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変わらないもの、変われないもの1
カフェの花形はやはり珈琲だ。注文数は他のメニューに比べると桁違いだし、珈琲が美味しいお店は、常連客が多いような印象がある。豆に拘るとか、淹れ方を工夫しているとか、店によって特色はあるだろうけれど、私は、何よりもそれを淹れる人の「心」が大きく影響するのではないか、と思っている。「心」は味を決める、決定的なスパイスだ。
今日も、店では一杯の珈琲が淹れられている。
作り手は――もちろん、朔之介さんだ。
朝、焙煎したばかりの珈琲豆。それを丁寧に挽いたものを、ドリッパーにセットしたフィルターの中に入れる。そして、ケトルを手にして、おもむろにそれを傾けた。少量のお湯が注がれると、もこもこと粉が膨らんできて、途端にふわりと香ばしい香りが辺りに立ち込める。すると、店内のお客さんも、くん、と鼻をひくつかせて、一様に頬を緩める。蒸らし終わりを待っている彼の瞳は、どこまでも真剣だ。やがて、朔之介さんはもう一度ケトルを手に持ち、再びお湯を注いでいく。毎日繰り返していることとあって、彼の動きに淀みはない。朔之介さんの、ほっそりとしているけれども男性らしい骨ばった手が、みんなが待ち望む一杯を作り上げていく。
(……綺麗)
その流れるような動き、彼の纏う雰囲気に思わず見惚れる。
彼が、一杯一杯、丁寧に淹れる珈琲は、飲んだ者の心を満たしてくれるに違いない。一度、試しに私も挑戦してみたけれど、なかなか彼のように美味しく淹れることはできなかった。一見、お湯を注ぐだけに見えるその行為は、非常に奥が深い。蒸らしの時間、珈琲豆の量、お湯の温度に注ぎ方……きっと、何度も何度も試行錯誤を繰り返した結果、今の味ができあがったのだ。そして、この店は多くの常連客を獲得した。そのことはとても尊いことだと思うし、それを続けてきた彼も――。
「――ブレンド、上がったよ」
「あ。は、はいっ!」
ぼうっと物思いに耽っていた私は、声をかけられて慌ててお盆を手に取った。
そして、急いでそれを持とうとして――。
「あっつう!!」
火傷しそうになって、思わず手を離す。カシャン、と皿とカップが触れ合う音がして、どきりとする。だけど、幸いなことに珈琲は溢れることはなく、ほっと息を漏らした。
すると、途端にどっと笑いが起こって、あちこちから声がかかる。
「詩織ちゃん、落ち着いて~」
「詩織殿は、せっかちであるな」
「ははは……」
私は、常連のあやかしたちに愛想笑いを浮かべると、気を取り直して珈琲を席に運ぶ。そして、やってしまったと肩を落として戻った。すると、いつもの席でひとりお酒を飲んでいた青藍さんが、ニヤニヤ笑いながら私に言った。
「朔に見惚れる気持ちはわかるけど、珈琲落とさないでよ?」
「……なっ、何を言ってるんですか、まったくもう!!」
「ウフフ、イケメンって罪ねえ~」
図星を指されたのが恥ずかしくて、青藍さんの視線から逃れるように、慌ててカウンターの奥に引っ込む。手を確認してみると、ほんのりと赤くなっている。少し冷やした方がいいかもしれない。
(冷やした方がいいのは、私の頭もだなあ。……本当、我が事ながら呆れる)
流水に手を晒しながら、ひとり考え込む。先日、七里ヶ浜で彼と話した時から、どうも色々とおかしい。胸の辺りに意識を向けると、とくんとくんと激しく脈打っているのがわかる。私は大きく息を吸うと、ゆっくりと時間をかけて吐いた。
(……気のせいだったらよかったのに)
――どうやら、性懲りもなく、恋をしてしまったらしい。
