妖精の編纂

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妖精の編纂

石動(いするぎ)千尋(ちひろ)は、首筋の皮膚の上に川のように流れる汗を感じてこう思った。 とても暑いと。 メラメラと惜しげもなく、己の体を燃やし続けるのは構わないが我々に過剰な重荷を与えるのは少し違うのではないか? 千尋は性悪な太陽と、こんな状態になるまで放っておいた考えなしの人類に対する恨み節をポエムとして心の中で唱えながら、人工的なアスファルトの上を歩く。 汗がしたたり落ちてきた、こめかみから肩にかけてスムーズに、なんの阻害もなく。 「まずいな…暑いよこれは」 周りには千尋と同様に奴隷の如くうなだれながら歩いているものがちらほらいた。 みんな死ぬ思いをしながら目的地に向かっているのだ、近くの古本屋に行くくらいなんだ、頑張るんだ! 千尋は自分を鼓舞して歩みを続けた。 千尋は歩き続けてアーケード街に到着する、人も多くなってきた。 その分熱気も倍増だ、トンネルのような構造のアーケードは熱気がこもりやすい気がするのだが気のせいだろうか。 ステンドグラスで色鮮やかに染められた天井の下にはたくさんのお店が並んでいる。 精肉店、八百屋、魚屋、惣菜屋、弁当屋、ここにくれば食べ物には困らない。 細々と長く経営している老舗が多いが、堅苦しさはなく千尋もご贔屓にしている。 大学生ということでたまに、商品をおまけしてもらえるのも大変助かっていた。 ともあれ今日はフードを買いに来たわけではない、ここにはお目当ての古書店がある、この店も古くからある老舗でかつほかでは売ってない珍しい本も取り扱っているので、数多くの稀覯本を千尋は入手してきた。 なので今日も宝箱に入った財宝を探しにやってきたトレジャーハンターの気分で千尋は店内に足を踏み入れるのだ! 「いらっしゃい」 「こんにちは、今日も暑いですね」 「うん、近頃さすがにおかしいよね」 「ええ、そろそろこの近くでも死者が出そうな勢いです」 「笑いごとじゃないのが怖いよ」 千尋は店主の翁と軽く会話を交わし、森のように生い茂っている本を眺める。 店内は冷房が入っているので千尋の汗は引いてきた。 しかし完全に汗が止まるまで千尋は本を手に取らなかった、汗が垂れて本が汚れる可能性があるからだ。 店内は割と広いが、それを感じさせないほど本が山積みなのであまり広さを感じさせない。 本当に乱雑に置いてあるので一度翁に「店内の整理をしてみたらどうですか?」と進言してみたが、「めんどうくさい、君がやりなよ」と一蹴されてしまった。 積まれた本を倒さないように、面白そうな書物を吟味しながら歩く。 いつのまにか珍本が仕入れられているのがこの本屋の面白いところだ。 一切の前情報は客には知らせられないが、その分己の力のみでこの大量の本たちから奇跡の一冊を掴みとるのは至上の喜びが存在する。 きびきびと店内を歩いていると、1人の客と向き合ってしまった。 「やあ石動くん、暑い中ご苦労、彼女は出来たかい?」 「いいえ、部長こそ理想の白無垢は現れましたか?」 「なんてことはない、今の日本じゃ処女は絶滅危惧種だ、幼稚園で無邪気に遊びまわってる子と籍を入れるのが確実だろう」 「確かに…恋に年齢は関係ないか、でも君が幼児と歩いている姿を奥様方が見れば確実に通報だね、ロリコンが性的嗜好に耽っているって」 「君は失礼だな、それにそういう考え方は下品だ」 「そういう可能性が大だと言っただけだよ、それに下品なのは部長だ」 「私が下品だと?失礼な」 目の前で成人漫画片手に眉間に皺を寄せている人物こそが、千尋が大学で所属する『成人本愛読組合』という同好会の部長だ。 いつも処女を追い求め、処女しか興味を示さず、処女だけが完璧で女性のあるべき姿だと豪語している人格者でもある。 ちなみにこの同好会は別に成人向け雑誌を嗜むグループではなく、20歳を越えた成人の読書が好きな同志たちが集まるグループである。 またちなみになのだがこの同好会を発足した我々の年齢が全員20歳だったのでこの同好会名になっただけであって、別に未成年でも歓迎なのだが、この卑猥な名前のおかげで新入部員は誰1人入ってこなかった。 いまだ発足メンバーだけで構成されている、悲しい話だ。 「タイプとプレイは?」 「処女と緊縛だ」 「好きだね、縄」 「君は黒タイツだろう?女の肌は褐色だ」 「黒タイツは好きだけど、褐色は別に好きじゃない」 「うむ?褐色は福崎くんだったかな?」 「早くレジに進んでくれ、僕は清らかな気持ちで店内を練り歩きたい」 「ふん、童貞め」 「下品な男だ、童貞はお互いさまだろう」 「また会おう」 部長はさっそうとレジに商品を持って行った。 翁は「好きだねぇ」と呟きながら料金を受け取った。 部長は翁に好きなタイプとプレイを聞いている。 恐ろしい男だ。 千尋は肌を粟立たせながら、宝探しを続行する。 小説、漫画、成人漫画、雑誌、参考書、専門書、辞書、様々なジャンルの本が一応店内でカテゴリー分けされて本棚に並べられているが、どうにも信用出来ないことが多々あるのだ。 小説のコーナーにイギリスの観光名所を紹介した雑誌や有名なギャグマンガが積まれていたり、『解説!脳のメカニズム』と題された専門書の横に『未亡人、献身びしょぬれ介護』という官能小説が押し込まれてあったりと翁の鷹揚さと無責任さをこの身で味わえる。 ありがたいかぎりだ。 しばらく店内を物色し、目に留まった気になる書籍を立ち読みしていると、翁がハタキで書物のホコリを落とし始めた。 「店長、前から気になってたんですけどこの本たちってどこから仕入れてるんですか?」 「そうだねぇ、お客さんが売りにきたのを買い取ったり、知人のいらない本を譲り受けたり…僕が読み終わっていらなくなった本を店に並べるね」 「そうなんですか、けっこう珍しい本もあるのでちょっと気になったんですよ」 「そうかい、石動くんは本が好きだからね、同じ本好きとしてたくさん買ってもらえてうれしいよ」 「こちらこそお世話になってます」 「君のお友達はエロ漫画しか買わないけどね」 翁がそう言ったので、千尋は思わず噴き出した。 一応すみませんと笑いながら謝罪すると、翁も笑顔になってほこり落としを再開した。 千尋も立ち読みに戻り、本の世界を探索する。 「…こっち」 「ん?何か言いました?」 「え?言ってないけどなんで?」 「あれ空耳かな、すみません」 「気にしないで」 確かにこっちと聞こえたような気がするが、千尋は気にしないことにした。 おおかた日頃のストレスと疲れが溜まっているのだろう。 今度なけなしの貯金を崩してマッサージでも行こうかな。 「こっち…」 「…いや、聞こえるな」 確かに声が聞こえた、しかもその声色は翁の低く明るい声ではない。 女の声で、か弱い印象だ。 千尋はキョロキョロとあたりを見回した。 女性らしき人影はない、なにより千尋以外の客がいない。 これはどういうことだ?と千尋が頭を悩ましていると、またあの女の声がする。 「こっちよ…」 今度ははっきりと声がしたおおよその方向までわかった。 またもや千尋の肌は粟立つ、恐怖を感じているのだ。 なぜ馴染みの店で怪奇現象に遭遇しなければならないのか。 千尋は翁の姿を盗み見た、平気な顔をして欠伸をしている。 彼には声は聞こえてないのか?もしかして自分にだけ聞こえている? いや翁の耳が遠い可能性もあるか。 「こっちよ…お願い」 お願いと女性の声で言われたので、千尋の心の中には奇妙な正義感が生まれた。 千尋は紳士だ、心に決めた女性はいるが、女性には基本優しくする。 尊敬する祖父が言ったのだ、「おなごにはまず優しくしろ、そしてロクでもない女ならお前が矯正してやれ」と。 千尋には女性と接する機会があまりないので、女性を自分好みに矯正したことはないが、出会った女性には精神誠意の態度を見せてきたはずだ。 「こっちよ…」 わかったよ、と小声でつぶやき千尋は声のした方向に歩き出す。 何度かのこっちよ、という声に誘われて千尋は店内の奥深くの角で立ち止まった。 心なしかここは暗い、蛍光灯の明かりが届いてないのだ。 ほかの場所と同じように乱雑に本棚に詰め込まれたり、積み立てられている本を入念にチェックして声の主を探している。 見つからない、当然だ。人の隠れる場所などない。 小鳥のさえずりのような声も聞こえなくなった、やはり幻聴だったらしい。 今度精神科に行ってみるか、などと千尋が自嘲気味に考えていると1冊、なぜか目を惹く書物があった。 本棚にほかの本と同じように押し込まれている1冊に過ぎないのに、千尋はそれを手に取った。 背表紙にはタイトルは表示されていない。 全体的に埃をかぶっていたので、それをサッと手で払う。 外装は深緑のハードカバーで重厚感があった。 表紙には妖艶な羽の生えた薄黄色の女性が描かれている。 それを見て千尋は純粋に美しいと思った。 心を奪われたのだ、この本に描かれた1つの絵に。 30秒ほどその絵に見惚れて、ハッと我に帰った後に千尋は表紙上部に書いてあるタイトルを見た。 「ピクシー…ガーデンかな?」 『Pixie・Garden』と褪せた金色で綴られた題名から、描かれた女性は妖精だということが分かった。 千尋は様々な本を読み漁ってきたので、専門家とまでは言えないが妖精についての幾分の知識は持っている。 もっとも妖精自体が創作物なので、本によって描かれ方も、性質もかなり変わってくるのだが。 とりあえず中を見てみよう、千尋は適当なページを開き読んでみた。 読んだ瞬間、千尋は気後れする。 