを振った。
眉間にクレバスのような皺が出来るのが自分で分かる。
どれだけ人の神経を逆なですれば気が済むんだこの男は。
そう考えて千尋は近頃の自分が以前よりイライラしやすくなったのではないかと考えた。
しかしこうも温度計の赤い液体が上に上がると短気になるのも仕方のないことだろう。
「女性というのはいつでも美しくありたいものなのさ」
「美しくありたいなら写真加工技術を学ぶより、豆乳でも飲んだほうがいいんじゃないのか」
「女の子は手間を嫌うんだよ」
「わけが分からない」
「女性は化粧やらなんやらで男より時間が貴重なんだよ」
「そういうものなのかい?」
そういえば楓に化粧道具を買うのを忘れていた、女性はメイクをするものだということを千尋はすっかりと忘れていた。
盲点だった、千尋はすっぴんの楓の顔を見た。
不思議そうに首を少しだけ傾げて、微笑んだ。
千尋は美人には碌なやつはいないと思っているが、彼女だけは例外だろうと確信した。
そして真に美しい女性は化粧も加工技術も無用の長物なのである。
とは言っても彼女も女性だ、今度一緒に化粧に必要なものを買いに行こう。
「そういえば山口くんはその藤島さんと話したことはあるの?」
「いや、それがないんだよね」
「なら彼女を惚れさせるのは時間がかかりそうだね、まあ頑張りたまえ」
「冷たいな、手伝ってくれてもいいじゃないか」
「手伝うってどうやってだい?」
「例えば君が彼女と話すだろう?そして会話が盛り上がってるところに僕がさりげなくその輪に入るんだ」
「馬鹿馬鹿しい、それなら君が自分で彼女と話して、会話を盛り上げればいいだろう、そっちのほうが手間が少ない」
「君だって美人と話したいだろう?」
舐められたものだなと千尋は思った。
自分が女性に馴れていないのは分かっているが、別に美人と話したいなどとは思わない。
千尋は美人を信用しないし、それに美人だからなんだというのだ。
美人だから美人ではない女よりも立場が上だというのか?
山口のような精神が未熟な男たちはそう考えるかもしれないが、千尋には通じない。
千尋はそこらのバカな男とは違う、女性に差別などしないのだ。
「言ってるがいいさ、僕はその女神とやらに興味はない、君と一緒で胡散臭いしな」
山口は千尋を睨みつけた、本気で怒ってはいないようだがその瞳には少しだけ怒りが籠っていた。
「今日はもう帰るよ、コーヒーありがとう、君の恋路は応援してるよ」そう言って千尋は立ち上がった。
コーヒーを飲み終わった楓に目配せした、しかし楓は席を立つ様子がない。
千尋が佇立していると、楓はいつもの笑顔を崩さずに山口を見つめながら言った。
「私やりたいな、山口くんの恋のお手伝いを」
山口と千尋は同時に言葉を失った。
山口は餅を喉に詰まらせた老人のように顎を動かし、口を2秒ごとにパクパクさせた。
先に声を出すことが出来た千尋は、とにかく止めなければと思った。
「ダメだ、君がそんなことをやる必要はない」
楓は目線を下げた。
いつのまにか細くてスベスベした腕を握っていた千尋は、すぐにそれを離した。
申し訳なさと恥ずかしさで顔を逸らしそうになったが、なんとか耐え抜いた。
「ねえおねがい千尋くん、山口くんのお手伝いしたいんだよ」
山口は状況を飲み込み、お日様のような顔になった。
「ありがとう!」とお礼を言っている。
「君がそこまでする必要はない、くだらない男のくだらないお遊戯だ、本気でもなんでもない恋なんだ、付き合う必要などない」
「僕は本気だ!」
「ねえ千尋くん、お願い、やらせてよ」
すがるような楓の目顔を見て千尋の心は揺れた。
彼女はなぜそこまでするのだ、単なる好奇心かそれとも本当に善意からなのか。
あるいは両方か。
楓は一切の汚染のない瞳で懇願している。
千尋はそれでも止めようと思ったが、本人がこう言っている以上はその意見を無下にすることは出来ない。
人は人の意思を尊重しなければならないのだ、仕方がないので千尋は彼女の話だけは聞いてみることにした。
「分かった…とりあえず話を進めよう」
「千尋くんありがとう!」と2重の声が聞こえた。
1つはかわいらしい愛玩動物のような声。
そしてもう1つは低い音を無理やりヘリウムガスで高温にしたような汚い声だった。
山口はキャピキャピとした仕草で千尋の瞳を覗き込んでいた。
気色が悪い!それにどさくさに紛れて名前呼びをしてきたことにも嫌悪感を覚えた。
「それで?どうするんだい?」
「とりあえず私から話しかけてみるよ、異性より同性のほうが仲良くなれるんじゃないかな?」
「それもそうだ!ナイスアイデアだよ楓さん」
えへへと嬉しそうに笑う楓に千尋は少し呆れた。
背中を背もたれいっぱいに体重を預け、ため息をつく。
「でもそんな簡単に会話に混ざれるのかい?女性は警戒心が強いと聞くよ」
「それは大丈夫だよ」
山口は自信たっぷりの態度だ。
なぜそんな態度を取る事が出来るのか分からなかったが、山口が口を開きかけているのに気づきその疑問を喉の奥に引っ込めた。
今から答えが聞けるようだ。
「いいかい?女神のグループには美人しかいないんだ」
「うん」
「逆に言えば…個性的な顔の女性は彼女たちのグループには入れない。」
ますます気に入らないな。
千尋はその女神とやらに不快感を覚えた。
今自分の心の中に渦巻いている負の感情を吐露したかったが、とりあえず山口の話を最後まで聞こうと思った。
「哀しい話だね」
「まあそれも世の理ってやつさ、話を続けるよ」
「ああ」
「グループには美人ぞろいだが、正直言えばまあまあの美人ってやつが大半なんだ」
「まあまあって?」
「そうだね、タイトルに『美人ほにゃららとほにゃららプレイ』がうたい文句のAぶ…」
そこまで言いかけて山口はハッと楓のほうを向いて口を閉じた。
相当焦っているようでまた一筋の汗が首に流れている。
卑猥な日常は思考と精神を凌辱する。
そろそろ末期だなと千尋は思った。
楓はなんの話か分からないようで、目線の先に設定された山口の視線を受け止めて微笑んでいる。
コホンと咳払いし山口は話を続ける。
「と、とにかく!そういったものに出ている女性のような顔である」
「よくわからないな」
「勉強不足だな君は、とにかくあのうたい文句の作品で本当の美人に巡り合える可能性は稀なんだ、中学の席替えで風呂に入ってないやつの隣の席になる可能性くらい低い」
「案外高いね」
「論点がずれてしまった、とにかく言っては悪いがその程度の美人が多いということだよ」
「それで?」
「だから楓さんを見てみなよ」
千尋は楓のほうを向いた。
いつもの笑顔で迎えてくれる、数秒見つめていると小さく手も振ってくれた。
こっぱずかしかったが手を振っている者に手を振り返さないのは失礼なので、千尋も小さく手を振り返した。
なにもおかしなところはない、いつも通りのかわいい彼女だ。
「なにか私の顔についてるかな?」
「いやついてないと思うよ、何か変なところでもあるのかい?」
山口はいかにも『察しが悪いな』という微笑みともどかしさがブレンドしたような顔でコーヒーを飲んだ。
飲み終わり、言葉を発する。
「わかるだろう?楓さんは美人だ、それもそこらにはびこる美人もどきじゃない本物だ、ナチュラルメイクがここまで似合うのも美人の証拠だし、ここに入って来たとき男どもに振り向かれたのも美人の証拠だ」
楓と千尋は「メイクなんてしてないよ」と言いたかったが、そんな暇を与えてやるものかというような勢いで山口は語を次いだ。
「そんな彼女をあのグループが放っておくわけはない、あの美人揃いの魔境に入会できる可能性は十二分以上にある」
山口は口元を『ニィ』と上げて笑った。
楓も「じゃあそのグループに入れるんだね!」と喜んでいる。
千尋は懊悩し、結局は納得しかけたが、ある言葉が引っかかってもう少し考えた。
「あのグループが放っておくわけがない」という山口の言葉を思い出し、危険を感じる。
『女と危険はワンセット』である、これも千尋の教訓だ。
千尋は女性を尊敬している、しかしその実態が恐ろしいものであることも過去の体験から知っていた。