そもそも、私は恋人に裏切られてこの地にやってきた。傷ついた心を抱えて、少しでも癒やされようと鎌倉に来たというのに。ずっととまでは言わないけれど、しばらく恋なんてしたくないと思っていたのに、このザマだ。勘弁して欲しい。今、恋をしたって、裏切られるのではとビクビクしてしまうに決まっている。しかも、相手が朔之介さんだなんて、絶対に釣り合わない。あんなに恰好よくて性格がいい彼には、私なんかよりもふさわしい相手がいるはずだ。
(もう、アラサーなんだし。恋をするにしても、身の丈に合ったものがいいよね)
……若い頃なら、後先考えずに突撃したのかもしれないけれど。
今は、駄目だろうと分かっているのに、自分から傷つきに行く勇気なんてない。正直、昔ほど私の心は「頑丈じゃない」。前の職場に所属したままで、状況が変わっていないのであれば、新しい恋をしてもいいじゃないかと開き直れたかもしれない。けれど、転職したばかりの現状は、どこかふわふわしていて、地に足がついていない感覚がある。だから――。
(すとんと恋に落ちるのが怖いというか……なんというか。また何かを失ったら、その傷に今度は堪えられるのかって不安もある。それに、次の恋の相手とは、結婚も視野に入れたいし。それがすべてではないとわかっているけれど、しなくてもいいと割り切れるほどには、私は踏ん切りがついてない)
イケメンで、性格もいい朔之介さん。そもそも彼は……あやかしだ。人間ですらない相手に恋をしたって、報われるものなのだろうか?
はあ、とため息を零して瞼を伏せる。流水に晒している手をじっと見つめて、今までの自分を思い返す。何でもできると思っていた十代。色々なことを経験して学んだ二十代。そして――今。この先、私には何が待っているのだろう。昔ほど夢見がちではいられない。しっかりと地に足をつけて、確実に前へ進まなければと思う。だから、この恋のことは……。
――ああ、アラサーの恋は面倒だ。
「……忘れよう。うん、それがいい」
ひとりごちて、蛇口を捻って水を止める。そのうち、この気持ちも冷めるだろう。恋なんてものは瞬間湯沸かし器のようなもので、一度熱くなれば、後は徐々に冷めていくだけだ。
そう、心に決めた時――ふと、手元に影が差した。
「大丈夫だった?」
「……あっ……」
顔を上げて隣を見ると、知らぬ間に朔之介さんがやってきていた。彼は、心配そうに私の手元を覗き込むと、おもむろに手を伸ばした。
「見せて」
そして、私の手を取るとまじまじと見つめる。そして、ほうと安堵の息を漏らすと、光の当たり具合によっては、金色にも見える瞳をうっすらと細めて笑った。
「うん、薬を塗るほどじゃないみたいだ。でも、気を付けてね?」
「…………はい」
水で冷やされた手に、彼の体温がじわじわと伝わってきて、やたら熱く感じる。
ほっそりとした――けれども、私よりも随分と大きな手が、私のそれに触れている。
「あ」
するとその時、朔之介さんが急に手を離した。そして彼は、少し視線を彷徨わせた後――頬をほんのりと染めて、照れくさそうに歯を見せて笑った。
「心配だったから、つい触れてしまった。悪かったね、怒らないでくれよ」
朔之介さんはそう言うと、充分に冷やしてからおいでと言い残して、カウンターへと戻っていった。りん、と彼の髪飾りが涼やかな音を残していく。私はその音を聞きながら、脱力してシンクに手をつく。はあ、とお腹の底から息を吐いて、熱くなった頬に手で触れる。
「お、怒るもんですか。朔之介、さんの、ばか……」
(ああ。諦めなくちゃいけないのに! もう! もう、もう、もう……!)
――イケメンの無意識な優しさほど、罪深いものはない。
そんなことをぼんやり思いながら、私は、ずるずるとその場に座り込んだのだった。
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