「…英語じゃないかこれ」 本に綴られている文章は全て英字だ。 千尋は英語が苦手なのでまったく意味が分からない。 普通の書籍ならここで大人しく本棚に戻す千尋だが、今回は違った。 表紙の妖精に魅入られたのだ、本は棚には戻さずページを閉じて両手で持つ。 値段はいくらだ? そう思った千尋は本を裏返した、いつも本の裏に値段の書かれたシールが貼ってある。 「うっ…」 本の裏に貼られている1500円と書かれたチープな値札を見て顔をしかめる。 高いのだ、貧乏学生である千尋には1000円を越える本を買うことはすなわち財布の衰弱を意味する。 千尋は懊悩して値札を睨みつけた、こうしていると300円くらい値下がりそうだからだ。 買わないという選択肢は今の千尋にはない、この描かれた妖精は艶美すぎる。 しかたない、千尋は恐る恐るレジに向かう。 レジには本のホコリを落とし疲れて休憩している翁が座っていた。 出来るだけニッコリとした顔を作って千尋は話しかけた。 「店長、この本が欲しいんですが」 「はいはい」 翁は千尋から本を受け取り、値札を見る。 「1500円だね」 「あ、いや…その…その本は1500円なのでしょうか?」 「え?」 「もう少し値段が下がっていただけたらという僕の望みが叶うというわけにはいかないということでしょうか?その1500円はテコでも動かない不変のお値段ということでもないんでしょう?」 「…ああ、値切ってるわけか」 「有り体に言えばそうなりますね…」 「そうだね、うーん、わかった安くしましょう!」 「本当ですか!?」 「君にはご贔屓にしてもらってるし、今まで値切るなんてことはなかったからね、たまにはいいだろう」 「ありがとうございます!」 千尋の顔はパッと明るくなった。 心も顔も晴天である。 「よっぽどこの本が気に入ったんだね、そうだな…500円でいいよ」 「ええ!?」 千尋は困惑した。 ここまで価格を下げられると逆に申し訳ない。 「500円って3分の1ですよ」 「いいよ、どうせ古本だし」 千尋は恐縮しながらも500円玉を翁に手渡した。 本を千尋に渡し、ありがとうございますと翁は言う。 「それにしても綺麗な絵だね」 翁が感心したように表紙を眺めた。 「はい、僕もそれが気に入って買うんです、中身は全然分かりませんから」 翁は訝るように千尋を見つめた。 困惑しているのだろう。 「中身がわからないとは?」 「文章が全部英語なんです」 「本当?見せてもらってもいい?」 千尋は、「はい」と言って手に持った本を手渡した。 翁は「本当だ」と漏らし、納得したように本を返す。 「読んでみる気はないの?」 「この本を?無理ですよ、僕英語出来ないですし」 「そうか、まあいいさ」 「ところでこの本ってどこで入手したんですか?」 「全然覚えてないな、ごめんね」 無理もない、これほどまでの大量の本を取り扱っているのだ。 1冊1冊覚えるなんて無理だろう。 千尋は「いえいいんです」と言った後、お礼を言って頭を下げた。 「また来ます、今度はもう少し涼しい時間に」 「それがいいよ、熱中症になんかなったら大変だからね」 「はい」 千尋はそう言って店を出た。 凝縮された熱気が千尋を歓迎する。 クラりとよろめきそうになる体を気合いで支えながら、千尋はトボトボと我がアパートに向けて歩き出した。 この時点で千尋は奇妙な声の存在を綺麗さっぱり忘れていた。 ワンルームアパートの部屋で千尋は服を着替えていた。 汗でびしょびしょになったTシャツやズボンが嫌らしく肌に張り付いている。 それらと下着を脱いで、千尋はまっ裸になった。 浴室に入り、シャワーで体を洗い流す。 洗い終わると体をタオルで拭き、新しい衣類に着替える。 それにしても近頃は衣類の消費スピードが異常である。 千尋は細身だが元々汗をかきやすい体質で、夏場はすぐに汗水塗れになる。 忌まわしい体質だ、千尋はサッパリした体で小さな冷蔵庫の中に入っているビールを取り出して一気に飲んだ。 プハーッとお決まりの声を出して、缶を持ちながら部屋の中を物色する。 今日読む本を選ぶのだ、昨日まで読んでいた本は読み終わったのである。 部屋の中を見渡してみると相変わらず汚い。 万年床の回りにある小さな3つの本棚にはぎっしりと本が詰まっていて、他にも乱雑に置かれたいくつものダンボールの中にも多くの本が入っているし、棚にもダンボールにも入りきらない本は新聞紙を敷いてその上に雑多に積まれている。 なんとか整理しようと思って大きな本棚を買う計画を立てているのだがいかんせん金がない。 この計画が達成されるのはまだまだ先のことだろう。 ダンボールの中から本を適当に1冊取り出し、布団のそばにある丸机に本とビールを置いた。 親戚から譲り受けた小さな液晶テレビの電源を机の上に置いてあるリモコンでつけようと思ったがやめた、今日はゆっくり読書しよう。 時計は午後4時を指していた、外はまだ相変わらず暑いのだろう。 部屋にはエアコンが備え付けてあるが千尋はつけない、電気代がかさむからだ。 すぐ近くに置いてあるリサイクルショップで買った扇風機のスイッチを入れた。 涼しい風が千尋を包む。 「そうだ」と呟き、さっき買ってきた妖精の本をカバンから取り出した。 それをじっくりと観察する、見れば見るほど虜になりそうだ。 「…なぜ君はそんなに美しいんだ、僕には好きな人がいるが、君を見てるとその心が揺らぎそうだよ」 そう言って千尋は急に恥ずかしくなってきた、何を気色の悪いことを独りで呟いているんだ。 本を机の端に置いて、ビールを飲みながら読書を始める。 この本をいつ読んだかは忘れたが、なかなか面白い内容だった、楽しみだ。 千尋はちょっぴりワクワクしながら読書を始めた。 集中して、活字を読む。 「お願い…」 千尋にはその声は聞こえなかった、集中している千尋には扇風機の音も外から聞こえる大衆のざわめきも聞こえない。 「お願い…お願い」 「…ん?」 「お願い…」 「うわぁ!」と言って千尋は本を宙に投げた、自身の体も後方に転がる。 「な、なんなんだ!そういえば店でもこの声が聞こえたぞ!ほ、本当に僕はおかしくなったのか?」 「助けて…」 助けてと聞き、千尋は怯えながらも心の正義感がマッチの火くらいには燃えた。 「な、なんなんだ君は、助けてとはなんだ」 「本…助けて」 「ほ、本だって?」 千尋は机に置かれた書籍を見た。 今日買ってきた妖精の本。 まさかこの本が助けを求めているのか? 千尋は頭をくしゃくしゃと掻き、頭を整理しようとした。 「助けて…助けて」 「た、助けてって言ってるけど、具体的に僕は何をすればいいんだ?」 「…破って」 「や、破る?何をだ?」 「…本を…破って」 千尋の頭はだんだんと冷静になってはきた。 だが心臓は激しく跳ね続け、冷や汗が身体中から漏れている。 またもやびしょびしょだ。 「破るって…この本か?」 千尋は恐る恐る机の本に近づき、手に取った。 『Pixie・Garden』と題されるこの本の内容はまったく分からない。 小説なのか紀行文なのか、妖精の生態に関する解説書なのかすら今の千尋には分からない。 この本を声の主は破ってくれと言っているのか? 「…この本を破ればいいのかい?」 オドオドと聞く千尋に謎の声は反応しない。 代わりに本のある1ページが激しくうねりだした。 なんの力も加えていない紙がバザバサと暴れるようにその文字の書かれた体をくねらしている。 「な、なんなのだ!」 今度は宙にほっぽり投げなかったが、千尋のメンタルはすでにボロボロだった。 流れそうになる涙に耐えながら、動いている紙を見つめる。 「破って…」 「この動いているやつをか!?触りたくない!」 「破って…」 千尋は限界だった、冷静になりかけた頭もすでにパニックだ。 台風にさらされたように暴れるページを眺めながら、千尋はどうしていいか分からなかった。 彼の理解を超えたのだ 「破って…破って」 「う、うるさい!この紙に触るのは君ではなく僕なんだぞ!人ごとだと思って!」 「破って…破って…破って」 「うぅ…分かったよ!」 千尋はどうしていいか分からなかったのでヤケクソ気味に動くページを片手で掴んだ。 掌の中でも激しく抵抗している。 千尋は大声を上げながら、力一杯引き抜いた。 ビリビリと破れる音が部屋に響き、勢いをつけすぎた千尋はまた後方に転がった。 手には動かなくなったページが握られている。 汗まみれの体をゆっくりと起こしながら千尋は本を見た。 その瞬間、本は金色の光を放ち、部屋を照らした。 本はガタガタと動き、眩しい明かりだけが千尋の目を染める。 「今度はなんだ!」 千尋は右腕を目の前に持っていき、本の光を遮った。 幾分見やすくなった前方を、目を細めながら観察する。 光は粒子のようになり、人間の形を型どっていく。 「な、なんだ?」 本から溢れ出る金の粒子は腕を、手を、足を、胸を、頭を。 肉眼でもはっきりわかるほど正確に型どる。 女性だ、千尋はその大きなおっぱいを見て確信した。 この粒子は女性を創ろうとしているのだ! 千尋はなんとかしようと思ったが、その手段も方法も思いつかない。 尻餅をついたままその有様を眺めていた。 長い時間が経った気がする、だが時間にして約2分ほどの後に本の光は収まった。 女性を型どった粒子の金色の光は失われ、そこに現れたのは普通の女の子だ。 優しそうな表情で立ったまま千尋を見つめている。 千尋は声は出なかった、体感だがこの時は確実に心臓は止まっていた。 頭が真っ白だ、声も出ない。 当然のように立っている女性は微笑みを浮かべながら嬉しそうに千尋を見ている。 「おい!うるさいぞ!」 