女という生き物は、顔の善し悪しに関わらず当然のように牙を持ち、怪物に変化する。
もちろん牙を向くのは目下の敵である男だけではない。
「…却下だ」
「なんでだよ!?」
驚愕する山口と不安そうに口をつぐんでいる楓を見ながら千尋は言った。
「君はさっき言ったね?『あのグループが放っておくわけはない』って、それは分かるよ、僕から見ても世間から見てもその…楓は美人だ、それは分かる、だからダメなんだ、美人を集めているグループが入会した楓を離すと思うかい?それに女の社会は男のそれより残酷だ、そんなところでがんじがらめになる楓を見たくないんだ、それも君のお粗末な作戦のせいなら尚更だ」
千尋に美人と言われた楓は一瞬笑顔になったがすぐにそれを引っ込めた。
山口はこの言い分に一理あると思ったのか「ぐぅ」と唸っている。
「千尋くん、私なら大丈夫だよ?」
「大丈夫じゃない、それにこれがやっかいな結果を生むことは山口にも分かったはずだよ、そうだろ?」
「…ああ、ごめんね楓さん、こんな話に付き合わせちゃって、この話は忘れてくれ」
「そんな…」
カフェの中の客は少なくなっていた。
入店した直後のようなやかましさはない、ほかのテーブルの席に座っている客は小さめの声量ながらも仲睦まじく話しているようだ。
千尋たちは山口の『女神落とし作戦』の中止を一応満場一致で決定した後、5分ほど話して店を出た。
大学の構内には目に見える範囲では、数えるほどしか生徒はいなかった。
あれほど活気に満ちていた構内は不気味なほどの静寂と無機質さが顕著であった。
3人は屋内を出て、落ちかけた陽と冷たく吹き抜ける風に肌を晒す。
屋内と同様に、大学の屋外にも人は少ない。
まばらに人間が歩いているだけだ。
この大学の敷地はとても広く、それだけに生徒数も多い。
午前中などは『人の海』と言えるほどに肉の塊が波打っているというのに、陽が落ちると今の状況のように生徒がかなり減る。
いつもこうならば楽なのだが、千尋は砂利が敷いてある地面を踏みながら考えてみた。
「じゃあまた明日」と正門で山口と別れ、彼が歩く逆方向にそびえたつ我らがアパートに帰るために歩き始めた。
空が赤黒く染まってきた、夏とはいえ流石にお月様は現れるらしい。
清涼感のある風と空気に身を任せ、多少の疲労感を肩に感じながら彼女と帰る。
ボーっとした意識で10歩ほど歩き、そこでやっと楓がついてきていないことに気づいた。
振り返ると彼女もボーっとした様子で正門の前に立ち、大学の方角を見つめている。
不思議な子だとは思っていたが、かなりの変わり者なのか?
それとも中野さんのように人には見えざるものが見えているのか。
千尋は楓に近づき声をかけた。
「どうしたんだい?早く家に帰ろう」
「ねえ千尋くんあの人って」
「ん?」と声を出し、千尋は楓の視線の先を見た。
女性が3人ほど固まって楽しそうに話している。
正門に向かって歩いている人間はほかにも5人ほどいるが、楓の言っている『あの人』とは恐らくあの3人のうちの誰かだろう。
そして数秒間凝視し、千尋は気づいた。
3人の中央に立っている身長が高めのすらっとした髪の長い女性は、『女神』だったのだ。
確信はない、千尋が見たのは山口から見せられた写真の中の偽りの姿だったからである。
しかしあの長髪、そして遠目からも分かる美しいシルエットと顔つき。
楓は「山口さんの言っていた人だ」と呟いた。
先ほどまでカフェで話題のタネになっていた『女神』、それが今ちょうど2人の目線の交点に佇んでいる。
名前は確か…『藤島』だったか。
なんとなくその姿に見とれていると、あちらも気づいたようで千尋と目線が重なった。
天使のような微笑で千尋に笑いかける。
崇高な精神を持つ自分がドキッとしただと?これはなにかの間違いだ。
千尋はそう己に言いきかせて、踵を返した。
「楓、帰ろう」
振り向いた体をもう1度振り向かせて楓を見た。
そして千尋は楓ではなく、その先の女神に目を奪われた。
女性の魅力を感じたわけではない、恋の予感が胸を貫いたわけでも、彼女が大声で自分のことを「大好き!」と言ったわけでもない。
彼女は楓を見ていた、じっと、まるで睨み付けるかのように口元に笑みを浮かべながらただただ見ていた。
楓も目を離さない。
そして女神は笑った。
微笑みではない、明確な笑いである。
閉じた口が微かに開き、熟れた果実のような『赤』が顔を出したのを千尋は見逃さなかった。
そして片目を閉じ、嬉しそうにウインクする。
そこらの男ならこの攻撃だけでメロメロになってしまうかもしれない。
だがウインクをされた当の本人は不思議そうに微笑み返している。
千尋は楓の手を取った。
「行こう」とだけ言葉を発して彼女の腕を引っ張った。
楓はその咄嗟の千尋の行動に逆らわず、黙って素直についてきた。
なんでその場を足早に去ったのかは正確には分からない。
ただ感覚的には分かった。
あの女は何かがおかしいと、千尋の鈍い勘がそう言っていた。
やはり天は私の味方であるようだ。
出会ってしまった、真実の『美』と。
私の周りにいる嘘っぱちの贋作ではなく、本物の芸術品と。
初めてだった、あれほど麗しい女性に出会ったのは。
あの子なら私と釣り合える、お互いに照らしあえる太陽と月になれる。
美しき魔物同士は惹かれあうのだ、私と彼女は同じ舞台に立たなければならない。
恥ずかしい?大丈夫よ。
観客は山ほどいるわ、スポットライトと舞台装置も不足しない。
みんな私たちだけを見るの、当然よね?私たちは選ばれたのだから。
また会いましょう…きっと私たち仲良くなれるわ。
女神との邂逅から1日経ち、千尋と楓は向かい合って朝食を食べていた。
楓が作ってくれた少しだけ焦げたベーコンエッグとみそ汁とお椀1杯の白米だ。
焦げてはいるが以前作ってもらったときよりは黒くない、進歩している証拠である。
カーテンを開けているので朝日が部屋を照らしている、まだそんなに気温も上がっていないようで比較的心地よい。
午前8時を回った時計を見ながら千尋はベーコンを噛んだ、美味しい。
「ねえ、藤島さん綺麗だったね」
楓の言葉に千尋の脳裏に沈殿した昨日の記録がゆっくりと浮上してきた。
自分の目で見た彼女の姿を思い出す。
楓の言う通り確かに綺麗だった。
並の男なら投げキッスでもされたらホイホイ犬のようについて行くだろう。
山口が藤島には男はいないと言っていたがそれは考えにくいなと思った。
あんなにいい女なのだ、それに釣り合う男は何人かキープしているに違いない。
彼女に告白していったイケメンや金持ちは単に彼女と釣り合うほどのイケメンでも金持ちでもなかったという話なだけであろう。
そしてこれは千尋の個人的な意見だがおそらく山口にはあの美人は落とせない。
山口は顔は悪いほうではないのだが特別いいほうでもない。
軽くあしらわれて終わりだろう。
千尋はそう考えていたが嫌な考えが稲妻のように脳を奔りぬけた。
やつには不可能を可能にする能力があるのを忘れていた。
「山口くん、告白するのかな?」
かわいらしくお口をモゴモゴと動かしながら楓は千尋に聞いた。
まるでハムスターか何かの小動物のようだ。
「藤島さんにかい?さあね」
「山口くんいい人だから、成就してほしいんだけどなぁ」
「まあいい人か悪い人かと聞かれたらいい人にカテゴライズされるかもしれないがね、成就は厳しいだろう」
「えー、なんでなの?」
「まぁはっきり言ってしまえば釣り合わないってことだよ、それに山口は女性に好かれる男ではないからね」
「そんなのわからないよ」
「確かにわからないね、藤島さんがあの美貌をもってどんないい男でもものに出来る力が持っていたとしても、山口を選んでしまう可能性があるかもしれない」
「そうだよ!」
「でもそうじゃなかったら?勝率は絶望的だよ」
千尋は澄ました顔でズズズとみそ汁を飲んだ。
楓は納得いかないという顔でむくれている。
「だがまぁ…うん」
「どうしたの?」
千尋の頭には一抹の可能性も確かにあるなという山口へ期待があった。
その可能性というのもバケツ一杯に入った砂粒の中から30秒以内にその砂に混じったカステラのザラメを見つけ出すような限りなく0に近い可能性だが、皆無というわけではない。
