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「何言ってんだ佐野? 新人の教育管理と部署を盛り上げるのが係長の仕事だろ? 初日からへこたれててどうするんだ? 頼んだぞ」
笑いながら自分のデスクに戻る添田の背に、佐野は表情を笑顔で固めたままため息をぶつけるしかなかった。
期待に胸膨らませた係長の初仕事は佐野にとっては心の奥底を抉られる痛みしか感じなかった。
終業時間になり、部署の社員は帰り支度を始める。
「佐野、今日どうする? 1件行く?」
佐野と同い歳の社員が手をグラスを持つ手にしてクイッと口元で傾ける。終業後の呑みの誘いである。佐野は手を顔の前で合わせて『ごっめーん!』と明るく答える。
「ごめん、今日はやめとくね。また誘って!」
「珍しいな……佐野が断るなんて」
「流石に今日は佐野も係長初日で疲れたよなぁ……あんな大型新人来るとは思わなかったもんな。今度、小宮の歓迎会でもしようぜ! じゃお疲れ!」
『お疲れ!』と呑みに向かう社員を見送って佐野も帰り支度を始める。普段は誘われた呑みは欠かさず行くし自分から誘う事もある。でも、今日は1人で呑みたかった。
佐野は会社を出て駅に向かいつつ飲食店が並ぶメイン通りを避けるように路地の奥へと1人歩いて行った。
重厚な木の扉の前。看板には【Mistel】と書かれている。ここは佐野にとって唯一心を休ませることが出来る『宿り木』でもある。
体重をかけてドアを開くと、暗めの照明で落ち着いた雰囲気の店内。カウンターから若いバーテンダーが声をかけてきた。
「佐野さん、いらっしゃい。来られるの久しぶりですね」
「最近仕事が忙しくてね」
佐野は奥のカウンターに腰をかけるとバーテンダーがコースターとナッツを手早く佐野の前に置いた。
「そういえば昇進されたってマスターから聞きました。おめでとうございます」
「有難う。で、マスターいる?」
「少々お待ちください」
バーテンダーが奥に入ると代わって出てきたのはスラッとした美丈夫のバーテンダーだった。
「國ちゃん、いらっしゃい。久しぶりね」
「マスター、久しぶり」
マスターは佐野の前に立つと早速シェーカーの準備を始めた。マスターがオネェ口調なので所謂『ハッテン場』みたいに勘違いされるが、れっきとした酒を楽しむのがメインのバーである。
マスターは周りから『アッちゃん』と呼ばれているが、佐野や一部の客はこの店の店長兼凄腕バーテンダーである彼を『マスター』と呼ぶ。マスターは佐野を『國ちゃん』と呼ぶ今では唯一の人物になってしまった。
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