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変わらないもの、変われないもの9
「菊江さん、喜んでくれますかね?」
「きっと大丈夫だよ。上手にできたからね」
春らしい、少し霞がかった青空が広がる午後。ポカポカと暖かい日差しが降り注ぎ、歩いているとじんわりと汗が滲むくらいの陽気の中、私は朔之介さんとふたり、菊江さんの家に向かっていた。朔之介さんが持っている紙袋に入っているのは、ぬか漬けがたくさん入ったタッパーだ。もちろん、菊江さんに貰ったぬか床で漬けたもの。カフェのランチメニューの箸休めにどうかと、色々珍しい鎌倉野菜を漬け込んでいたのだが、やっと納得できる味になったのでお裾分けにきたのだ。
北鎌倉にある家々は、菊江さんのように庭に力を入れている家庭が多い。のんびり歩いているだけで、色鮮やかな花々が視界に飛び込んできて、歩いているだけで心が弾む。灰色めいた冬から色彩豊かな春へ。そして、憂鬱な雨の季節がくる前のこの時期は、一番穏やかで過ごしやすい。
「日差しが気持ちいいですね……」
「そうだね。しばらく晴れが続くようだよ、嬉しいなあ。花粉症の人は大変みたいだけど」
「そういえば、あやかしって花粉症になるんですか?」
「なるよ。一反木綿なんて、この時期鼻水でズルズルになるから、洗濯が大変らしい」
「洗濯。……自分の体の?」
「そう。自分の」
顔を見合わせて、堪らず噴き出す。私と朔之介さんの笑い声が、鎌倉の町並みの中に溶けていく。ここ最近は、今日の天気のように穏やかな毎日をおくっていた。特に事件が起きるわけでもなく、カフェの客入りも好調で、気がつけば夜を迎えているような……そんな日常。
タマの話を聞いてから不安定だった朔之介さんも、近頃は落ち着いてきたようで、普段どおりの様子に戻ってきていた。いや、完全に元に戻ったというわけではない。私と話したり歩いたりすることに徐々に慣れてきたのか、こうして隣で歩く時の距離は縮まったような気がする。それは小さな変化だ。けれど、この僅かな変化さえ彼にとって貴重なものなのだと知っている今は、嬉しいような……くすぐったい気持ちになる。
「……あ、いい香り」
私は、菊江さんの家の傍まで来ると足を止めた。辺り一面に、芳しく上品な甘い香りが漂っている。その香りには覚えがあった。藤の花――この時期、鎌倉の町では度々匂うことのある香りだ。私はなんだか嬉しくなって、朔之介さんの顔を見上げた。
「もしかして、藤が満開になったんでしょうか」
「あれ、最近は菊江さんの家に来ていないのかい?」
「そうなんです。菊江さんの通院と被ったりしちゃって」
「ふうん。でも、時期的にはもう花の盛りが過ぎているかもしれないね。まあ、藤の花は散り際も美しいから、ついでだし見せてもらおうか」
「はい!」
私たちはそんな話をしながら、明月川にかかっている小さな石橋を渡った。そして、菊江さんの家の前に到着すると、チャイムを押す。しかし、中から何も応答はなかった。
「留守でしょうか?」
「おかしいな。今日はいるって言っていたのに」
ふたり顔を見合わせると、なんとなく玄関の引き戸に手をかけてみる。どうやら、鍵は開いているようだ。
「……私、家の中を見てきます」
「僕は庭の方に回ろう」
頷き合って、別行動を始める。家の中は薄暗く、人気は感じられない。いつもは菊江さんが温かな笑みで迎えてくれるのに、しんと静まり返っているこの状況には、酷く違和感がある。
「菊江さん? タマ?」
住人の姿を探して歩みを進める。ギシ、と床板が軋む音がして、私の立てる音だけが家の中に響いている。トイレ、台所、居間――どこを覗いてみても、何の気配もない。寝室の扉の前に立つも、なんとなく中を覗くのは憚られて、先に朔之介さんの方に向かった。
居間を通り抜けて、縁側に向かう。静まり返った室内には、振り子時計の音が響いている。窓辺には外から薄日が差し込んできて、陽光の中に舞い上がった埃がふわりと浮かび上がった。窓際に早足で近づくと、さっと庭を見回した。しかし、先に庭に行ったはずの朔之介さんの姿は見えなかった。そのかわり、探していた人物をそこに見つけて、ほっと胸を撫で下ろす。