もしかしたら…という絶望という漸近線スレスレの希望が自分の胸に宿っているのを否定は出来ない。
「これは…別に隠すようなことではないのだがね、あんまり山口やほかの会員には言わないでくれるかい?」
「うん、言わないよ」
楓はこの話を聞くのが楽しみなのか、しっぽを振る犬のように輝いた目で千尋を見つめた。
千尋はゆっくりと口を開く。
「山口は確かに女性にモテはしない、これは確実だ、真実なのだ」
「うん」
「たいていの女性はあの蝋人形のような笑顔に違和感を抱き、そしてそれは猜疑心に変わる、『この男は胡散臭い、何か詐欺を働くのではないか』と思うだろう」
「うん、それで?」
「でも稀に、本当に稀にだがあの男の胡乱さに魅力を感じる女性がいるのだよ」
「じゃあ山口くんにもチャンスはあるってことなの?」
笑顔で聞く彼女に千尋は戸惑いがちに答えた。
「う、うん…山口は何人ものそれら女性と付き合った実績があるからね、まああるかないかで言えばあるかもしれないと言ったところだよ」
「そうかぁ、じゃあ応援しなくちゃね!」
嬉しそうに言って牛乳を飲むはなんだか希望に満ちていた。
ごくごくと彼女が液体を飲むたびに動く喉はなんだかいやらしかった。
「頑張るぞ!」と言ってはりきっている彼女に真実を伝えるべきか、千尋は逡巡したが結局はやめた。
純粋な乙女に話す内容ではないだろう。
山口が物好きな女を引っ掛けてものにしてきたのは事実だ、その中には女神とまではいかなくても美人もいた。
もちろんこの色事はすぐさま部長の耳に入り、逆鱗を掻きむしることとなったので一時は同好会追放という措置を山口は受ける事態にまでなった。
会員の説得も部長は一切聞き入れなかった、しかしその決断はすぐ覆されることとなる。
山口が同好会の放逐を宣言された3日後、部長が何気なくキャンパスの芝生の上を歩いていると、まるでゾンビのようにふらふらと生気なく前から歩いてくる男がいた。
その男は部長とすれ違う瞬間崩れるように倒れかけた、部長は咄嗟にその人物が倒れる前に体を支えた。
「大丈夫か君!?」そう聞いた瞬間、部長は唖然とした。
瞼が蜂に刺されたように腫れ上がり、頬は切り傷で赤くなり、口元は大きく切れていた。
まばらに赤みがかった箇所とは裏腹に顔全体は亡者のように覇気がなく顔色が悪かったそうだ。
そしてその男は山口だった。
「どうしたんだ山口くん!」
追放したことなど忘れ、部長は必死に聞いた。
山口が言った言葉は一言だけだった。
「部長…ごめんなさい」
そう言ってポロポロと涙を流す山口を見て、部長の涙腺は決壊した。
「いいんだ、いいんだ」と何回も呟きながらその体を抱きしめた。
青々と茂る人工的な芝の中央で涙に濡れながらも抱き合う姿を見て、オーディエンスが感動したのか気味悪がったのかは分からない。
その後聞いた話では、その顔の傷は全て付き合った彼女に負わされたものだと判明した。
何故そんな傷をつけられたのかは山口は語らなかったが、そんなことはどうでもいい。
山口は無事同好会に戻ってきた。
その後も懲りずに山口は彼女を作り続けたが、いつもすぐに振られて顔に傷をつけられるという事態に終結している。
このことに部長は怒らず、なんと優しく慰めてあげたりもしている。
心境の変化だろうか、千尋には分からなかった。
それにしてもなぜそこまで傷をつけられるのだろうか、おそらく山口にもなにかしらの落ち度があるのだろう。
楓はウーンと体を伸ばして、テーブルに頬杖をついた。
「早く食べ終わってよ」と楓が微笑みかけている。
千尋は残りの朝食を貪り、2人揃って洗面所に足を運ぶ。
仲良く狭い洗面所で1つの鏡を見つめながら自分の歯を磨く。
コシコシと音をしばらく出した後、それを吐き出し口を漱ぐ。
お互いに別々の部屋で着替えを済ませ、千尋はカバンを持ち楓と2人で外に出た。
ドアの鍵を閉めて、いつもの階段を降りる。
昼間よりは涼しいとはいえ、さんさんと輝く朝の太陽に当てられながらも大学に向かった。
今日の楓はこの世界に召喚された際に着ていた純白のワンピースを身につけている。
真夏の青空に咲く一輪の百合の花のようだ。
道行く人の何人かの男性も楓に見とれているのを千尋はみかけた。
千尋は少しでも楓に見劣りしないように背筋をシャンと伸ばした。
そうでもしないとイケていない自分がさらにイケてなく見えてしまいそうだったからだ。
大学に到着し、汗を拭きながら教室を目指す。
そろそろ自分の汗で塩が精製できそうだなと自虐的に考えた。
教室に入って、いつものように講義を受ける。
講師が小難しい経済の話をしているとき、千尋はスマホで終盤に差し掛かった『坊っちゃん』を読みながら時間を潰す。
チャイムがなる14分前、千尋は『坊っちゃん』を読み終わり、主人公の残りの人生を応援した。
彼はどのようにこれから生きるのだろうか、『3つ子の魂100まで』と言う言葉がある通り彼の性格はこの先も変わらず今まで通りやんちゃに無鉄砲に生きていくのだろう。
改めて夏目漱石先生の偉大さを感じながら、垂れた目をキリッとさせながら講義を聞いている楓を見る。
その姿勢を見習って千尋はスマホをポケットにしまい、前を向き講義を受ける。
3分ほどして無性に天ぷら蕎麦が食べたくなった、食べたいがあれは高い。
仕方がないので諦めるかなどと考えていたら講義は終わった。
講師が「今日はここまで」と言って光る頭頂部を見せつけながらそそくさと教室を出て行く。
かつらなり植毛なりなにかしら手を打てなばいいのに、と千尋は思った。
大学の講師の給料ならば髪くらいどうにか出来るだろうに。
それとも彼らの給料は自分が思っているより安いのか、それとも彼なりの頭に対するこだわりがあるのか。
そんなくだらない思索に耽っていると、楓から「行こうよ」と促された。
千尋は立ち上がり教室を出る。
廊下を歩いていると急に尿意を催したので、楓に断りをいれてトイレに入った。
溜まっていた小便を排泄するという表現しようのない快感に身を任せながら目を瞑る。
全てを出し終え、手を洗い、トイレを出た。
「おまたせ」と楓に声をかけようとしたが、さっきまでいた場所に姿はない。
首を左右に振り動かして周りを見てみると、スタイルのよい長身の女性を見つけた。
ただ楓は1人ではなかった、3人の女性に囲まれながら何かを話している。
はて、楓にはあの邪悪な同好会のメンバー以外に親しく話す相手などいただろうか。
いやいないはずだ、楓はこの大学に来るときはいつも千尋と行動を共にしていたはずだ、どちらかがお手洗いに行くとき以外は。
そうか、中野さんだ。
あの女性たちの中に中野さんがいて、後の2人は中野さんのお友達だろう。
千尋は目を凝らして中野さんを確認しようとした、しかしあの中に中野さんはいなかった。
3人ともきちんと化粧をして高そうなおしゃれな服を着ている。
千尋がこの状況の理解を頭の中でやっていると楓がこちらに気づき、自分の名前を呼んだ。
「あら、お友達?」
ハスキーな大人っぽい声で言った3人の中の1人が千尋の顔をまじまじと見つめる。
そして千尋は驚愕した、昨日おかしな不気味さを感じた女性であり山口の想い人である彼女は端正な顔で微笑んだ。
彼女は女神だったのだ。
「ねえ千尋くん、今藤島さんたちにカフェに行こうって誘われているの」
千尋は内なる警鐘を抑えながら、事態の把握をはかる。
背丈が165センチほどの女神は隣にはべらせている女たちよりも背が高い。
真っ直ぐ伸びた黒髪と楓にも劣らぬ美しい肌、目元は落ち着いていて思慮深い印象を与える。
体つきも顔も全てが艶やかで甘美である。
世の男たちが虜になるのも納得だ、彼女に全てを捧げてもかまわないという男だって現れるだろう。
だが少なくともその獣たちの中に千尋は入っていなかった、今の今まで守りぬいてきた純潔と女性に対する紳士で高潔な人生は、目の前に微笑んでいる女神に対する耐性を身につけさせてくれたのだ。
「よかったらあなたもどうかしら?一緒にお茶でも飲みましょう」
そう言った彼女の眼つきは挑戦的だった。