隣のおじさんの声と壁を殴る音で、千尋は我に帰った。 そしてようやくのことで声帯が活動を始めて声を出すことが出来た。 「君は…誰だ?」 「妖精だよ!」 ニッコリと太陽のような笑顔ではっきりと言い放った彼女に、千尋は口をあんぐりと開けることしか出来なかった。 千尋は混乱した。 今自分が取るべきベストな行動は何か、そればかりを考えてはいるが、やはり思いつかない。 とりあえず立ち上がって、妖精と名乗ったこの女性を観察してみる。 身長は高い、176センチある千尋とあまり目線は変わらない。 目算だが彼女の身長は172.3センチはあるだろう。 顔はどうだ?かわいい。 肌は比較的白く、目はタヌキのように垂れてはいるが、優しい安心感と母性を感じる。 口元も常に微笑を思わせるように口角がやや上がっているが、ヘラヘラしているというわけでもなく、どんな人間も包み込む慈愛の精神を感じさせるような口元だ。 髪はやや青みがかった黒で、くせ毛のボブショートの髪型が落ち着いた印象を与える。 体つきはいやらしくはない。 が健康的ですらっとした身躯はまるでモデルのようだ、おっぱいは大きめで尻は小さい。 太ももは少し太めで、安定感を感じる。 衣服はシルクの白いワンピースを着ている、靴下も靴も履いてはいない。 ブラジャーとパンツはわからない、確認させてはもらえないだろう。 こんなことを考えていると千尋の脳みその血管に血がスムーズに運ばれてきた。 固まっていた思考が、だんだんとほぐれてくる。 深呼吸を1度して、彼女の顔を見つめた。 千尋は女性と接するのは得意ではないが、自慢の紳士体質からどんなに美人な相手でもしっかりとハキハキ、目を見て喋ることができるのだ。 「君はなんだ?」 「妖精だよ」 「それは聞いた、あの…だから」 妖精は首を傾げながら「ん?」と呟いた。 その仕草はえらく可愛らしい。 「えっと、君は本から出てきたのだろう?あれ?違う?」 「そうだよ」 微笑みながらおっとりと上品に喋る彼女を見ているとなぜかこっちのペースが崩される。 いけないいけない、ちゃんと喋るんだ。 「ああ…なるほどね、だからその」 千尋はこういった突発的な出来事に非常に弱く、頭が回らなくなってしまう。 しどろもどろと言葉が口の中で遊ぶだけだ。 適切な言葉はいつだって出てこない。 「ああ…ごめん僕頭が悪くて、適切な言葉が思いつかないんだ、ちょっと待って」 「ゆっくりでいいよ、自分のペースで」 女神のような言葉をかけてくださるこの女性に千尋は一瞬気を許しそうになったが、すぐに引き締めた。 この女性がまさに今自分を悩ましている張本人だということに気がついたからだ。 また一息呼吸を挟み、質問を投げかけてみる 「君はなんなんだ?人なのか?違うのか?詳しく教えてくれないか、なんでここにいる?君は誰なんだ?」 自分で言っててまた混乱してきた、頭の中で整理して話せないのか自分は? ほとほと己に嫌気がさす、人はいつでも賢くありたいものである。 「えっと、自己紹介をお求めですか?」 「自己紹介?ああ、そうだなそれがいい、自己紹介をしてくれ」 自己紹介、彼女から提案されたものだがなかなかいい考えではないか? 自分が質問しなくても相手が己のことについて喋ってくれるのだから。 自分は耳を澄まして黙って話を聞いていればいいのだ。 「そうだなぁ…私はさっきも言った通り妖精なんだ、人間じゃないよ、昔のことはよく覚えてないんだけどあの本で生まれたことは覚えてる、そしてあなたがあの本から私を解き放ってくれたの、ありがとうね!」 可愛らしい声でそう言った後彼女は笑った。 千尋は彼女の自己紹介を聞いて分かったことは皆無だった。 一体全体何を言っているのだろう、確かに彼女は何もない空間に突然粒子とともに出現したが、本から生まれて本から解き放たれたとはなんだ? 千尋の頭脳では今起こっている現象の理解が出来ないのであった。 「一応どういたしまして…なのかい?まあいい、それで君は本で生まれて、僕が本の1ページを破ったから君は封印が解けて僕の目の前にいると…そういうことかな?」 「そうだね!」 「まるでおとぎ話だ…」 千尋はまじまじと目の前に立っている彼女を見つめた、今までいろいろなファンタジー小説や怪奇小説を読んできたが、いまだに信じられない。 彼女は相も変わらず微笑んでいる。 「…触ってみてもいいかい?」 「いいよ」 彼女は千尋に向けて手を伸ばした、千尋はその掌を握る。 体温はある、温かい手だ、血は通っているのだろう。 感触はまるで餅のようで、柔らかくすべすべしている。 そこで千尋は「しまった!」と心の中で叫んだ。 手汗を拭くことを忘れたのだ、さっきの騒動で汗かきの千尋の手はびしょびしょだ。 これは相手に対して失礼だ、それも女性だと特に。 「すまない…手汗を拭くのを忘れた、今すぐ拭かせてくれ」 彼女はもう一方の手も使って、千尋の手を包んだ。 女性の柔らかい両の手で触れられた千尋は流石に赤面した。 千尋には女性経験に乏しいのだ。 「いや本当に拭かせてくれ、君も不快だろう?」 「不快だなんて、私をあの本から出してくれた人に不快だなんて思うわけないよ」 「いや…しかし」 「ねえ…もう少しこうしていたいな」 千尋の顔は梅干しになった。 こんなセリフを女性から言われたのは初めてだったのだ。 小学、中学、高校、大学に入っても入学してもこんなうれしい言葉は贈られたことはない。 だからこそ… だからこそ千尋はその手を振りほどいた。 名残惜しい、それは事実であり真実である。 妖精の麗しき君は唖然とした表情を浮かべ、千尋を見る。 千尋は何とも言えぬ感情を吐露できず、下を向いた。 彼女には悪いことをした。 「すまない…とりあえず座ろう」 千尋は彼女に座るように促し、2人は丸机を挟んで向かい合うようにして腰を下ろした。 千尋は1度腰を下ろした後で「お茶をいれよう」と言って、冷蔵庫の麦茶を2つのコップに注いで、机に置いた。 彼女は「ありがとう」と言って口をつける。 「こっちの世界の食料は飲み食いできるのか?」 「うん、初めて飲んだけど美味しいね」 「その…本の中での食事はどうしてたの?」 「本の中にいたときは、食べ物とかの概念がなかったから」 「そういうものなのか…」 千尋は麦茶を口につけた、これから何を聞こうか。 そんなことを頭の中で考えながら。 「今から君に色々聞きたいんだが、構わないか?」 「もちろん!なんでも聞いて」 「そうか、なら聞く前にさっきのことを謝らせてくれ」 妖精は不思議そうな顔をして、千尋は申し訳ない顔をした。 千尋は女性に紳士だが、慣れているわけでもないし、さらに貞操観念も強い。現代の男や女は、とりあえず付き合い、とりあえず色事に興じるのが世の理であるが、千尋はその風潮には断固賛同していない。 反骨精神溢れる童貞的な思考と感性は、誰に唆されても曲げる気はない。 なので先ほどの手を繋ぎ、尚且つもう少しこうしていたいだのと破廉恥なことを言われるとどうしても耐えられなくなるのだ。 彼女にはそんな意図は毛頭ないのは、なんとなく分かっているが、この呪われた体質は有無も言わさず拒否反応を起こしてしまう。 千尋はこれらの己の性質から先ほどのような無礼を働いたのだということを彼女に説明し、謝罪した。 彼女は当然のようにその謝罪を受け入れた。 「いいの、私も考えが浅かったみたい、こちらこそごめんね」 「君が謝る必要はない、こっちがみじめになる、さてじゃあ色々と質問させてもらうよ」 「うん!いいよ」 千尋はもう落ち着いていた。 本の中から人が出てきたが、それはもう気にしないことにした。 本の中にいて、封印を自分が解いたから妖精が現れたのだ。 不思議なことはない、封印を解いたら妖精くらい出てくるさ。 「どうして僕に助けを求めたんだ?あの本屋なら多くのお客が毎日訪れるだろう?」 「私の声はね、誰にでも聞こえるわけじゃないの、いつも色んな人に話しかけてたんだけど、聞いてもらえなくて…」 「なるほど、じゃあなぜ僕には聞こえたんだろう?」 「うーん…相性、かな?」 そう言って彼女はニコッと笑った。 眩しい笑顔だ、千尋もつられて笑顔になる。 「相性か、それは嬉しいな、さて…次の質問は…そうだな、なんで本の中にいたの?」 「私本の中で生まれたの」 「本の中で生まれたとは?」 「そのままの意味だよ」 「本の中に母親もいるのか?」 「いないよたぶん、覚えてないの、気が付いたら本の中に独りでいたの」 「…独り?」 「そう、狭くて暗い場所に私独りだけ…長い時間を独りぼっち」 その言葉を発して妖精は初めて明確に表情に翳りを帯びた。 千尋はその顔を見て、彼女の苦しみが計り知れないものだと察した。 千尋は口が上手くはないが、悲しんでいる女性に黙りこくってられるほど出来た人間ではない。 「寂しかったんだね、ずっと独りで」 「うん…寂しかった」 「…泣いてもいいんだよ」 「じゃあ…あなたの胸貸してもらってもいい?」 「もちろんさ」 千尋は即答した、彼女の傍らに近づき、その体をそっと、優しくそして軽く抱きしめた。 思い切り抱きしめるような野暮ったいことは千尋はしない。 千尋にとって初めての女性との抱擁だったが、千尋は何も考えなかった。 少しでも不埒なことを考えると彼女に心臓の鼓動が聞こえると思ったからである。 彼女が味わってきた苦しみ、孤独があるがゆえの悲しみだけを想像して、目を瞑る。 彼女は千尋の胸にしがみつき、ちょっぴり泣いた。 いい女は大泣きなんてしない、心を許した相手の前で数滴の涙を零すだけだ。 果実のようなふわりとした香と、柔らかい身体を感じながら彼女の抱きつく力が強くなるのを感じる。 