エピローグ 夏めく鎌倉、今、進む時

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エピローグ 夏めく鎌倉、今、進む時

 夏の鎌倉の朝は、早々に日差しが強くなる。コンクリートに囲まれた都内に比べると幾分ましだが、それでもジワジワと汗を絞り出そうと全身を包み込む熱気は堪らない。麦わら帽子を深く被って、鎌倉の町を日陰を選びながら進む。家によっては打ち水をしてくれているところもあり、そういう場所を通ると空気がひんやりしていて、気持ちが少しだけ緩むものだ。 「詩織ちゃん、おはよう」 「おはようございます!」  カフェの近所に住む顔見知りのおじさんが、通りがかった私に声を掛けてくれた。大きなひとつ目(・・・・)がチャーミングポイントだと常々言っているおじさんは、腕の中にいる猫を愛おしげに撫でている。すると、その猫が急に口を開いた(・・・・・)。 「あれ? サブローは?」 「あの子、寝坊して起きなかったの」 「ボディーガードの癖に。やれやれだね」  そう、その猫は猫又だったのだ。普段から自分をアイドル猫と言って憚らないその子は、深く嘆息すると私をじっと見つめた。 「とっておきのおやつをくれるなら、今日は僕がボディーガードしてあげようか?」 「あはは。大丈夫。もうずいぶん、知り合いが増えたもの。間違ってあやかしに襲われることはなくなったと思う」 その子は、ふうんと蒼い瞳を細めると何かあったらすぐに言いなよ、とおじさんの腕の中で眠り始めた。その真っ白ふわふわの頭を撫でながら、ふと思い出す。この町に来た当初は、何から何まで恐ろしいことばかりだった。  町に出れば、見たくなくともあちこちであやかしの姿を目にすることになる。そのどれもこれもが、おどろおどろしく、普通の人間の感覚からすれば歪なものばかり。どうして彼らの姿が視えるようになってしまったのかと、夜も眠れなかったことは何度もあるし、視えなければこんなにも怖い思いをしなくてよかったのにと自分の状況を理不尽に思ったこともある。でも、彼らはそんな私を受け入れてくれた。仲間だと、鎌倉の住民だと認めてくれた。ふと、街角で見知った異形を見つけると、嬉しいとすら思うようになった。今や、この鎌倉の町は私の帰る場所となりつつある。 「じゃあ、行ってきます!」 「おう、気を付けてな。また珈琲飲みに行くから」 「お待ちしてますね!」 軽やかな足取りで町中を進む。目的の場所はレンバイだ。ここ最近、レンバイでは、多くの夏野菜が並ぶようになった。ビタミンカラーの野菜たちがずらりと並ぶ様は、夏が来たのだとしみじみと実感させてくれる。今日は何があるんだろう。色鮮やかな夏野菜たちが、私を待っている。 すると、ちょうど鎌倉駅のあたりを通りがかった時だ。道端にたむろしている観光客が目についた。それだけならば、別段珍しいことではない。気温が上がるにつれ、由比ヶ浜や江の島へ海水浴客が大勢押しかけてくる。それの影響もあって、近場である鎌倉も観光客が増えるのだ。けれどもその中に、見知った顔を見つけてしまい、心臓が激しく跳ねた。 その人は、さほど身長は高くなかった。私よりも拳一つ分くらい高い程度だろうか。男性としては些か小柄である。けれども、その顔のせいであまり違和感はない。きちんと整えられた眉に、丸みを帯びた瞳、髪は明るい茶色に染められている。鼻はそれほど高くないけれど、笑っているように見える口元も相まって、非常に幼く見え、やけに愛嬌があるのだ。 アロハシャツに水着、ビーチサンダル姿から察するに、どうやらこれから海に向かうようだ。江ノ電の乗り換えついでに、鎌倉に立ち寄ったのだろうか。しかし、そんなのはどうでもいい。私は、その人を見た瞬間、反射的に歩く方向を変えた。 ……なぜならば、その相手とは絶対に顔を合わせたくなかったからだ。 しかし、神様というものは得てして意地悪なことをする。私が逃げ出そうとした瞬間、ぱっとその男性と目が合ってしまった。 「……あれ?」 どうやら、最初は私のことがわからなかったらしい。けれども、少し考え込むような仕草をした男性は、途端に表情を明るくすると――口元からちらりと八重歯を覗かせて、無邪気な笑みを浮かべた。 「詩織じゃん。久しぶり〜。どうしたんだよ、こんなとこで。観光?」 「いや、えっと」 「会社、突然辞めちゃったからさ。心配したんだぜ? ……ほら、俺たち完全な他人ってわけじゃないだろ?」 (どの口がそれを言うわけ……!?) 私は、怒りで飛び蹴りをしたくなる衝動を必死に抑えつつ、愛想笑いを浮かべた。 ――そう、この男こそ私を捨てたかつての婚約者、田中律夫である。 私と婚約していたのにもかかわらず、若い新入社員に手を出し、同棲していた家を着の身着のままで追い出した男である!! 「お、どうした? 知り合い〜?」 すると、律夫のやたらチャラそうな友人が声をかけてきた。友人はジロジロと私を無遠慮に眺めると、ニカッとヤニが着いた歯を見せて笑った。 「え、可愛いじゃん。律夫、やるじゃ〜ん」 すると、途端に律夫の表情が明るくなった。得意満面になって、馴れ馴れしく私の肩を抱いてくる。 「だろ? 俺の元カノなんだけどさぁ。前に別れた時より、美人になったよな。見違えたわ〜」 「え、なになに。ヨリ戻すために、綺麗になっちゃった感じ? 戻しちゃう? 元サヤしちゃう? 律夫、今フリーっしょ」 「まあ、そうだけどな。どっしよっかな〜」 ニヤニヤと厭らしい笑みを浮かべた律夫は、横目でこちらを見ながら、私の毛先を指で弄ってくる。それは、付き合っていた当時にこの男がよくしていた仕草だった。当時は密着具合を心地よく思っていたものだけれど、正直、今は嫌悪感しか湧かない。 (……なんなんだこいつは。なんなんだこいつは! 美人になったって何。確かにコイツと別れた時より体重は落ちたし、肌の調子はいいけれど。それは無駄なストレスから解放されたのと、朔之介さんが作ってくれる野菜中心のヘルシーな食事で生活しているからであって、決してコイツのためなんかではない……!) ――プツン。 どこかで、堪忍袋の尾が切れた音がした。私は律夫の腕をやや乱暴に払うと、距離を取った。 「そんな気はさらさらないよ。たまたま、ここで再会しただけ。触れないで」 「お、ツンツンしちゃって。詩織らしくないなあ」 「うるさい、やめて!」 大声を出して威嚇する。そして、律夫を思い切り睨みつけた。 「アンタなんかとヨリを戻す気は更々ないから。私、仕事中だから行くね」 そして、急いで市場に向かって歩き出した。後方から、「おい!」なんて私を呼ぶ声がする。けれど振り返るつもりはない。もう、あの男は私とは全く関係のない人間だ。 ――やっとたどり着いた市場(レンバイ)は、今日も盛況だった。 いつもお世話になっている農家の人に挨拶する。するとその人は、私を見るなり怪訝そうに眉を顰めた。 「どうした? 泣きそうな顔をして」 「――……っ!」 その日は、どうにも心がざわついて仕方なく、なにもかもが上手くいかなかった。
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