千尋は一切の笑みも見せずにその顔を見つめる。
ふと楓のほうを見てみると複雑な表情をしていた、なにかを懇願するような顔だ。
流石の楓も知らない女たちとコーヒーを啜るのは気が進まないのだろう、いや自分と離れたくないのだろうか。
いや自意識過剰な推察はやめたまえ、彼女が自分にもついてきてほしい理由は前者だろう。
いやもしかしたら山口の恋のためかもしれない、『私と千尋くんで山口くんと藤島さんを恋人にするためのきっかけを作ってあげよう!』なんて考えているのかもしれないな。
そういえば今日の朝楓が『応援しなくちゃね!』と言っていたことを千尋は思い出した。
あの懇願の表情が本当に山口のためだとしたら彼女は実に律儀で心の優しい女性ということになるだろう。
そうやって想像に耽っていると、嫌な視線が自分に向けられているような気がした。
その発生源はヒーローの横には必ずいるサイドキックたちからのものだった。
偉そうに2人とも腕を組んで露骨に千尋を睨んでいる。
おそらく彼女たちはこう言いたいのだろう『お前は来るな』と。
しかし女は愛嬌とはよく言ったものだ。
醜く顔を歪めている彼女たちは、比較的整った顔をしているのにもかかわらず不細工だった。
「じゃあ僕もお供させてもらおうかな」
したり顔で言い切ってやった千尋の目線はまっすぐとサイドキックを捕らえていた。
今にも舌打ちしそうな彼女らを見て千尋は内心「ざまあみろ」と思った。
千尋は紳士だが人に敬意を払わないやつには同様に敬意を払わない。
それに女神の目的を探ることも目下の目的として果たさなければならないことである。
彼女がなぜ楓に近づいたかを突き止めなければ、そしてもしそれが自分たちのグループへの勧誘ならば己の性器を出してでも止めてやろう。
この女は信用できない、千尋はそう思っていた。
楓の方を見ると、安心したように笑顔を浮かべている。
女神の方を見るとこちらも嬉しそうに笑顔を浮かべている、千尋はてっきり横のブス2人と同じような顔をすると思ったが、チームのボスはだいたい優秀であるので感情に任せた行いはしないのであろうと結論づけた。
しかし絶対にボロを出す瞬間がある、それを見つけだしてやろうと千尋はカフェに行く道中で決心した。
昨日に訪れた大学内にあるカフェではなく、大学の西側にある屋外のカフェに来ていた。
店の中でコーヒーを注文して、外のテラス席に5人で座り、各々自己紹介をした。
全員の名前を全員が知ったところで、千尋はタオルで汗を拭いた。
屋根の下に席があるとはいえ、変幻自在な太陽の兄貴は冷房のついていないこの席に暖かすぎる温度を提供してくれる。
楓は砂糖をたっぷりコーヒーに入れて混ぜていた。
女神はブラックのまま飲んでいる、その振る舞いは優雅だった。
ときおり女神は手を小さく上げて、挨拶してくる男女に応えている。
まだ5分ほどしか経っていないのにも関わらず、すでに10人以上と挨拶を交わしていた。
友人が多くて立派なことだ。
彼女に手を振る学生たちを眺めていると、ふと自分がこんなところにいては不自然な人間だということを思い出した。
多くのこじゃれた人間たちが集う大学のカフェ、それもテラス席という道行く人々の目に入るこの場所で自分が女神とその側近、それに楓と一緒にコーヒーを飲むというのは赤の他人から見れば違和感たっぷりな光景であるに違いない。
確実たる場違い感に千尋は少し肩身が狭くなったが、すぐに今更じたばたしても仕方がないと半ば諦めの気持ちでコーヒーに口をつけた。
「石動くんって」
藤島が口を開き、千尋に話しかけた。
「楓さんと付き合っているの?」
楓は下を向いた、おそらく顔を赤くしている。
側近2人はめざとく楓を見ていた。
藤島も嬉しそうに楓を見つめた後、千尋にその顔を向き直した。
千尋はその態度がなんとなく気にいらなかった。
「いや違うよ、僕と彼女はただの友人同士だ」
「ふーん」と宝石の価値を見定める鑑定士のように藤島は千尋を見つめていた。
自分の顔に何かついているのだろうか。
「あなたたち本当に仲がよさそうね」
「そりゃ悪くはないよ、一緒に大学を歩いているんだからね」
「なんで楓さんさぁ」
席について初めて言葉を発したサイドキック1号は顔を下品に歪ませながら楓に話かける。
「なんでこいつと一緒にいるの?」
こいつだと?
千尋は怒髪天を衝く想いに駆られた。
なぜこんな女に『こいつ』呼ばわりされなければいけないのか、自己紹介もさっきしたのに。
僕たちは親しい仲か?小学生からの幼馴染で酸いも甘いも苦難もともにした心が通じあった戦友か?
それとも甘い恋に身を任せて、ベッドの上でさえずりあった関係か?
違うだろう、今さっきあったばかりだ。
なのに『こいつ』だと?どんな人生を送ってきたらそんな非礼を易々と働かせられるのか。
千尋は猛烈に怒りに支配されそうになったが、なんとか耐え抜いた。
怒りに囚われたとはいえ、今はそれを爆発させるべきではない。
場所をわきまえるんだ、自分はあいつらのように野蛮な人間ではないのだ。
やっとの想いで怒りを抑え、冷たいコーヒーを飲む。
しかしあと3度ほど気温が高かったら自分はこのブスの首を絞めにかかっていただろう。
太陽の兄貴に感謝するんだな。
「うーん、なんでだろうね、面白いからかな!」
楓がそう言うとサイドキック1号は面白くなさそうに頷いた。
その後にサイドキック2号がニヤニヤしながら千尋に話しかけた。
「つーかさぁ、あんたなんで楓ちゃんと一緒にいるの?」
「…どういう意味かな?」
「どういう意味って…わかるっしょ」
2号は鼻をハッと鳴らしてそう言った。
千尋は髪が天に届きそうになった。
鎮火しかけていた怒りにガソリンをなみなみと注がれたように千尋の心は燃え盛った。
なぜ2人揃ってこんなにも他人に非礼を働けるのか。
千尋には本当に分からなかった。
分からないほどに憤怒していた。
7つの大罪と1つと呼ばれる『憤怒』だが、この怒りをこの状況で「我慢するのだ」と神に進言されても今の自分なら喜んで憤怒の炎に身を焦がすだろう。
事実、千尋の崇高な精神は熱い炎で焚殺されていた。
「わからないな僕には、君たちのように頭の悪いことは理解できない脳の構造をしていてね、もしかして僕じゃ楓に釣り合えないとでも言いたいのか?それはそうかもしれないね、君たちのように似合わない化粧をべたべたと顔に塗りつけたブサイクなマヌケ面で人がいら立つことを喋っていれば彼女と釣り合うのか?え?どうなんだ?どうなんだって聞いているんだから答えたらどうだ、それとも今僕の言っている言葉が理解できないのか?現実と虚像へのお絵描きに、ダサいケバケバしい服を頭の悪い声でケバケバしい店の君たちのように頭の悪い店員と話して買ったその服を見せびらかしてる君たちはさぞ楓に釣り合うんだろうね、僕から見ても十分に釣り合ってると思うよおめでとう、僕も君たちのような脳みそを手に入れたいな、どこで手に入る?マナーも知らないような育児放棄大好きな両親から生まれれば君たちのような人間になれるのか?え?どうなんだ?中学も卒業できないようなノータリンな小さな頭でよくこの大学に入学できたね、この大学の最高責任者に君らの小便と精液が混じった臭いの性器を舐めさせたのか?ええどうなんだ、聞いてるんだから答えろよ、自分らが体売ったことも忘れたのか、それともその糞色の服を買うためにその低価格の汚い体を汚いおっさんに売っているから過去のことなどもうわすれたのか?」
そこまで言って千尋はハッとした。
楓を含めて4人の女性たちは信じられないような顔をしている。
やってしまったと思った、やはり怒りに任せればその果てには後悔だけが残るようだ。
千尋は焦った、冷や汗も体から流れ出る。
言葉が出てこない女性陣とわざと目線を合わせないようにしてタオルで汗を拭く。
千尋は口下手だが、感情が昂ったときの悪口はスラスラと出てくるのだ。
自分は何を言ったのだろう、頭がぼんやりして思い出せない。
確かブサイクだの精液だの品のないことを言ったと思うが気のせいだと思いたい。
しかしなぜ誰も喋らないんだ?