千尋は想像力が人より豊富だ、だから彼の心は今彼女の苦しみを共感し、震えている。 僕は彼女に何をしてやれるだろうか、千尋は自然にそう考えた。 千尋があれこれ思索にふけっていると、彼女は千尋から体を離した。 「もういいのかい?」 「うん、大丈夫」 そう言って笑う彼女は強さに満ち満ちていた。 千尋は尊敬の念を彼女に抱き、彼女の顔を見つめた。 もう千尋の心に彼女に対する猜疑心や不信感は完全になくなっていた。 「今日はもう休んだほうがいいよ、疲れただろう、君に対して聞きたい事はまだあるけどそれはおいおいということにしよう」 「うん、ありがとう」 「目が濡れているよ」 千尋はハンカチを探したが、この汚い室内にもちろんハンカチなんてものはない。 机にあるティッシュペーパーを目をつけたがこれは流石にロマンティックではないだろう。 仕方がないので、自分が着ているTシャツで彼女の涙を拭いた、そしてすぐに後悔した。 Tシャツは冷や汗で濡れていたのだ、千尋はすぐさま彼女に謝る。 彼女はクスクス笑っている、なぜ自分はこうもきまらないのか。 「それにしてもこの部屋汚いね、本がいっぱい」 「男の独り暮らしなんてこんなものだよ、それに君は意外に失礼だ」 「ごめんなさい」 手で口元を隠しながら上品に笑う彼女は可憐だった。 そして千尋はふと思った。 「君、どこに住むんだ?」 「え?ここに住むつもりだけど」 「なんだと、それはダメだ」 「どうして?」 「さっきも説明した通り僕は高潔な人間だ、お付き合いもしていない、それも今出会ったばかりの女性と同棲なんてことは出来ない」 「素敵な考えだと思うよ…でも」 彼女は俯いた、そうだ、彼女には頼れる人間どころか知っている人間が自分しかいないのだ、それに金銭だって持っていないだろう。 今自分がこの部屋から追い出せば、夏とはいえ夜の暗い道端で眠ることになるかもしれない。 それは絶対に出来ない、千尋は考えた。 ではどうするか?知り合いの家に泊めてもらうか? いやどう説明する気だ、本から出てきた女の子の妖精の世話をしてくれなんて親にだって話せない。 かといって彼女のために部屋を借りてあげられる経済能力なぞ今の千尋くんにはない。 千尋は美しい妖精を眺めた、彼女もそれに応えるように千尋の目を見つめる。 千尋はしばらく頭を悩ましたが、ナイスアイデアは浮かばなかった。 「仕方ない」と千尋は呟き、自分のポリシーをまた曲げた。 「わかったよ、ここに住むといい、君の新しい住処が見つかるまで」 「本当に!?」 満天の星空も、晴天の青空も美しいが。 君の笑顔には勝てないよ。 千尋は彼女の嬉しそうな表情を見てそう思った。 「ああ、曲がりなりにも僕が君をこの世界に連れ出してしまったんだ、無責任な対応はできない」 「優しいんだね」 「そんなことはない、それよりこれからどうしようか、それを考えていこう」 「その前にあなたの名前を教えてよ」 千尋はそう言われて自分の名前を教えていないことに気づいた。 色々な突拍子もない出来事の連続だったので自分の名など伝える暇などなかったのだ。 「そういえば言ってなかったね、千尋だ」 「千尋くんか、いい名前だね」 「そうかい?そうでもないと思うが」 「千尋にはとても長いとかとても深いって意味もあるし、優しさとかっこよさが底抜けの千尋くんにはぴったりだと思うな」 「買いかぶりすぎだ?それによく言葉の意味なんて知ってるね」 「うん、なんか知ってたかも」 「そうかい、まあいいさ、とりあえず今日の夕飯は何にしようか」 「私ご飯食べたことないな」 「そうだったね、ごめん、じゃあ今日は奮発して親子丼にしよう」 「親子丼?美味しいの?」 「卵と鶏肉と白米の料理だよ、美味しい」 「そっかぁ、楽しみ!」 「涼しくなったら買い物に行ってくるよ」 「私も行きたいな」 「別にいいが…」 「やった」 千尋は微笑んで財布の中身を確認した後、立ち上がって無造作に放置されている本たちを片付け始めた。 「なにしてるの?」 「こんなに適当に床に本が置いてある部屋じゃ流石に狭いだろう、2人なら尚更ね」 「私も手伝う!」 無邪気に床に置いてある本を彼女はせっせと集め始めた。 千尋は雑に本が押し込まれているダンボールの中身を出し、丁寧に整理し始めた。 少しでも箱からあぶれた本を収納するためだ。 しばらく最後のダンボールを整理していると、自分がまたもや汗だくになっていることに気づいた。 本当に忌々しい体である、首に柔らかいものが当たった。 なんだ?と思って振り返ると彼女がタオルを自分の首に当てていたのだ。 「お疲れさま、少し休まない?」 「ありがとう、でもこの作業を終わらせてから休むよ、そのタオル貸してくれないか」 彼女は千尋の言葉を無視して、汗ばんだ額をタオルで拭いた。 優しく、丁寧に額から、頬、顎、首に移行していく。 「もういいよ、ありがとう、後は自分でやるよ」 「ダメ、私がやるからじっとしてて」 悪戯っぽく言う彼女に千尋は苦笑いした。 首を拭き終わった彼女は、腕を拭き始めた。 「いや本当にいいよ、悪いし」 千尋は少し強引に彼女の持っているタオルを取り上げようとした。 しかし彼女は離さなかった、妖精は力が強いらしい 「おい、いい加減にしないか」 「そんなに恥ずかしがらなくてもいいのに、ここには私たちしかいないよ」 「別に恥ずかしがっているわけじゃない、こういうことは…」 そこまで千尋が言いかけて、彼女はニヤリと笑った。 「こういうことは千尋くんの高潔なポリシーに反するの?」 「バカにしているな?そういうことじゃない」 「じゃあどういうことなの?」 千尋は言葉に詰まった。 女性に汗ばんだ体を拭いてもらうことは破廉恥なことなのか。 千尋はその微妙な線引きについて悩まされた。 難しいジャッジだ、ニコニコと見つめる彼女が待ちくたびれているように感じて、千尋は彼女に体をゆだねた。 彼女は嬉々として千尋の体を拭き始めたのだ。 「君はまったく汗をかいていないな」 しばらく汗をタオルで撫でてもらって、千尋は彼女がじんわりとも汗をかいてないことに気づいた。 いくら窓を開け、扇風機をつけているとはいえこの狭い部屋で動き回ればどんな人間でも汗をかくと思うのだが。 「うん、私あんまり汗かかない体質みたい」 「羨ましいな、僕はこのザマだよ、特に今みたいな夏は酷いものさ」 「代謝がいいんだよ、長生きするよ千尋くんは」 「それはあんまり関係ないんじゃないか?」 うふふ、と彼女は笑った。 そろそろ作業を再開しようとした千尋はある重大な問題について気づいた。 向かいあった彼女の瞳をのぞき込む。 垂れた目じりがかわいらしい。 「なに?何かついてるかな」 「…君の名前を聞いていなかった」 「そういえばそうだね」 「君の名前はなんていうんだ?教えてくれ」 「ないよ」 千尋は目を細めて名無しの権兵衛を見つめた。 当の本人はからかうように口元に笑みを浮かべている。 「嘘はやめたまえ、じゃあ君のことはなんて呼べばいい?名前がないんだろう?」 「本当だよ、私には名前がない、そもそも本の中じゃ私独りだし名前なんて必要なかったからね」 そう言われて千尋はその通りだと思った。 己の配慮の無さに情けなくなる。 「そうだったな…すまない」 「いいんだよ」 さっぱりと言い放つ彼女とは裏腹に千尋の心は複雑だった。 しかしこのまま名無しというわけにはいかない、彼女の呼び方を考えなければ。 「では君のことはなんと呼べばいい?」 「うーん…妖精でいいよ」 「それはダメだ、君は君という一個人だ、妖精なんて種族名で呼ぶのは失礼だろう」 「じゃあ千尋くんがつけてよ、私の名前」 「いや、それはどうだろう」 「そうしてくれると私は嬉しいな」 千尋は頭を掻いた、彼女は期待を帯びた瞳をキラキラとさせている。 困ったものだ、自分が女性に名前をつけるなんて大それたことをやってしまってもよいのか。 「だが僕にはあまりそういったセンスはないよ」 「千尋くんが考えてくれた名前なら私なんだって嬉しいよ」 「そういった信仰じみた考え方は改めたほうがいい」 「いいじゃない、ね!お願い!」 こうまで彼女に懇願されると千尋も嫌とは言えなかった。 複雑な気分だが、千尋は彼女の名前を考えることにした。 「そうだねぇ…妖ちゃん…いや違うな…ふぇあり…フェリーちゃんってのは…いや君はどうみても日本人顔だな…難しいぞこれは」 「頑張って!」 「他人事だな、君の名前なんだぞ」 「私フェリーちゃんでもいいよ」 「ダメだ、ちゃんと考えるよ…そうだな、楓«かえで»…いや違うな」 「楓ちゃんかぁ…かわいいね!私楓がいいな」 「いや…その」 「ところで何で楓なの?今秋じゃないし…単にもみじがきれいだから?」 「いやまあ…うん」 「…何か理由があるの?」 彼女は千尋の目をのぞき込んだ、さすがの千尋も目を逸らしてしまい、終いにはモゴモゴと口を動かし誤魔化していたが、彼女のまなざしにすぐに観念した。 「初恋の人の名前だ…僕の」 そう言って千尋はすぐに後悔した、客観的に見れば今の自分は本当に気持ちが悪いだろう。 彼女はキョトンとして口を少し開けているそのかわり目はいつも通り垂れたままだ。 そして開けた口を歪ませて、千尋の顔に自分の顔を近づけた。 思わず千尋は赤面しそうになる。 「な、なんだ…」 「いいね、ますます気に入っちゃいました、私のことは楓って呼んでね」 「え?いやでも君も嫌だろう…」 「ねえ、千尋くん」 「なんだい?」 「楓って人のこと、まだ好きでしょう?」 千尋の心臓がビクンと跳ねた。 彼女は「やっぱり」と言って妙に色っぽい仕草で自分の腕を撫でた。 