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「だからそれが……」
『ダメなのよ』というマスターの言葉を聞かず佐野は出されたグラスの中身を喉を反らせて一気に呷る。中身を一口で飲みきった後、今度は反動でカウンターに伏せた。佐野はしばらく無言で伏せた後起き上がりグラスをマスターに突きつけた。
「マスター! おかわり!」
その表情はいつもの明るい笑顔で、会社でよく見る佐野の表情をしていた。マスターは佐野の引きつる笑顔を見て眉を顰めたが、何も言わず一つだけ大きな溜息をついた後再びシェーカーを振りはじめた。
「アタシにそんな笑顔しても無駄よ。國ちゃんとナナちゃんとアタシ、どれだけの付き合いだと思ってるの? アタシには分かるんだからね」
「バレてた? 会社なら上手く誤魔化せてるんだけどな」
佐野の笑顔が消え再び俯き加減に戻る。
「当たり前よ。ココにいる時ぐらい素直になりなさい。ココは疲れた人を癒す『宿り木』なんだから。ハイいつもの。『ギムレット』」
佐野はギムレットを受け取ると誰もいないはずの隣の席に向けて僅かにグラスを掲げた後ゆっくりとグラスに口をつけ始めた……
「お早うございます。今日から本格的に宜しく御指導お願い致します」
「おっ早よ! 宜しくね!」
次の日から小宮への新人指導が始まった。佐野はいつも以上に笑顔でハイテンションになって仕事に取り組む。
周りは『佐野、係長になって張り切ってる』と思われているが実際は逆だ。小宮と接する度に佐野の心はザクザクと切り刻まれる音がする。いくら別人で小宮本人は無関係だと頭では分かっていても心がそれを否定する。
「佐野係長。ココ間違ってますよ」
「あっ、ゴメン! 間違えちゃった。今から直すね」
「もう俺が直しておきました。佐野係長しっかりしてくださいよ」
小宮の間違ったら上司だろうがお構いなしと叱って来るところや自分よりも要領が良くて仕事が出来る事も佐野の心を切り刻む。佐野は更に笑顔とテンションを厚塗りして会社で明るく振る舞った。
切り刻みつけられた傷は瘡蓋となり傷を塞ぐ。何度も何度も繰り返すうちに瘡蓋は厚くなりやがて切られた傷の痛みを感じなくなる……
佐野が他の社員同様に小宮の仕事ぶりを見守れるようになるまでには1年近く年月が経過していた。小宮が『開発営業部の看板社員』と言われるのも本来なら佐野の心を抉るに十分だったのだが、瘡蓋で蓋をされた佐野の心にはもう響かなかった。
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