学生の喧噪と楽しそうな話し声だけが千尋の鼓膜に響いている。
このテラス席に座っている誰もが口を開かない。
す巻きにされてドブ川に捨てられたような閉塞感と息苦しさに耐え抜きながらも千尋は顔を上げた。
予想通りまだ彼女たちは驚愕の顔を浮かべていた、特にサイドキック2人には口を痴れ人のようにポカンと開けて千尋を見つめていた。
流石に謝罪した方がいいかと千尋が考えていると、ある人物が目に入った。
これは神の救いか、閻魔の断罪か。
どちらでもいい、この状況を少しでも打開できる可能性があるならなんだってやってやるさ。
「おーい!山口ぃ!!」
人目も憚らず千尋は大声を出してその男の名を呼んだ。
山口は振り返り、ギョッとしたようにこちらを見た。
彼が状況を把握する暇も与えずに千尋は手を振りながらまた叫んだ。
「山口!こっちにきたまえ一緒にお話しようじゃないか!」
山口は怪訝な顔をしていたが、そこに女神がいると気づき目を輝かせた。
千尋はさも『君のためにこの場をセッティングしてやったぜ!さあ後は君次第だ』という表情を浮かべて白い歯を見せた。
山口がこの千尋の泥まみれの好意をどう受け取ったがわからないが、彼は笑顔だった。
「やあ石動くん!楓さん!今日も暑いね!」
「ああ!まったく困ってしまうよ!」
「やや、みなさま初めまして、山口です!」といつも胡乱な莞爾を顔に貼り付けて、図々しくほかの席から椅子を持ってきて女神と1号の間に座った。
本当に恐れ知らずな男である。
山口は先ほどのブラックッホールのように暗くて息が詰まって死にそうになる雰囲気を壊してくれた。
ペラペラと機関銃のように言葉を藤島に投げかけている。
サイドキック2人は道端に落ちている犬のクソを見るような眼つきで山口を見ていたが、藤島は楽しそうに相槌をうっている。
大した女だ、急に自分たちの席に断りも入れずに乱入してきた男のくだらない話を笑顔で聞いているのだから。
自分が同じ立場ならこのサイドキックたちとまではいかなくても多少の嫌悪寒や不快感を表情に出すと思うのだがと千尋は思った。
千尋は楓をほうをチラリと見たが、彼女はコーヒーを美味しそうに飲んでいたので山口のほうへ向き直す。
自分のくだらない武勇伝や女神に対してのお世辞などを嬉しそうに1人で話していた、藤島は楽しそうに「本当に?」「すごいわね」「そんなことないわ」を使って会話に応えている。
顔は笑顔だが、おそらく内心は腹わたが煮えに煮えくりかえっているだろう。
知り合いの自分ですら今の調子に乗った山口は無様に見える、ここまでされてまだ愛嬌を保っている女神は心からの尊敬に当たるだろう。
しかしこの席に山口を投入したのは成功だった、事態は沈静した。
千尋の暴言の数々は彼女らの頭からはさっぱり消えたようだ。
正確にはちょっぴりも消えてないと思うがあの空気と自分の発言がうやむやになったのなら御の字である。
千尋たちはしばらく山口のこっぱずかしいトークと藤島の相槌を聞きながらボーッとしていた。
千尋はこの狭い空間で目立たないようにもう口は開かないつもりだが、楓はおろかサイドキックのブスどもも口を開かない。
よほど招かれざる山口に辟易しているのだろうか。
だがブスの声を声を聞かなくて済むのは嬉しい、山口が席に座ってから運が巡ってきたようだ。
「そうだ、連絡先を交換してもらっていいかい?なんだか僕と君は話が合うみたいだからね」
いつ君たちの話に花が咲いて話が合ったのかは千尋には分からなかったが、山口的には大いに盛り上がったようだ。
「いいわね」と女神は言ってスマホを取り出した。
「せっかくだから楓さんと石動くんとも交換したいわ」
喋りたくなかったが話しかけられたので千尋は口を開いた。
「すまない、スマホを家に忘れてね、またの機会にしてくれないかい?」
もちろん真っ赤な嘘である、なんとなく千尋はこの女性と連絡先を交換したくなかったのだ。
「あら残念、なら楓さんだけでも交換してくれないかしら?」
「私今携帯持ってないんだ、使ってたのが壊れちゃって」
これも嘘である、事前に打ち合わせをしていた言葉を楓はスラスラと喋ってくれた。
そしてこの言葉を聞いた女神の瞳の奥に矮小な闇を千尋は見た気がした。
しかしすぐにいつも笑顔を取り戻す、口元を優しく緩ませて微笑む彼女は美しかった。
流石に嘘だと思ったのだろうか、しかしまあいい。
あまりこの女性に楓と関係を持たせたくないのだ。
山口と藤島は連絡先を交換しあった、しかし残りの2人はスマホを出しもしない。
山口もブス2人には目もくれず、嬉しそうに顔を歪ませている。
なんだか不思議だ。
少し喋ったあと、コーヒータイムは終わりお開きとなった。
「またお話ししましょう」と女神が微笑み、それに山口と楓が手を振った。
そこから少し離れた場所で千尋は山口に「なぜあの2人にも連絡先を聞かなかったのかい?」と聞いてみた。
山口は鼻で笑って小さくかぶりを振った、まるでまた『石動くんは坊やだなぁ』と言っているようだ。
癪に障る男である。
「彼女らはいいのさ」
「なぜだい?」
「彼らは女神のアクセサリーだ、僕の本命は装飾品じゃない、それを身につけている彼女なんだよ」
「女性をモノ扱いか、大した身分だな」
「彼女らもそれを望んでアクセサリーへの道を選んだのだよ」
「ふん」
千尋が鼻を鳴らすと、楓が嬉しそうに言った。
「人をモノみたいに言うのはいけないと思うけど、千尋くんにはそれを言う資格はないと思うな」
悪戯がまんまと成功した子供のように笑う彼女を見て千尋は顔をしかめた。
自分の発言した言葉はどうやっても取り消せないらしい。
千尋は頭を下げて楓に謝罪とお願いをした。
「先ほどは御見苦しい姿と君の耳を汚すような発言をして申し訳ない、つい頭に血がのぼるとああいった発言をしてしまうんだ、そしてもしよろしければそのことは君の胸にしまったまま2度と出さないでもらえたらと…」
「うん、いいよ!正直言って私もちょっと怒ってたんだ、千尋くんをあんな風に言われて…だから言いかえしてくれてスッキリしたんだ!」
跳ねるように体で喜びお表現する楓を見て千尋の心は和んだ。
飾り気のない素直な女性だ。
やはり千尋には胡乱な女神より純粋な妖精のほうが相性がいいらしい。
「仲睦まじいことで、今日はありがとうね!」
ニコニコと笑う山口に千尋は『感謝するのはこっちのほうだ』と伝えたがったがやめた。
話がややこしくなりそうだ。
「いいんだよ、君も女神に気に入られるように頑張るんだね」
「もう気に入られてるよ」
自信たっぷりな態度で微笑む山口を見て、千尋は本当に恐れ知らずな男だなと思った。
美とは何か、その答えを愚かな人間たちが何世紀にもわたって解き明かそうとしてきた。
まったく無駄なことだ、答えなどお前たちに分かるはずがないのに。
真の美を理解できるものは、真の美をその肉体に備えているものだけである。
つまり…私とあなた。
神に授けられた恩恵と責任をあなたは分かっていないようだった。
なぜあんな有象無象以下の男に付き従っているのか私は本当に分からない。
私といるべきなのよ、なえそんな簡単なことが分からない?