そして垂れた目をさらにトロンとさせて首をかしげる。 千尋は生唾を飲み込みながらそれを見ていた。 自分の恋を遠い過去に置いてきたことをなぜ見破られたのか? おそらく顔に出たのだろうと千尋は推測する。 「私、千尋くんのことが好きだから、欲を言えばね、千尋くんにも私のことを好きになってほしいの」 「ぼ、僕は君のことは好きだよ」 「ありがとう、でも恋愛感情じゃないでしょう?だから好きにさせてみせる、あなたの好きな人を越えたいの、楓って名前にしたいのは簡単に言えば決意表明だね」 それを聞いた千尋は心臓を激しく動かしながらも違和感を感じた。 ぼんやりとした目元を細める、その性犯罪者のような目で彼女を見つめる。 眉間には微かに皺が浮き出ていた。 「なぜ君はそこまで僕に固執する?自分の住処を気にしての媚態なら不必要だ、僕はこう見えても自分に課せられた責任は果たす、君が落ち着くまではいつまでだろうと面倒を見るつもりだよ」 「そんなんじゃないんだけどな」 「ならどんなんなんだ?」 「千尋くん、女心が分かってないね」 「あいにく女性とはあまり縁がなくてね」 「…そういうところも、だよ」 「なに?」 彼女は千尋の顎を撫でた、千尋はそれを振り払う。 彼女は口を細めた、かわいい顔が艶美になる瞬間を千尋は見た。 「…君は美しいな」 「ありがとう…でも分かってね、私にとっての王子さまはあなただけ」 「生きていればほかの王子様が見つかる、辺境の離島に行けば道化だって王子になれるさ、君は世界を知らないだけだ」 「目を細めた君もかっこいいね、いつものとぼけた顔も好きだけど」 「好きでとぼけているわけではない、元からこういう顔だ」 彼女は満足げに軽くうなずき、千尋の手を取った。 千尋は振り払おうとしたが、軽く片手で握られているだけなのでこれを許す。 「ねえ、楓って呼んで」 千尋は彼女を真っ直ぐと見据え、ため息をついた。 「…楓、そろそろ買い物に行こうか」 「うん、これからよろしくね、千尋くん」 かわいらしい笑顔を携えた楓の手を握ったまま千尋は立ち上がった。 最後のダンボールの整理はまだ終わっていない、千尋はすっかり忘れていた。 ズボンのポケットに入った財布を確認して、手を繋いだまま玄関まで歩く。 彼女の靴がないので、千尋は自分のサンダルを貸してやった。 ドアを開けるために繋いだ手を離す、2人は少しだけ涼しくなったまだまだ明るい外に出た。 離した手はそのままに、2人は歩き、アパートの階段を下りる。 楓は階段が珍しいようで、不思議そうに観察しながら降りていく。 千尋の部屋は2階立てアパートの2階にあるのでこれから頻繁に下りることになるだろう、いつか慣れるさ。 2人並んでまばらに人がいる道を歩きながら、今の状況の異常さを千尋は少しだけ考えた。 でも考えたって仕方ない、楓という存在は今自分のすぐそばにいるのだから。 Tシャツの襟を掴み、少しでも涼しくなるようにパタパタと動かした。 いくら夕方といえどまだ暑い、千尋の肌には汗が浮かんできた。 楓は平然としている、汗をかかないというのはやはり羨ましい。 千尋が楓のほうをチラリと見ると。楓は見つめ返してきた。 「んー、私は千尋くんの性格とか内面が好きなんだけど…」 「なに?」 「じっくり見ると顔もけっこう好みかも」 「ほんとかい?僕はけっこうイケメンなのかな?」 「私は千尋くんの顔好きだよ」 「…ありがとう」 千尋は前を向き直し歩いた。 楓は途中、手を絡ませてきたが千尋がそれを拒否した。 道中で男女が手を繋ぐのは違うだろう。 楓は小声で「ケチ」と言って、頭を千尋の肩に軽くぶつけてきた。 悪い気持ちはしなかった。 そろそろアーケード街に着く、馴染みの店の人に冷やかされるだろうか? まあいいさ、今日は楓に親子丼を作って食べさせてあげよう。 千尋の親子丼はかなりうまいのだ。 ひと通りの買い物を済ませて、千尋と楓はアパートの部屋に帰ってきた。 荷物が重い、店の人たちに色々とサービスしてもらったのだ。 金のない千尋からすれば、とても嬉しいことなのだが、サービスしてくれた理由が『千尋くんに初めて彼女が出来たから』である。 千尋は彼女関係のことをアーケード街の人たちに話したことはない、なのになぜ初めてと分かるのだ。 いたかもしれないじゃないか、客観的に見ればそんなに自分の顔は女受けしないのだろうか? 納得いかない、貰った食材はありがたく受け取るが。 「なんかお腹が変な感じだよ、これがお腹が空くってことなのかな?」 楓は初めての飢えにテンションを上げて、嬉しそうに聞いた。 千尋は「たぶんね」と答え、下ごしらえを始める。 親子丼は1人暮らしをする前もよく作っていた、手際よく調理していく。 それを楓は好奇心というメガネをかけて見つめている。 千尋は少し緊張した。 「そんなに見ないでくれ、集中できない」 「お願い、初めてみるんだから許してよ」 可愛らしく舌を出す楓に千尋は「わかった」といってそのお願いを承諾した。 鶏肉を包丁で切っていると楓が食い入るように顔を近づけてきた。 「危ないよ、包丁知らないのか?」 「知ってるけど、初めてみたから…千尋くん包丁使うのうまいね」 「少し離れて見てくれ、すぐ作ってあげるから」 楓は千尋の指示に従い、少し離れた。 千尋はテキパキと親子丼を完成させる。 フライパンから香ばしい匂いが漂ってきた。 楓はクンクンと鼻でその香りを感じている。 すると楓の腹がグウとなった、彼女は恥じない。 不思議な顔をして自分の腹部をさすっていた。 「なんなのこれ?」 「お腹が鳴る音だよ、腹が減ったって体が知らせてくれるんだ」 「へぇ、便利だね!」 楓は嬉しそうにまた腹をさすっている。 微笑ましい光景だ、千尋は丼に白米を乗せて、テーブルに置いた。 「いい匂いだね」 「食事は初めてだったね、なら箸よりスプーンがいいな」 千尋は台所の棚からスプーンとコップを2つずつ取り出し、楓に渡した。 「テーブルに置いといて」 楓は言う通りに置いた、千尋は小さな冷蔵庫から麦茶を取り出して机に置いてあるコップに注いだ。 「さて、食べよう、初めての食事だね」 「うん!楽しみ」 「ではいただきます」 「いただきます」 2人は両手を合わせた、スプーンを手に取り親子丼を口に含もうとして、千尋はふと思ったことを聞いてみた。 「君、いただきますの意味はわかるのかい?」 「うん、分かるよ」 「テーブルとかスプーンとかも?」 「うん」 「知識はあるのか、なら生活も困らなそうだ、引き止めてすまなかったね、食べてくれ」 「うん」と楓は頷いて、親子丼を口に入れた。 表情がパアッと明るくなった、タレ目を見開かせ、小動物のようにモグモグと咀嚼している。 「おいしい!」 「それはよかった、僕は親子丼だけは得意なんだ」 千尋の言葉には応えず、美味しい美味しいと言って楓は初めての食事を楽しみ、口いっぱいに頬張っていた。 それを優しく見つめながら、千尋も自分の食事に取り掛かる。 20分ほどして食事を終え、千尋は立ち上がり皿を片付け始めた、楓もそれを手際よく手伝う。 蛇口から出る温水で食器を洗い、棚になおす。 「風呂を沸かすから入るといいよ」 「体を洗って流すんだよね?」 「そうか、君は初めてだったね、どうしようかな」 千尋は考えて、浴室に向かった。 「いいかい?体を洗うということは知ってるんだろう?なら洗い方を教えるよ」 千尋は楓にシャンプーやボディーソープの使い方を教えた。 女の子をこんな安物で洗わせていいのかという心配は置いといて、タオルでの洗い方を色々とレクチャーする。 「この浴槽にお湯を張るからに裸になって浸かるんだ、シャワーも使いたかったら使っていい、このボタンを押せばお湯が出る」 「わかった、でも一緒に入って教えてくれくれたほうが分かりやすいよ」 「馬鹿なことを言うんじゃない」 千尋は浴槽の洗い、お湯の張った。 「風呂は気持ちいいよ、君もまた感動するんじゃないか?」 「そうかも」 上品に笑う彼女を見て、千尋は相好を崩した。 風呂が沸き、彼女は少し落ち着きなく浴室に入る。 「もしわからないことがあったら呼んでくれ」と千尋は言い残し、ベランダに干してある洗濯ものを取り込んだ。 ちょっぴり片付いた部屋で洗濯物をたたんでいると、水が地面に落ちる音が響いて聞こえる。 誰かがこの部屋で風呂に入るということは今までなかったので、なんだか新鮮だと千尋は思った。 まもなくして楓から「ちょっと来て」とお呼びがかかったので、立ち上がり浴室に向かった。 浴室の扉の前で立ち止まり、「なんだい」と千尋は言う。 「呼んでみただけ」 クスクスと笑う彼女に呆ながらも千尋は楓に聞いてみた。 「湯加減はどうだい、気持ちいいだろう? 「うん、お風呂って気持ちいね」 「うん、引き続き楽しんでくれ」 こう言って千尋は洗濯物の整理に戻った。 なにごともなく平穏に日常が流れていけばいいな。 そう千尋は願って、明日の大学のことを考える。 ほかにも色々と考えなければいけないことはあるが今日はいいだろう。 明日から、そう明日から楓のことについてじっくり考えるのだ。 今日は色々とあって疲れた、少しだけ伸びをして千尋は「うーん」と唸った。 今日も今日とて体を太陽に焦がれながら、千尋は大学のキャンパス内を歩いていた。 いつものように人がごった返し、この地域周辺の温度上昇に甲斐甲斐しく貢献している。 千尋はそれらとぶつからないように汗まみれの体をふらふらと動かしながら講義が始まる教室に向かう。 いつも通りだ、ただ1つだけ違うところがあるとすれば自分のような人間の隣に美女が付き添い歩いていることだ。 「へぇここが大学なんだ、人がたくさんだね、汗拭こうか?」 