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プロローグ 春めく鎌倉、出会いの時2
「いらっしゃいませ」
「こんにちは……」
おうふ、なんたるイケメン。
私は案内された席に腰掛けながら、頭を抱えたい気持ちになっていた。
店内は、いかにも古民家という佇まいだった。長い時を超えて飴色に変色した建具たち。見たことがないくらい大きな梁が、天井で存在感を放っている。店内に並んでいるのは、シックな色合いの一枚板のテーブル。座敷席には囲炉裏まで完備してあって、まさに田舎の家という雰囲気だ。更には、ところどころに綺麗な生花が活けられていて、地味になりがちな和風の店内を彩っていた。天井から下げられた照明が、ぼんやりと辺りを照らし、非常にいい雰囲気だ。
「こちらへどうぞ」
一人ということで、カウンターの席に案内してくれた店員さんは、所謂王子様系。瞳の色は金に思えるほどに薄く、肌も白い。薄茶色の髪は、襟足だけ伸ばしていて、鈴が着いた紐で結んであり、彼が動くたびにちりちりと涼やかな音を立てていた。体つきは細身ながら男性らしく、背が高い。薄い唇や長いまつげからは、そこはかとない色気が放たれていて、シンプルな白いシャツに黒のエプロンがとても似合っている。出されたお冷は、レモンの爽やかな酸味が感じられて、おしぼりも程よい温度。細かい気遣いが行き渡っているように思う。
ちらりと壁に掛けられたメニューボードを眺める。珈琲に紅茶、甘味――それに今の時間はお酒と軽食を提供しているようだ。気になるお値段は、観光地の割に良心的だ。これで、やたら高額という線は消えた。
店員さんに気付かれないように、こっそりとため息をつく。
(猫ちゃん、とんだところに招いてくれたわね)
これだけ好条件が揃っているのに、この空きっぷり。これは何かあると考えて間違いないだろう。値段でもロケーションでも、店員でもないのならば……おそらく味だ。
私は、姿が見えなくなってしまった猫を心の中で恨んだ。
しかし、入店してしまった以上は何かを頼むしかない。覚悟を決めて、店員さんに注文をする。小腹も空いていることだし、せっかくだから食事を頼んでみよう。後は野となれ山となれ。不味いなら不味いなりに満喫してやろうじゃないか。
私はふんと鼻息荒くお冷を飲むと、ぐっと背を伸ばした。
「……?」
一瞬、背中に視線を感じて振り返る。
けれども、そこには静かな店内が広がっているだけだった。
「お待たせ致しました。こちら『鎌倉野菜の前菜盛り合わせ』でございます」
「わあ……!」
私は、目の前に置かれた料理に、思わず感嘆の声を上げた。
平皿に、センスよく何種類かの料理が盛られている。紅芯大根、紫人参などの珍しい野菜を使ったバーニャカウダ。ほうれん草のニョッキにはたっぷりとソースが絡んでいて、ほかほかと湯気を上げている。それと――。
「これ、西洋たんぽぽの葉ですか? 初めて食べました」
「ヨーロッパでは春の味として親しまれているそうですよ」
「へえ……! 鯛のお刺身と合いますね」
ピリッとした辛味を持つ西洋たんぽぽの葉は、蛋白な鯛のお刺身にいいアクセントを与えてくれている。鯛の身もぷりぷりとしていて味が濃く、まさに春の味といった感じで、とても美味しい。
(なんだ、ただの穴場の店だったのか)
どうやら私の心配は杞憂だったらしい。
予想外の味に、途端にご機嫌になった私は、ウキウキでグラスワインを注文した。
注がれる瑠璃色の液体に目を細めて、ぐいと呷る。ヘルシーな鎌倉野菜。それに、ライトボディの赤ワインはぴったりで――ついつい進んでしまった。
「おかわり!」
「……お客様。大丈夫ですか?」
「ら、らいじょうぶです~」
店員さんの心配そうな視線を受けながら、酔いに身を任せる。普段からあまり飲み慣れていないのもあるけれど、一日歩き回ってくたびれていたこともあり、気がつくとずいぶんと酔っ払っていた。自然と口も軽くなり、思わず溜まっていたものを吐き出す。
「私だって、好きで一人で鎌倉に来たんじゃないですよ。『おひとりさま』は別に嫌いじゃないですけどね~。アイツ……アイツが、いつか一緒に行こうねって言ってたから」
「おかわり、どうぞ」
「ありがとうございます! んぐ……っ! ぷはー! それなのにあの男! 同棲していた部屋に、女を連れ込んでたんです。私の部屋着を、浮気相手に使わせてたんです。一緒に選んで買ったベッドで……っ! ああ、ちくしょう!」
「大変でしたね……」
「大変でしたよ!!」