私にあんな嘘までついてあのつまらない男と一緒にいたいというの?
でも大丈夫よ、芸術品が不運にもその価値の分からない愚者の手に渡ったことは何度もあった。
私が取り戻してあげる、そしてあなたに教えるの。
本当の幸福とは何か。
そしてそれは私と共に生きるということを。
陽が落ちて空が鳶色に染まっている。
その空の下を千尋と楓は歩いていた。
千尋の手には買い物袋がぶら下がっている、先ほどいつものアーケード街で買い物を済ませてきたのだ。
涼しげな風が2人を包んでいる、主婦や仕事の帰りらしい男もトボトボと地面を歩いていた。
人気が少なくなってきた帰路で、千尋は前方から1人の人物が歩いて来るのに気づいた。
「あの人…」と楓がつぶやいたので、千尋は目を細めその人物を確認してみる。
まだはっきりと認識はできないが、ゆっくりと歩いてくるのでだんだんと全貌が明らかになってきた
長い髪、細身の体、繊細さと鷹揚さを兼ね備えた優雅な歩み。
そしてどこかでみたかのような服装…
あれは間違いない。
「藤島さんか…?」
「うん、藤島さんだね」
「こんばんは」と藤島はにっこりと笑って会釈した。
千尋と楓も「こんばんは」と返した、楓は笑顔だったが千尋は笑わなかった。
女神はクスクスと品定めするように2人を見つめている。
「ここら辺に住んでいるのか?」
千尋が聞くと、藤島は千尋が手に持っている買い物袋を一瞥した。
「いいえこのあたりに住んでいるわけじゃないわ、でもたまには大学の近くでも散歩しようと思ってね、それより2人は本当に仲がいいのね、買い物まで一緒だなんて」
藤島はからかうような口調で言った。
千尋の眉間に皺が刻まれた、この女は何を探っているのだ。
「友人だからね、一緒に買い物だってするよ、君もあのお友達たちと買い物ぐらい行くだろう?」
「ええ、行くわね」
「そういえばあの2人はどうしたんだい?いつも3人一緒だとと思ってたんだがね」
「そんなことないわ、私だって1人でいたいときはあるの」
そう言って藤島は申し訳なさそうな顔をして頭を下げた。
「…あのときはごめんなさいね、2人があなたに失礼な態度をとってしまって、本当にごめんなさい」
封印していた思い出したくない記憶を掘り起こされて千尋は赤面しそうになった。
こんな精神状態なのでなんて言葉を返せば分からなかった。
「あのときそう言ってくれればよかったのにね」
硬直状態に陥った千尋は強気な発言をした楓を少し目を丸くして見つめた。
心なしか可憐な小動物のような顔に怒気をはらんでいるようだ。
楓も怒ることがあるんだなと千尋は少し驚いたのだ。
それは藤島も同様だったようでいつもの涼しげね目元を大きくしていた。
「ご、ごめんなさい…そうね、あのとき私が注意するべきだったわ」
「わかってくれればいいんだよ」
藤島は軽くショックを受けているようで俯いている。
千尋はこの気まずい空間から早く離れたかったが、今会ったばかりでしかも落ち込んでいる女性に「じゃあ僕らは帰るから」とは言えなかった。
気にくわない相手だが、謝罪も聞いたからには非礼な態度を千尋はとることが出来なかった。
「…藤島さんは将来の夢とかあるのかい?」
伺うように千尋は聞いてみた。
この状況で適切ではない質問だとは分かっているがほかに言葉が浮かばなかったのだ。
「…面白い質問ね、そうね…将来か、うーんわからないわ!」
そう言って彼女が見せてくれた日輪のような眩しい笑顔は純粋に綺麗だと千尋は思った。
やはり女性には沈んだ顔より笑顔の方が似合っている。
千尋は心を奪われそうなることに気づき、小さくかぶりを振った。
しかし彼女に笑顔が戻ったのは世の中男子の1人として嬉しかった。
「そうだ!お詫びってわけじゃないけど今度3人で食事でもどうかしら?美味しいお店知ってるの、もちろん私の奢りよ」
「いや…そういうわけには…」
千尋が言葉を濁していると、藤島は「お願い、なにかお詫びをしたいのよ」と言った。
「それに今度は楓さんと連絡先交換したいしね」
藤島は色っぽい眼つきで楓を眺めている。
楓は少し困ったように眉を上げて笑みを浮かべていた。
「君は…偉く楓を気に入っているようだね?なんでなんだい?」
千尋はこの機に彼女の目的を探ろうとしていた。
なぜ彼女が楓に執着するのかと。
それを聞いた女神はクスッと口角を上げて笑った。
「女の子はね、いくつになっても美しいものが好きなのよ…もちろん私もね」
目元を鋭く遊ばせて、彼女は千尋を見た。
まるで獲物を狙う獣のように。
やはりこの女は危険だと、千尋の愚鈍な脳みそは警告音を鳴らしていた。
しかしその一方で彼女はいい人なのではないかと千尋の聡明な脳みそも言っていた。
千尋はどちらを信じればいいか分からなかった。
「それじゃ、また会いましょう」
藤島はそう言って軽やかに2人の横を通り過ぎる。
千尋と楓はそれを見送った。
ふと千尋は思いついたことをその美しいシルエットの背面にぶつけてみる。
「山口のこと、君はどう思う?」
女神は振り返り、目元を緩ませた。
そして滑らかな唇を動かして小鳥のような声を出す。
「面白い人だと思うわ」
「…その、付き合ったりとはする気はないのかい?」
「どうだろう、でもたくさんの男の子が狙ってるからね、私を惚れさせるのは大変よ」
そう言って女神はウインクをした。
そして踵を返し、やはり優雅に歩いていく。
姿はだんだん見えなくなる、彼女を照らす夕日もなんだか神々しい。
「謙虚な女神だ」
千尋は鼻で笑いながら独り言ちた。
「行こう」と楓に言葉をかけ、香ばしい匂いが漂う住宅街を歩いていく。
そして千尋は心の中でおそらく山口の儚い恋は決して成就しないだろうと思った。
千尋と楓は同好会の会室の大きめの真紅のソファーに2人で座っていた。
千尋は体が触れ合わないように少し距離を開けた、楓も無理に詰めてくるようなことはしなかった。
少しかび臭い会室には千尋と楓しかいない。
長ったらしい講義が終わった後、千尋たちは暇だったのでこの会室を訪れた。
誰か1人くらいいるだろうという千尋の予想はまんまと外れ仕方なく2人はパイプ椅子に座ったが、長時間の教室の椅子での腰掛でダメージを追った臀部は粗悪なパイプ椅子に座るという行動をとったせいでさらに痛みが悪化した。
それで今は仲良く尻を休めるためにこのふかふかのソファーに座っているといったところだ。
「このソファー高そうだけど誰が持ってきたの?」
「はて誰だったかな?たぶん部長だと思うのだが」
「部長さんってもしかしてお金持ちなの?」
「たぶんそうだと思うが確証はない、いつ聞いてもその手の話題は逸らされてしまう」
「ふーん」
楓はつまらなさそうに呟いて両足を浮かせてぶらぶらさせた。
まるで小学生のように無邪気に振舞う彼女は愛しかった。
おそらく彼女には我らが当たり前のように持っている気持ち悪く、非生産的で闇に塗れた負の感情を持ち合わせていないのだろう。
彼女からは毒気というものは感じられないのだ。
無垢な赤ん坊のように外界を恐れず好奇心だけで突き進んでいくような純粋な感情と思考。
彼女の1番の魅力であり、今の千尋にはないのものだ。
本当に羨ましい限りである。
「『小便と精液が混じった香りの性器を舐めさせたのか?』」
前言撤回である。
彼女は徐々に外の世界の悪い空気に汚染されていたのだ。
顔をわざと歪ませて、唇を突き出し悪意に満ちた自分の声真似で今自分がもっとも聞きたくないセリフを吐いた。
「やめたまえ」
「え!どうしたの千尋くん!?」
おおげさに驚いてみせる彼女に向けて、千尋は顔はしかめた。
ニコニコと楓は笑っている。
「…君は俗世におりてきていささか性格に難が生じてきたようだ」