「いい、自分で拭くよ」 滝のように流れ出る汗を肩にかけたカバンから取り出したタオルで拭きとった。 隣で白いワンピースを着て、男物のサンダルを履いた楓は初めて訪れる大学に目を輝かせている。 それをほほえましく千尋は思いながら、びちょびちょの首を拭いた。 「みんなここに勉強しにきてるんだよね?」 「うーん、まあね」 「千尋くんは何を勉強してるの?」 「何を、とは一概に言えないね、色々と学んでるよ」 「すごいね!」 2人は大学の1号館に入って、階段を上った。 本日、1コマ目の講義がある教室に入り、適当な席に2人揃って座る。 教室内にはまばらに生徒が座っておしゃべりをしており活気がある。 「ここでお勉強するんだね」 「ああ、まあ勉強をするかは人それぞれだが」 「よくわかんない、千尋くんは勉強するの?」 「半分半分」 楓はキョトンとしてよく分かっていないようだったが、すぐにキョロキョロと周りを見渡して喜んでいる。 千尋は冷房が効いている室内に感謝しながら残った汗をせっせと拭く。 なんで自分はこうまでも汗が噴き出すのか。 一所懸命にタオルで汗を拭き終わると同時に講師が入って来た。 講義開始のチャイムも鳴る、だが生徒のガヤガヤとしたざわめきは収まらない。 講師が注意を促し、ようやく生徒たちはお喋りを止め始める。 静かになったことを確認し、講師は講義を始めた。 よくわからない日本の政治を淡々と説明し始める。 単位のために仕方なくこの講義を受講しているだけの千尋には尻の毛ほどの興味もなかった。 頬杖つきながら適当にノートを取り、暇な時間はスマホをいじって時間を潰した。 ふと楓のほうを見ると身を乗り出す勢いで講師の話す内容を聞いている。 その目は真剣そのものだ、知的好奇心が強いのだろうか? まあいい、心で思って千尋はスマホにダウンロードした『坊っちゃん』を黙読する。 集中して読書をしていると、肩を揺すられた。 千尋は何事かと思い揺すられた方向を見ると、楓が心配そうに自分を見つめている。 「なんだい?」 「講義もう終わったよ」 「あれ?もう終わったの、読書していると時間が加速していけないな」 「大丈夫なの?」 「よくあることだよ、本を読んでるとついほかのことが耳に入らなくなるんだ」 「集中力があるんだね」 眩しく笑う彼女に千尋も笑顔で応えて、机の上にある筆記用具などをカバンに押し込んで立ち上がった。 ほかの生徒も喧噪を奏でながら続々と教室から出て行く。 千尋たちもそれに続き、廊下に出た。 冷房の魔力から解き放たれた千尋の肌にはまたじんわりと汗が浮かんでくる。 廊下には多くの人間がはしゃぎながら歩いていた、これも千尋の発汗にかなりの影響を与えているのだろう。 「今日はもう1つ講義がある、これが終わったら君の服と布団を買いに行こう」 「うん、でも千尋くんお金ないんでしょう?やっぱり2人で寝ようよ、服もこのワンピースがあるんだし」 「バカを言うんじゃない!お付き合いもしていない男女が同じ布団で寝るなんて出来るわけがないだろう!」 「私は別に構わないんだけどなぁ」 「僕は構うんだ」 昨日の夜の話である。 窓の外が真っ暗になり、蝉が鳴き始める時分。 千尋はある問題と危機に瀕していた。 この部屋には千尋の体を毎日包み込んで癒してくれた万年床の彼しか寝具がないのである。 替えの布団があればいいのだが千尋は持っていない、今から買いに行こうか。 しかし現時刻で布団が購入できて尚且つ開店している店舗はこのアパートからかなり歩かないといけない。 流石にこの時間に暗い道を歩きたくはないので、なんとかできる方法を考えてみた。 「布団1つしかないの?」 「うん、だから困ってるんだ」 そう千尋が言うと、楓は体を千尋の肩に預けてきた。 色めかしい仕草で千尋の手に触れる。 「一緒に寝ようよ」 「ふざけるんじゃない、それにこういうことはやめてくれ」 「そういうことって?」 「女性がむやみに男のに触れたりするんじゃない、品がないよ」 「だって好きなんだもん、千尋くんのこと」 楓は千尋のその細い腕に自分の腕を絡ませた。 すぐさまそれを振り払った千尋は、きつく彼女を睨み付けた。 楓は嬉しそうにその目を見つめ返した、千尋の皮膚は濡れてきている。 「売女みたいな物言いはやめろ!いいか、人間だけが品性とそれに伴う振る舞いが出来るんだ、逆に言えばそれが出来ない人間は食って尻から排泄物を吐き出すだけの獣と同じなんだ!」 そう言って千尋はハッとした、楓の表情が曇っている。 「…ごめんね」 「こっちこそ興奮していいすぎた、すまない」 楓は申し訳なさそうな顔をして顔を伏せている、千尋はそれを直視できなかった。 いつも朗らかでさっぱりした彼女がこうまでも女々しくなるのか。 千尋は女性の扱いが分からなかった。 こういうときもどうしていいかわからない。 「明日君の布団と服を買いに行こう、今日僕はバスタオルで寝るよ、嫌だと思うが君はそこの布団で寝てくれ」 「嫌なはずないよ…ごめんね」 「もういいんだ、今日は寝よう、明日朝から僕は大学に行くけどゆっくりしてていいからね」 「うん…わかった」 網戸から涼しい風が吹き抜ける、夏の夜のみずみずしい空気を味わいながら、千尋は部屋の電気を消す。 あたりは真っ暗になった。 千尋はバスタオルを体に巻きつけ、床に寝転がる。 「おやすみ、楓」 「うん、おやすみ千尋くん」 「そういえば君は寝るのも初めてかい?」 「ううん、本の中でも眠ることはできたから」 「そうか、じゃあゆっくり休むといい、おやすみ」 千尋は目を瞑った。 しかし彼女のことが気がかりでなかなか寝付けない。 しばらくして楓が立つ気配がした。 「千尋くん、もう眠った?」 「どうしたんだい?眠れないのか?」 「…ごめんね」 「その話はもういいよ、早く眠りたまえ」 「うん…」 そう言っても楓はまだ立ち尽くしている。 心なしか小さく鼻をすする音も聞こえた。 千尋はバスタオルをゆっくりと体から剥がし、立ち上がった。 背の高い彼女が自分を見つめている、暗くてよく見えないがそう確信した。 千尋はそっと近づき、その体を優しく抱きしめた。 また不埒な行為をしてしまったが、悲しんでいる女性を放っては置けない。 彼女はそれに応えるように千尋の腰に手を回す。 「ごめんね、でも本当に千尋くんに嫌われたと思ったから」 「君は乙女だね、もう寝てくれ、僕はもう怒っていないよ」 「うん…ありがとう、あっそういえばね」 「なんだい?」 「千尋くんって今彼女とかいるのかなぁって」 「いやいないよ」 「じゃあさ、私を彼女になってもいいかな?」 「君、麗らかな乙女がいきなり彼女になるなんて言うんじゃない」 「…ダメ?」 「ダメだ」 「じゃあ千尋くんの大学に行ってみたいな」 「大学?」 「大学って学ぶところなんでしょ?行ってみたい、それに君から離れたくないし」 「まあいいだろう、じゃあ尚更早く寝なくてはね、おやすみ楓」 「うん、おやすみ」 2人は自分の床の中に入った。 心のつかえが取れて、千尋はすぐに眠った。 楓はひきづった思いからしばらく眠れなかったが、やがて瞼が重くなる。 気付いた時には夢の中だ、楓は大好きな彼に抱きつきキスをした。 もっとも現実の彼の高潔な精神はしばらく自分の追随を許さないが、今はこれでいいのだ。 そう思って楓はスヤスヤと眠っている。 「さて、次は3階で講義があるから行こうか」 千尋は昨夜のひと悶着の記憶を頭に思い出しながら言った。 「わかった」とかわいらしい声で返事をする楓を一瞥して千尋は歩き出した。 しかし服と布団といってもあまり高価なものを買ってはあげられないだろう。 季節は夏でも、自分の財布の中は冬のようにわびしく冷えている。 楓に申し訳なさを感じながら、汗を拭う。 教室に入って、講義はすぐに始まった。 この講義も千尋は興味がないので、またもやスマホを見つめ、『坊っちゃん』を読む。 そして不真面目な千尋と対照的に楓は講師の話す内容を熱心に聞いている。 立派なことである。 しばらくするとチャイムが鳴り、講義が終了した。 「面白かったね!」 「そうかい?」 スキップしそうになるほど上機嫌な足取りで教室を出た楓に付き添い、階段を下りた。 これからの予定は決まっている、大学を出て、布団を買い、彼女の服を買うのだ。 2階から1階に下りて、大学の外に出ようとしたとき今1番会いたくない人物に会ってしまった。 「やあ石動くん、こんにちは」 「げっ、部長」 ギョロギョロとした2つの目で千尋を凝視している部長は不自然な笑顔を浮かべている。 「げっ、とはご挨拶だね」 「すまない、いきなりでびっくりしたものでね」 「そうか、しかしこのところはバカに暑いね、君は大丈夫か?今は熱中症が流行っているからね」 「うん、昔から体だけは強くてね、元気だよ」 「そうか元気か、いいことだ、やはり健康が1番だよ、私は子供の頃高熱で死にかけてね、あの頃の記憶はいまだに鮮明だよ、金や権力より重要なのは健康だということがあのとき分かったよ、無病息災万歳だ」 「同感だね」 「話は変わるが君の隣の女性は誰だ?」 その言葉を早口で言い終わった部長はギョロギョロとさせた目をさらにギョロギョロとさせて千尋と楓を交互に見定めた。 その眼には非難と威圧が渾然としていた、千尋は楓を大学に連れてきたのを今になって後悔した。 部長はモテないので彼氏持ちの男を蛇蝎の如く嫌っている 部長の体からは「この裏切者め!」と書かれたテロップが流れ出て、大いなる主張を千尋の良心に訴えかけているようだ。 「ただの友達だよ、変な関係じゃない」 千尋は多少怯みながらも適切で真実の言葉を部長に言った。 