自分の他に誰も居ないのも手伝って、愚痴が止まらない。頭の片隅では、止めたほうがいいとは分かっているのだけれど、吐き出さずには居られなかった。
ここ鎌倉に、私が来たのには理由があった。
私――橘 詩織は、ごくごく一般的なOLだった。
大学を卒業して、それなりの会社に入った。すごく優秀なわけではないけれど、生来の真面目な気質のお陰か、一通りは何でも出来た。おかげで仕事を任せられることも多く、けれども器用ではないせいで、いつも手一杯。日々忙しく過ごしているうちに、28歳……。友人・同僚は次々と結婚、出産、育休……気がつくと、ぽつん、とひとり取り残されていた。
ひたひたと迫りくる三十路の足音に怯えながら、それまでには結婚したいと常日頃から考えていた。――そんななか、出会ったのが彼氏だった。会社の同僚、同じプロジェクトを立ち上げた仲間で、イケメンではないけれど笑顔が可愛い系の同い年。結婚を前提にと言われ、同棲も始めた。ああ、私にも春が来たのだと、天にも昇るような心地でいたというのに。
「新入社員の若い女の子に、あっさりと婚約者を奪われたんです。同棲していた家を、着の身着のまま追い出されて……。あの子と、あの部屋で住むんですってよ! 私が買った家具もあったのに!!」
翌日、なんとか実家から出社したら、見たくもない顔と鉢合わせて……その日のうちに、退職届を叩きつけた。友人には、私が泣き寝入りするのはおかしいと言われたけれど、何はともあれ、あのストレスマックスの空間から逃げ出したかったのだ。
果たして――私、橘 詩織(28)は、仕事も恋人もすべてを失って、ひとり鎌倉へと傷心旅行へ来たのだった。
「大変でしたね」
店員さんの優しい言葉に、涙が溢れる。美味しい鎌倉野菜にワイン。それにイケメン。それは、これ以上ない慰めだった。テーブルに突っ伏して、思いついた言葉をつらつらと吐き出す。それだけで、気持ちが軽くなっていくようだった。
「無職でひとり旅なんて馬鹿みたいですけど……なんか家に引きこもっていると、気が滅入ってきて、出かけずにはいられなかったんです」
すると、泣き言を言っている私を労るように、やたら毛むくじゃらの何かが頭を撫でてくれた。
「あら、馬鹿ね。旅はいいものよ。アンタの行動は間違ってないわ。それにそんな男、別れて正解よ」
その暖かな言葉に、私の気持ちもヒートアップする。だん、とテーブルを拳で叩くと、思いの丈を思い切り叫んだ。
「アラサー女性を捨てるってことの罪の重さを理解してないんですよ、奴は!」
「そうだそうだ! 女の盛りってもんは、短えからな……」
「何を言っておるのだ。鎌倉時代ならともかく、今は、28歳と言えども捨てたものではないであろう?」
「あははー。優しいこと言ってくれるじゃないですか……」
(……ん?)
その時、ふと疑問に思って顔を上げる。
(私……今、誰と話しているの?)
少なくとも、あのイケメン店員ではない。そもそも彼は、汚れた食器を洗うためか、店の奥に引っ込んでいて姿が見えない。しかも、聞こえてきた声は、女性にしては低いけれど、艶のある声だ。それに加えて、少し粗野な話し方をする男性と、古風な言い回しをする男性の声。……それらは、どう考えても初めて聞く声だった。
酔いが回って鈍った頭のまま、勢いよく首を巡らせる。そして、声が聞こえてきた方を見て――私は石のように固まってしまった。
「だから男って嫌よね。自分勝手で……ってアタシも男だったわ、オホホホ!」
――そこにいたのは、ぺろぺろと日本酒を枡から舐めている巨大な黒猫。
「あははは! 流石、姐さん! あは、あははは……あ、顎が外れた」
――カタカタと骨を鳴らして大笑いしているのは、パンケーキをシロップまみれにしているポロシャツ姿の白骨死体。
「男の風上にも置けぬな。鎌倉武士として許せぬ。その輩、拙者が斬ってやろうか」
――頭に矢を刺し、眼窩から目玉を溢れさせている落ち武者は、美味そうに珈琲を啜った。
「ちょっとした事件になっちまうよ旦那。よっしゃ、ここは俺がソイツを化かして、山中に迷い込ませてやろう」
――笠を被ったとぼけた顔の狸は、ナポリタンを食べて口の周りを真っ赤に染めている。
そんな人ならざるもの――あやかしたちが、やいやいと私に向って野次を飛ばしていたのである。
誰もいないと思っていた古民家カフェ。
実は、その店はあやかしたちで満員だったのだ。
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