「そうかな?」
「君は毒気を含んできたのだ」
「でも千尋くん、私に売女みたいな物言いはやめろっていったよね?それは毒を含んでないの?」
「…意外に根に持つんだね」
「うん」
「…傷ついたのかい?」
「うん」
「すまなかった…」
「いいよ!」
千尋はその煌めく笑顔に思わず顔がほころんだ。
立ち上がり、棚の中に横たわった本を手に取った、ソファーに戻りページを開く。
「何呼んでるの?」
「『禁色』だよ」
「どんな話なの?」
「そうだなぁ、同性愛者の色男が女に痛い目を見せられたおじいさんと一緒にその女たちに復讐する話かな」
「面白そうだね!」
「だろう?でもこの同好会のやつらはせっかく僕が持ってきてやったのに読みもしないんだよ」
「なんでだろう、偏見ってやつかな?」
「そういう人間もいるな、たとえば福崎とか福崎とか」
「福崎くんは同性愛は嫌いなのかなぁ」
「君は同性愛が好きなのかい?」
「うーん…好きとか嫌いとか以前に同性愛の何がそんなに嫌われるのかがわからないよ」
「君は優しいな」
「えへへ」
彼女の微笑みに応えた後、千尋は物語の世界に没入した。
彼女は相変わらず美しかった。
晩餐の約束を取り付けたがそれまで待ってはいられない。
今すぐにでも会いたい。
あなたを掌中の珠のように優しく、そして大事にその体を愛でてみたい。
好きな子をいじめる小学生のようにその心を弄んでみたい。
あなたとあの男の関係は分からないけど、そんなことは関係ない。
どうせ私のものになるのなるのだから。
女神の祝福に酔いしれるがいい。
今迎えに行くからね。
空を見上げるとまばらに散らかった星たちと月の光が千尋を照らしていた。
月明りは綺麗である、今夜は満月だ。
バイト終わりの疲れた体を引きずって歩きながら千尋は楓の待つアパートへ向かう。
そしてふと楓が自分のバイト先までついて来るとゴネたことを思い出した。
あのときは説得するのに本当に骨が折れた。
刻々とバイトの始まる時間が迫る中でなんとか手練手管な話術で納得してもらえた。
なおタイムリミットギリギリに汗を瀑布のように垂れ流しながら職場に千尋が駆け込んだのは言うまでもない。
しかし今の自分は汗には縁はないようだ、気温は下がり冷たい夜風が自分を快適にさせてくれる。
そして彼女の待つアパートまで一直線に歩みを進めた。
だが疲労した体がなんとなく浮ついているな、これも楓のおかげだと千尋は思った。
大学に入学して誰かが家で待っているなんてなかったから嬉しいのだろう、そして今日は楓が作ったカレーを食べる予定だ。
すきっ腹を抑えながら歩くこと20分、千尋はアパートの階段を上った。
部屋のドアノブに手をかけて右に回す。
ドアは開かなかった。
「あれ?」
楓が鍵を閉めたのかなと思い、ズボンのポケットから鍵を取り出し。それを鍵穴に入れて鍵を開けてドアを開けた。
電気は点いていない、スイッチを入れて部屋に灯りをともした。
「楓、いないのか?」
返事はない、浴室やトイレも調べたがいない、テーブルの上にメモらしきものも置いていない。
一体どうしたというんだ?
千尋に暗澹たる残酷な景色が脳を駆け抜けた、脇下と腹部に冷たいものを感じる。
まさか…誘拐か?
そう考えて状況を分析する、いやその可能性は低い。
部屋の電気は消えていた、それにドアに鍵もかかっていた。
もし彼女が部屋の中から暴漢などに襲われたり、連れ去られているとしたらいちいち電気を消したり鍵をかけたりとモタモタする行動をとるはずはない。
となるとなんらかの理由で外に出た楓がなんらかのトラブルに巻き込まれたというのが可能性としては高い。
千尋は楓とある約束を交わしていた、楓は携帯を持っていないのでいつでも利用可能連絡手段がない。
なので楓が独りでアパートを出るときは『どこに何をしに行くのか』を記した書置きを残すことを約束していた。
しかし部屋には書置きもなかった、これは緊急事態かもしれない。
千尋はドアに鍵をかけて走り出した。
闇の中にある街灯の明かりだけを頼りに夜道を走った。
暗黒に支配された歩道には誰一人動く人間はいなかった。
楓どころか人っ子1人いない。
首をしきりに動かしながらあたりを見回す。
楓はどこにもいない。
これは警察に連絡するべきか?
千尋のこうべは巡りだし、そして決心する。
スマホを取り出してある番号を打ち込もうと指を動かす。
通話ボタンを押そうとした瞬間、眩しすぎる光が千尋の視界を奪った。
「あれ?千尋くんかい?」
まばゆい光を発しながら車を走らせていたのは古本屋の翁だった。
優し気な笑顔を浮かべ、車を千尋の近くに停めた。
「あの!楓見ませんでしたか!?」
喰い気味に翁に顔を近づけて千尋は聞いた。
翁は少々その千尋の態度に戸惑ったようだがすぐに声を出して応えてくれた。
「楓ちゃんかい?さっき見たよ、きれいな女の子と一緒にあっちのほうに歩いてたけど」
翁は窓から身を乗り出して指をさして方向を示す。
「ありがとうございます!」
千尋はお礼を言ってその方向に向かって走りだした。
肌にぶつかる冷たい風を千尋は感じることが出来なかった。
ただただ楓の安否のことだけを考え、祈っていた。
「ねえ、どこで千尋くんと待ち合わせしてるの?」
疑いを知らぬ無垢なあなた。
まるで生まれたての赤ん坊のように恐れと危険を知らぬ危うい女神。
それがあなたなの。
「もう少しよ、ここの角を曲がって…ほらここ」
私たちは路地を曲がって更なる暗闇の中へ突入する。
光は1台の自動販売機から漏れる明かりだけ。
何匹かの蛾がその光を求め貪るように飛来している。
「ねえ藤島さん、本当に千尋くんはいるの?みんなでご飯を食べに行くんでしょ?」
ぼんやりと照らされた彼女の純粋な瞳が私を捕らえる。
誰もこないわよ、ここにいるのは私とあなただけ。
もう邪魔するものはいないのよ。
「好きだよ、楓」
私は彼女に抱き着き、壁に押し付けた。
自販機の光と月明りが彼女の顔の輪郭を頼りなく縁取って私だけに見せてくれた。
女神の顔は美しかった。
「ふ…藤島さん、何するの?」
不安そうにつぶやく彼女の垂れた目元は舐めたくなるほど愛おしい。
「藤島さんなんてやめてよ、ほたるって呼んで」
私はそう言ってさらに顔を近づけた、お互いの鼻先がくっつきそうになるほどに。
そしてこの瞬間初めて彼女の顔に恐怖の色が浮かんだ。
怖がっている表情も可愛らしい。
彼女は目を見開き、私の体を押し戻そうとする。
私はそれを拒んだ、絶対に離さない。
彼女は怯えながら私の美しい顔を見つめてこう言った。
「あなた…」
戸惑うような声を出す彼女に向けて私は優しく微笑んだ。
絡ませた腕を彼女の胸に押し当てて、ゆっくりとさすった。
「いや!」
彼女はは激しく抵抗した、女性にしては力が強い。
だが私のほうが力は強かった。
暴れる彼女を力任せに押さえつけ、唇を素早く彼女の顔に当てた。
唇には触れることは出来なかった、しかし彼女の弾力のある頬にその唇は当たった。
「やめて!やめてよ!」
性行為のように体をくねらせ、私は自分の頬を彼女の頬に擦り付けた。
スベスベとした肌に私の心は舞い上がった。
十分にその柔らかさと心地よさを味わった私は胸を掴んでいた手を離し、彼女の顎を強引に掴む。
両頬を力強く挟まれ、彼女の唇は突き出す。
私のキスを待つように。
「楓、あなたは私のものよ」
私は微笑み、美しい顔に自分の唇を近づける。
今は恐いかもしれないけど、大丈夫すぐ慣れるわ。
そして恐れは快楽に変わり、愛情に変わる。
2人で生きていきましょう、あなたは私に選ばれたのだから。
「貴様!何してる!?」
「え?」
私は声がした方を振り向いた。