もちろん彼が信じるわけもなく猜疑心で楓を舐めるように見上げている。 楓は大丈夫だろうかと千尋が心配して見てみると、いつも通りの笑顔だった。 部長のまなざしを意にも介していないらしい、肝の太い女である。 「そうなのか、友達か、どこでこのお嬢さんと出会ったんだね?」 「講義で一緒のときに僕がペンを忘れてね、そのときに隣に座っていた彼女に借りたのがきっかけだよ」 咄嗟に出た嘘としては中々上出来ではないだろうか。 滔々と紡がれた偽りの言葉に部長も納得しかけている。 いい感じだ、千尋はポーカーフェイスを崩さないままにそう思った。 「なるほど、健全な出会いだね、君の名前を教えてもらっても構わないかな?私のことは部長と呼んでくれ」 鳥類のような目で楓に向き直した部長に彼女は笑顔で応えて口を開いた。 「私は楓だよ、部長さんか、いい名前だね!」 部長は流石に戸惑った、その卑猥な脳髄で色々と思考に耽っている。 千尋はその見当違いの間違いに彼女がまだこの世界に馴染めていないと確認する。 少しの困惑の後、部長は軽く頷いた。 「私の名前は『部長』ではない、本名はきちんとある、私の知り合いが私のことを部長と呼ぶから君にもそう呼んでもらいたいわけだよ、あと決して『会長』でもないので間違えないように願いたい」 「あっ、そうなんだ、ごめんなさい」 「気にしないでくれ、間違いは誰にでもある、そうだ君も我が同好会の会室にくるといい、歓迎するよ」 「いや、彼女は…」 千尋がそう言いかけると、被せるように楓が言葉を放った。 「行きたい!サークルってやつだよね?みんなで色々な活動をするんでしょ?」 「楓、それはあんまりいい考えじゃ」 千尋がまたそう言いかけると、今度は部長が言葉を重ねる。 「正確にはサークルではなく同好会なのだが、まあ違いなんて名前だけだ、歓迎するよ楓くん、こっちについてきてくれたまえ」 「なぜ僕の話を聞かないんだ?」 「ごめんね千尋くん、でも私色々なことを知りたいんだ」 「しかし…」 「君に彼女の自由意思を阻害する権利などないだろう、それに知らないことを知ろうとする知識欲は人間にとって必要不可欠なものだ、素晴らしいじゃないかね石動くん」 楓からは懇願の。 部長からは疑いの。 4つの目玉からの思いを一身に引き受けることになった千尋はたじろいで、それを了承するしかないことに今更気づいた。 「わかったよ、じゃあ3人で行こう」 「当然だ、それに君も最近顔を出していなかっただろう、いい機会じゃないか」 部長はギョロギョロと2人を一瞥して歩き出した。 『ついてこい』ということだろう。 「ごめんね、千尋くん」 「いいさ、どうせ君のことは遅かれ早かればれたんだ、だが僕たちが一緒に住んでいることは内緒だよ」 「うん!」 太陽の笑顔で了承した楓は上機嫌で千尋の横に並び、歩いた。 千尋は人がひしめき合う構内を汗を垂らし、夏の太陽を恨んだ。 お前もこの女性のように優しく照らしてくれるだけでよいのに。 「急ごう千尋くん、部長さん見えなくなっちゃう」 「ああ、そうだね」 そこまで望むのは図々しいか。 そう諦めて汗を拭いながら、千尋は微笑み、会室を目指した。 2号館の3階、そこの奥の奥に追いやられるように『成人本愛読組合』の部室は存在した。 薄暗く、埃がつもり、碌に掃除もされてない一角。 誰も足を運ばないのだろう、我々を除いては、いやたまに特例はあるな。 蛍光灯はときおり点滅し、今にもそのか細い光は断ち切れそうだ。 内部から邪気が漏れていると錯覚するほど陰気な灰色の扉を前に、千尋たち3人は立っていた。 「ここが我ら愛しの同好会、『成人本愛読組合』の会室だ」 「面白い名前だね」 「お誉めに預かり光栄だ、何を隠そう私が命名したのだ」 「みんなで本を読むの?」 「ああ、思考と精神にとって実に実りのある素晴らしい同好会だよ、さあ入ろうか」 キキィと金切り声を上げる扉を部長が開き、中からの光が千尋たちを迎えた。 まず部長から会室の中に足を踏み入れ、その後に2人が続く。 千尋は微かな、いや大いなる不安に胸を高鳴らせながら楓を見つめ、会室の中を見渡した。 「おお、石動じゃないか!」 会室の中から聞こえた第一声はそれだった。 野太さと温厚さが入り混じったガサツなやや嗄れた声がそのデカい図体の男から発せられた。 その後に2人の視線が千尋に、そして楓に向けられる。 「新入部員か?めでたいことだ」 続いて声帯から陰湿さをうかがえるねっとりボイスが皮肉たらしくそう言った。 「いや新入会員ではない、石動くんのお友達を連れて来たんだ」 「そっちの可愛い女の子が?いやぁ石動にも彼女が出来たんだな!めでたいなぁ!」 「彼女じゃない、友人だ」 野太い声に千尋は咄嗟に言い返した。 声の主はあっはっはと笑いながら、片手に持っているコッペパンにかじりついている。 「まあとにかく座ったら?そこの彼女もほらここの椅子に」 ハスキーな声で折り畳みのパイプ椅子を広げ、座るように促す彼女の指示に楓は「ありがとう」と言って従った。 千尋は自分の所定のパイプ椅子に座る。 これで現在この会室には6人の人間が存在することになった。 約8畳の同好会には広すぎる会室、そもそも同好会に会室などを与えてくれる大学自体少ないのだが、この学び舎は意味のわからない同好会にこの会室を貸し与えている。 どうやってもぎとったのかは分からないが、おそらく部長か中野さんが何かしたのだろう。 感謝の限りである。 壁際に四方八方に設置された本棚には粗雑に本が並べられている。 会員が各自で持ち寄った書籍や図書室からかっぱらってきたものである。 本のほかには将棋やチェス、ボードゲームにトランプなどの娯楽用のアイテムも部屋の隅に置かれている。 ほかにも個人の趣味嗜好に塗れた品が多く置いてあるがそれは割愛する。 普段は各々の好きな位置にパイプ椅子を置いて座り、各々の好きなことをしている。 千尋は主に読書だが、ほかの会員は食事を楽しんだり、こっくりさんに興じているものもいる。 つまりはこの空間の中ではなんぴとも自由なのだ。 色褪せた灰色の壁と、汚れた灰色の床と、黄ばみとなぜか赤みが混じった灰色の天井に挟まれたこの部屋は冷たく無機質な印象をまず訪れた者に与えるが、千尋以下会員一同はとっくにもう慣れてしまっている。 まあこの『成人本愛読組合』の会室が、陰惨なイメージを見るものに与えることは変わりないのだが。 「素敵な部屋だね!」 臆面もなくこの薄汚れた会室を褒める楓に千尋は違和感を抱いたが、部長は餌を与えられた犬のように目を輝かせていた。 「君はセンスがあるよ!まさに芸術家だ!もしピカソがこの会室に訪れたら同じ言葉を発してくれるだろう!」 素っ頓狂な言動に身を任せている部長は置いといて、千尋はとりあえず楓に彼らのことを自己紹介してやろうと思った。 まあ彼女なら名前などを知らなくても仲良くなれそうな気もするが。 「みんな、僕の友人の楓だ、さっきも言った通り僕と彼女は特別な関係ではない、なおこのことについて今後冷やかしたものには正義の鉄槌を与える」 「楓です!よろしくお願いします」 楓は深々とお辞儀をした。 熊のような体を持つ男がコッペパンを持っている手とは逆の手を軽く上げた。 「よろしくね楓ちゃん!俺は伊藤(いとう)だ、見てのとおり読書より食べるほうが好きなんだ」 屈託のない笑顔を分厚い皮膚に覆われた顔に浮かばせながら手を振った。 その笑顔に楓も笑顔で応える。 両方とも100点満点の笑顔といったところである、とても自分には真似できないと千尋は思った。 同時にこの2人がタッグを組んで詐欺や宗教勧誘に手を染めたら間違いなく大成功を収めるとも思う。 「次は俺だな、俺は福崎(ふくざき)だ、よろしく」 眼鏡の奥から糸こんにゃくのように開いてるのか閉じてるのか分からない目を覗かせながらこの不気味な男は言った。 千尋も犯罪臭のする顔面をしているほうだが、この男には敵わない。 爬虫類のような顔の骨格をしていて、もしその顔で睨まれ、おまけに舌などをウネウネと出されればカエルでなくとも本能的に恐怖を感じるだろう。 だが楓はこの蛇そのものを相手にしても笑顔で「よろしくね」と応えた。 並の女なら、どんなに場をわきまえていても「ひっ」くらいの声は出すものだが、彼女は出さなかった。 千尋と当の本人の福崎までも驚いている、気色の悪い福崎にとって初対面で自分に恐れなかった女性は2人目だろうと千尋は推測する。 「私は中野(なかの)よ、仲良くしましょう」 整えておらず目元までかかったボサボサの髪の隙間から、ギラギラした目を楓に向けつつこの女性はそう言った。 大学の淑女ともなると髪を染め、パーマなりストレートなりと髪を遊ばせ、化粧というお手製お面に精を出すのが常識なのだが、ロックでパンクな中野嬢はそれらを一切しない女である。 自身を偽ることのない姿勢に千尋は大変尊敬しているのだが、現代の社会という荒波に適合できるかといった点では少々心配だ。 しかしまあ中野さんならなんとかするだろうという根拠のない安心感もある。 ちなみにこの女性が福崎に初対面で顔を合わせても驚かなかった女性の1人目だ。 「あなた…」 中野さんはそう呟き、楓と鼻がつきそうになる距離まで顔を近づけた。 もっとも中野さんの身長は楓と10センチ以上離れているので背伸びをして見上げる形になっていた。 そのまなざしに流石の楓も困惑している、中野さんは楓の瞳を数秒間覗き込み、嬉しそうに笑みを浮かべた。 正直不気味である、しかしそんなセリフを彼女の前で言ったら祟り殺されそうなので絶対に言わない。 