顔はよく見えない、胴間声で叫んだ声は擦れて聞くに堪えない。
「千尋くん!」
彼女がそう叫んだ瞬間私は後方に弾き飛ばされた。
彼女が私を押し戻したのだ。
ふらつく足で倒れないようにふんばりながら、ドタドタという足音を耳に入れる。
そして「あ」を無意識に声を上げたとき、私は男に掴まれていた。
壁際に押し付けられている楓を見たとき、千尋の頭には怒りしかなかった。
血液と一緒に怒気が頭と心臓に運ばれたように、千尋の体は熱く燃え上がった。
興奮に任せて叫び、足に思い切り力をいれて駆け出した。
楓の体から離れてふらついている人物に掴みかかり、「あ」という間の抜けた声を無視して力任せに襟と一緒に首を締めあげた。
相手は抵抗して、力任せに千尋の拘束を解こうとする、もみくちゃに攻防を続けていると激しく動かした相手の肘が千尋の鼻に直撃した。
鈍い痛みと温かい血液がツ―と流れるのを感じ、千尋の怒りはさらに発火する。
おもいきり右腕を上げて相手の頬を張った。
相手は声を上げたが倒れなかった、そして自販機の矮小な光にさらされてようやく相手の全貌が把握できた。
薄汚い女神め、ついに正体を現したな。
千尋はもう1度張るために腕を上げた、女神は体を預けるように千尋に体重を乗せてきた。
うまく体が動かない、千尋は無理やりに体を引きはがそうと腕や足をめちゃくちゃに動かした。
「あぁぁ!!」
かん高い叫び声を上げながら、悶絶するように女神は地面を転げまわっている。
千尋はそれを見下ろした後、すぐに楓に近づいた。
「大丈夫か楓!?」
「千尋くん!」
楓は思い切り千尋の体に抱き着いた。
千尋もそれを受け止め、力いっぱい抱擁する。
「怖かったよ…千尋くん」
小さく泣きながら楓は言った。
千尋はその姿を見てさらに強く抱きしめる。
痛かったかもしれない、しかし今はこうしていたかった。
絶対に離したくなかった、彼女を抱きしめていたかった。
「怖かっただろう、もう大丈夫だから」
千尋は優しく楓の耳元で囁いた。
彼女は「うん」と嬉しそうに呟いた。
千尋は楓と手を繋ぎ、倒れている女神に近づいた。
彼女はまだ呻いている。
「腐れ神め、これは天誅だ、のぼせ上がった傲慢な精神に対する罰だ、正義は絶対にお前を許さない!」
千尋が息を切らせながらまくしたてても女神は応えなかった、小さく呻きながら片手で股間を抑えているだけだ。
千尋はその行動に違和感を覚えた。
確かにあの取っ組み合いで自分の膝が彼女にぶつかる感触はあったが、あのように悶絶する痛みではないはずだ。
そして千尋は気づく、彼女の髪が普通でないことを。
最初は見間違いかと思ったが、近づき目を凝らすことでそれは確信に変わった。
生え際が不自然なのだ、頭部だけがスライドされたような不自然さ。
そして疑問の点は直線に結び合った。
千尋の肝は冷え、嫌な汗が背中を伝った。
自分はとんでもないことに気づいてしまったのかもしれない。
「まさか…男か?」
女神は恨めしそうにに千尋を睨んでいた。
「なぜこんなことをした?」
千尋が問うと、女神はだった男は鼻で笑った。
「なぜって?」
「なぜ女装していた?なぜ楓にあんなことをした?答えろ」
千尋の怒りはかなり鎮火したとはいえ、まだ蝋燭に灯った明かりくらいの怒りはあった。
ノシノシと近づき、千尋は女神の髪を鷲掴みにして腕を上にあげた。
女神の長髪はまとめてとれた。
千尋は「天誅だ」と言った。
女神は丸めた頭で楓を見つめた。
その瞳には慈愛と羨望と嫉妬が入り混じっている。
「本当に美しい女性ね、楓さん」
「ありがとう」
「質問に答えるんだ」
倦んだ眼をして女神は口を開いた。
「…私ね、小さい頃から背が低くてなまっちろかったからみんなにいじめられたの、女みたいなやつだって」
女神は過去を回想するように微笑んだまま星空を見上げる。
「男どころか女の子にも相手にされなかったの、何度も独りで泣いたわ、そして高校を卒業してこっちに引っ越してきてね、そして気づいたの」
哀しそうに口元を歪ませ、女神は言葉を続ける。
「そう…私の美しさに…化粧のやり方や美容法について片っ端から勉強して試したわ、そして私は本当の美を手に入れて男と女、両方に崇められるようになった」
「それで男女問わず弄んだわけか?」
「そんな言い方ないじゃない、まあでも…忌まわしかったこの体が神様のプレゼントだったわけ、皮肉な話よ」
「それで女神になったわけだな?自分の欲望を叶えるだけの自分勝手な女神に」
「そういうわけね、でも与えられた才覚と美を私がどう使おうが私の勝手でしょ?」
「確かにね」
「…私のこと、みんなにばらすの?」
女神は問うた、その姿に焦燥はなかった。
あくまで優雅だったのだ。
「いやそんなことはしないよ、君がどう生きようが君の勝手だ、ただ今度楓に変な真似をしてみろ、我が同好会の総力を挙げて君に報復するからな」
「わかってるわ、もう楓さんには関わらない」
女神は楓のほうへ向き直った。
切れ長の目と緩んだ口元で彼女を見つめている。
「ごめんなさいね楓さん、怖かったでしょう?こんな気色の悪い男に好きになられて」
「ううん、気色悪くなんてないよ、だってほたるちゃんは綺麗だもん!」
楓は微笑んだ、女神も笑った。
「優しい人ね、本当に」
「そんなことないよ」
「まあ確かに綺麗なのは僕も認めるよ、でも女神というより君は怪物だね」
「怪物か…確かにね、醜くも魅力的なバケモノ…私にぴったりね」
「そんなこと言わないで、あなたは美しいよ、それにもっと自分のこと好きになってもいいと思う」
「私は自分のことは好きよ?」
「そうだよね」
「…意地悪な人」
「えへへ」
女神は喜びと悲しみを背負って相好を崩した。
そして楓に言葉をかける。
繊細なその声で。
「確かに私は怪物だわ、でもそれはあなたもなのよ楓さん、あなたも怪物なのよ、だって怪物が愛してしまった相手なんだから」
楓は「そうかも」と言ってこの星空のように美しい笑顔を2人に魅せた。
千尋の心は穏やかになる。
女神の言った言葉はあながち間違いではないかもしれない。
「さあそろそろ帰ろう、楓」
「うん!帰ろう」
「私はもう少しここにいるわ、頭を冷やしたいし」
「…わかった」
「それじゃあね、楓さん」
女神は小さく手を振った。
楓も手を振り返す。
「またね、ほたるちゃん!」
「石動くん」
「なんだい?」
女神は嫌らしく笑みを浮かべた。
「真の美を宿す芸術品は孤高な存在なの、誰の手にもわたってはいけないのよ」
「何を言っているんだ君は」
千尋と楓は歩き出した、暗い路地を抜けて街灯が照らす幾分か明るい道を歩いた。
2人で歩いていると手が触れ合った、千尋はその手を握りしめた。
楓は何も言わずにそれを受け入れる。
今の千尋の心には穴がぽっかりと開いていた、明確に理由は説明できない。
彼女にも同じような穴は開いているのだろうか?
微笑んだ横顔を千尋は眺めてみる。
いつもの彼女だ、愛おしく優雅で可愛らしい横顔。
千尋は心の違和感を埋めるために少強めに握り返す。
はっきりと表情には出さないが彼女は嬉しそうだった。
だんだんと彼女の感情の機微が読めるようになってきたのかな。
そんなことを考えていると、ふとお腹がグウとなった。
そういえば夕食を食べていなかった。
「楓、お腹空いたかい?」
「うん、お腹空いたな」
「今日は君が作ったカレーを食べる予定だったけど、蕎麦を食べてもいいかな?」
「うん!蕎麦食べるの初めてだなぁ」
「ありがとう、今日は天ぷら蕎麦の気分なんだ」
2人は歩く、月明りの下をゆっくりと。
繋いだ手はまだ離さない、少しくらい幸福を味わっていたっていいだろうと千尋は思った。
最初のコメントを投稿しよう!