「あなた…変よ…変すぎる、最高だわ」 褒めているのかけなしているのか分からない言葉を発した後、満足そうに中野さんは浮かしていた踵を地面につけた。 楓は戸惑いながらも笑顔を崩さない。 千尋は彼女の言った言葉の意図になんとなく気づき、背筋をひんやりとさせる。 彼女が人間ではないと気づいたのか、普通の人間から見ると楓はどこからどう見ても可憐でおしとやかな笑顔が美しい淑女であり人の子だ。 しかし中野さんは普通の人間ではない、俗に言う霊能力者で人には見えざるものが見えるらしい。 その類まれなる霊感で、数々の奇怪な出来事に悩まされる者たちに助言をしたり、彼女自身がなんと解決したりもしている。 この同好会の人間は彼女の協力のためや暇つぶしで怪奇事件解決について行くときがある。 なので部員一同は中野さんの霊能力について疑っていない、その彼女が今楓を凝視して『変』と言ったのだ。 これは非常にまずいのではないか、千尋はそう懸念したのだ。 「ありがとう…でいいのかな?」 伺うように自分の言った言葉の正誤確認をとる楓がなんだか新鮮でかわいらしかった。 中野さんは「もちろんよ」と言ってニコニコしている。 「中野くん、女性をいじめるのはやめたまえ」 「いじめてなんかないわ、でも怖がらせてしまったのならごめんなさい、でもあなたが魅力的だから」 「いいんだよ」と笑顔で応えた楓を見て、中野さんも思わず口角をやんわりと上げた。 「困ったことがあったらいつでも言ってね」と言い残し彼女は自分の席に戻った。 どうやら楓は中野さんという強者に気に入られたらしい。 これがいいことか悪いことかは千尋には分からない。 「とにかく歓迎するよ楓くん、君はもうこの『成人本愛読組合』の仲間だ、いつでも遊びに来てくれ」 「いいの!?ありがとう!」 相好を崩し、体全体で喜びを小さく表現した楓に部長の頬が赤くなった。 しかし仕方のないことである、1番長く傍にいた千尋さえ彼女のこの仕草にはドキッとさせられたのだから。 いけないいけない、自分は高潔な人間であるぞ、そう自分に言い聞かせる千尋は自分でも少し哀れだと思った。 自分の女性経験のなさによる弊害だろうと自身を慰めた。 「先生照れるなよ」 茶化すように福崎が言うと、部長は赤みがかった顔をさらに紅潮させ、大きな目をグルグルと回すかのように睨み付けた。 当の福崎はニヤニヤしている、いやニチャニチャと言ったほうが表現としては正しいのかもしれない。 「黙りたまえ!君のような品のない女で満足するような男では私はないのだ」 「品がないだと?君は単に仕事をしている女性たちのことを下劣だとでもいうつもりか?俺からしたらそんな言葉を吐ける人間のほうが下劣だと思うがな」 「金でしか女性と触れ合えないくせに!上等なことを言うんじゃない!」 「なんだと!」 「やめろよ、楓ちゃんが困ってるだろ」 軋むパイプ椅子から本当に文字通りの重い腰を上げた伊藤が2人の目線の中心に立ちふさがった。 その山のような巨躯に威圧され、2人の罵りの声はとたんに止んだ。 おそらく鮮明に見えていたお互いの姿はもう確認できないだろう、この大男によって遮られているのだから。 「あれ?また喧嘩してるの?」 金属音を鳴らしながら灰色のドアが開き、そこから顔を出した男が柔らかいとういうより軽い声を出しながら訪ねた。 「そんなところよ山口くん、今石動くんの友人がきてるからあなたにも紹介するわ」 この髪を肩まで伸ばした男、山口は楓を見て嬉しそうにその顔をほころばせた。 喧嘩を始めようとしていた2人は感情を宙ぶらりんにさせたまま各々の席に座る。 「美しい女性だ、石動くんの彼女かい?」 「違うよ、彼女はただの友人だ」 「こんにちは」と言う楓に、にんまりしながら山口は近づいた。 その行為に危機感を覚え、おもわず千尋は席を立ち楓を守るように傍に立った。 「僕は山口だ、よろしくね」 笑顔で片手を差し出す山口に、楓も笑顔で応え手を差し出した。 2人は柔らかい握手をする。 長々と握手をしている2人をみかねて千尋はアイドルの握手会の『剥がし』の如くこの男を引きずってその手を離させようとしたが、そう千尋が決心する1歩手前で2人の手は離れたので事なきを得た。 「私は楓だよ、よろしくね!」 「楓さんか、いい名前だね」 また表情を崩し、優しげな笑顔を浮かべる山口は最高に胡散臭かった。 これがこの男の個性であり、本質なのだがこの男は胡散臭いを絵に描いたような男なのである。 わざとらしい長髪に、人の猜疑心をくすぐる顔のパーツ、特に笑顔のときに上がった口元と細まった目元はいつだって『詐欺にあわないように気をつけなくちゃ』と思わせてくれる。 かといって別に本当に人を騙したり、人の嫌がることを率先するようなことはないので、善人ではあると思うのだがとにかく胡散臭いのだ。 挙動、声、振る舞い、善意、全てが胡乱でこの男に出会った当初の千尋も警戒をよぎなくされたが、今では少しは山口という男のことが分かっているのでそれなりの付き合いをしている。 「うん!山口さんも本が好きなの?」 ただ楓はまったくといっていいほど警戒している様子はなかった。 今度しっかりと防犯意識について教授してやろうと千尋は思った。 「もちろんさ!」 「嘘をつくな」 反射的に口を挟んでしまった千尋に山口はやや怪訝な顔をした。 しかし黒に黒と言うことは何も悪くないことなのだ。 「君は全然本を読んでないじゃないか、僕が勧めた本を1つでも読んだか?」 「石動くんが勧める本は僕には合わないんだよ」 「なら最近読んだ本のタイトルを言ってみたまえ」 「石動くん、君は僕と喧嘩をしたいわけじゃないだろう?楓さんも見ているし場を弁えるべきだと思うな」 何が『場を弁えるべきだと思うな』だ。 しかし楓が不安そうな顔をしているのに気づき、仕方なく千尋は黙った。 山口は楓に向き直し、色々と饒舌にお喋りをしている。 千尋は彼女が余計な事を口走らないかを心配しながらその様子を見つめていた。 楓が笑うと山口も笑う、しかし彼女と山口の笑顔には大きな違いがあった。 楓と伊藤の笑顔は人をも笑顔にさせる笑顔だ、しかし山口のは少し違う。 しつこいようだが胡散臭いのだ、心を温めるより緊張させてしまうだろう。 「楓ちゃん、コーヒーでもどうかしら?紅茶もあるわ」 「コーヒー?」 楓は首を傾げた、すかさず千尋はフォローをする。 「コーヒーか!楓は好きだったね、ついでに僕ももらおうかな!」 「わかったわ」と言って中野さんはIHのポットを温め始めた。 コーヒーを知らないとは…教えることはたくさんありそうだ。 今日は早々にこの部室から退散したほうがよさそうだ。 しかし千尋の思惑とは裏腹に、2人はこの後3時間もこの空間に留まることになった。 その間千尋がフォローに肝を冷やし続けたのは言うまでもない。 「今日は疲れたよ」 「でもとっても楽しかった!コーヒーも美味しかったし!」 2人は夕暮れの中、帰路についていた。 大学から歩いて15分ほどの場所にあるアパートに向かって歩いていく。 今にも触れ合いそうな距離にいるのに、手は繋がない。 だけどこの距離は壊さないように、ただただ2人は気をつけた。 心地よい午後の風、橙に染まる太陽、静かな住民の喧噪。 いつもの帰り道のはずなのに、彼女がいるだけでどこか神秘的だ。 もしかして… その危険な考えが千尋の頭の中に浮かんだ。 もしかして僕は彼女に恋をしているのではないか?と。 かぶりを振り、その煩悩を打ち消した。 まだほんの1日程度しか一緒に過ごしていない女性に恋心を抱くなんてふしだらだ。 愚か者め、己を叱責し千尋は前を向いた。 「どうしたの?虫でも飛んでた?」 「いやなんでもないよ」 千尋の顔が紅潮したのは紅い夕日のせいである。 少なくとも千尋本人はそう言い聞かせた。 体温は上がる、徐々に、少しだけ。 彼女の顔を見ると、緊張より安心するのはなぜだろう。 初恋のときはもっと心臓が高鳴っていたはずなのに。 これは恋ではないのか、そうなら高潔な自分を守れるのだが。 不思議そうに自分を見つめている楓から目を逸らし、しばらくは思考を整理した。 千尋はまだまだ涅槃には到達していないらしい。 その悩める男の姿を見て、楓は無意識にほくそ笑んだ。 楓は本当に彼を愛している。 「千尋くん、なんか変だよ?」 「そんなことはない、1度帰って、少し休んでから君の服を買いに行こうか」 「うん!」 彼の内側に存在する貞操観念と初恋の女性に対する忠誠心に近い心情は、楓にもなんとなく分かっていた。 はっきり言ってそれは彼女にとって邪魔でしかない。 「ゆっくりと」 「ん?なんだい?」 千尋の問いに楓は微笑みで応える。 ゆっくりと、そうゆっくりと。 楓は胸に秘めた想いを青く、静かに温め続ける。 慎重に、その炎を決して途切れさせないように。 妖精は見るものに幸福を与えると言われている。 しかしその中でもピクシーは出会ったものに害を与えることもある。 害ともいえないほどの小さな悪戯だけど、彼は許してくれるだろうか。 だけどそんな小さな足跡が、あなたの背中に刻まれるたびに実感するんだ。 少しずつ、私があなたの人生に介入していることを。 あなたのページに私という存在が書き足されていくことが、どうしようもなく嬉しいの。 「君に似合う服はなんだろうな?」 「千尋くんが選んでよ」 「僕がかい?やめておいたほうがいい」 2人は小さく笑った、千尋のアパートまではもう少しだ。 そこで体を休めた後、楓はまた広い世界に足を踏み入れることになるのだろう。
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