「……ああ、よかった」
からりとガラス戸を開けて、敷石の上に置いてあったサンダルを突っかける。庭には散水ホースや腐葉土の大きな袋が出されていて、どうやら菊江さんは庭仕事をしていたようだ。
菊江さんは、藤棚の下に置いてある椅子にもたれて眠っていた。庭仕事をしていたせいか、普段よりは大分カジュアルな恰好をしている。麦わら帽子に、パステルグリーンの長袖の上着に長靴。長袖と長靴に揃いで描かれた蔦模様がなんともおしゃれで、作業着にすら気を遣うところが彼女らしい。その膝の上には、タマが丸くなって眠っている。直前まで撫でてやっていたのだろう。菊江さんの皺の寄った手が、タマの背に乗せられている。
藤棚から差す木漏れ日が、彼女たちを温かく照らしている。朔之介さんの言っていた通り、どうやら藤の盛りは過ぎていたらしい。けれども、葉のみずみずしい若草色、上品な藤の花の紫が、春の明るい日差しに照らされてなんとも色鮮やかだ。鈴なりになった花穂がゆらりと風に揺れると、ぽろぽろと終わりを迎えた花が落ちて地面に積もる。それは、菊江さんたちの上にも降り注ぎ、あらゆるものを紫色に染めていた。
まるで、フランスの印象派画家、クロード・モネの描いた絵画のような優しい色に溢れたその光景に、思わず魅入ってしまう。うっすらと笑みを浮かべているように見える菊江さんと、安心しきって眠りこけているタマが作り出す二人の世界。それはある意味、ひとつの「聖域」を創り出していた。
(……邪魔しないほうがいいかな)
温かな日差しが降り注ぎ、葉擦れの音が満ちている北鎌倉の春は、慌ただしく観光客が行き交う鎌倉駅前と比べると、まるで別世界だ。こんな陽気なら、眠ってしまう気持ちもよくわかる。
すると、サクサクと芝を踏みしめる音が聞こえてきた。それは朔之介さんで、彼は私の隣で立ち止まると、何を語るでもなくじっと菊江さんたちを見つめている。私は、もう一度彼女たちに視線を向けると、うっすらと目を細めて言った。
「気持ちよさそうに眠っていますよね。本当に、このふたりは仲がよくて羨ましい。まるで、幸福ってこういうものなんだって体現しているみたい。この幸せな時間が、ずっと続けばいいのにって、ちょっと思っちゃいました」
「……そうだね」
すると、おもむろに朔之介さんがふたりに近づいて行った。邪魔をしたらいけないと止めようかとも思ったけれど、冷静になって考えてみると、やはり外で眠るのはあまりよろしくない。高齢のふたりだ、何かあってはいけないし、なんて思っていると――朔之介さんが、菊江さんの手首あたりに触れているのが見えた。
「……どうしたんです?」
不思議に思って尋ねると、彼はゆっくりと振り返った。
「ああ、君が考えたとおりだよ。そのとおりに――彼らの時間は永遠になった」
「……え?」
朔之介さんのその顔は、蒼白で。泣きそうで。苦しそうで。切なそうで。とても――辛そうで。
「黒猫の未練はなくなり、もう猫又になることはない。唯一無二の飼い主と共に、きっと今頃は、虹の橋を渡っているんじゃないかな……」
――それは、涙が溢れないのが不思議なくらい、震えた声。
私は目を見開くと、息をするのも忘れて、朔之介さんの隣に立った。そして、恐る恐るタマの上に置かれた菊江さんの手に、触れた。
温かな日差しが降り注ぐ、眩しいくらいの春の庭。
その手は、周囲を取り巻く温い空気とは裏腹に、恐ろしいほど冷え切っていた。
***
菊江さんの通夜は、週末にしめやかに執り行われた。
通夜で会った、菊江さんに目元がそっくりな長男さんは、私たちが菊江さんを見つけたのだと知ると、丁寧にお礼を言ってくれた。
「母は昔からこの鎌倉の地が好きでね。本当は、歳をとった母を都内にある自分の家に呼ぼうとしたんですが、頑として来ようとしなかった。鎌倉には大切なものが沢山あるからと言って……。誰もいなくなった家で、病を抱えながら猫とふたりきりだなんて、寂しいだろうと思っていたんですが」
長男さんは少し遠くを見ると、亡くなった母を想ってか、淋しげな表情を浮かべた。
しかし、すぐに苦笑を浮かべると、参列者の列に視線を移した。
「だが、そうでもなかったらしい」
菊江さんの通夜に参列する人のあまりの多さに、長男さんは驚いているようだった。カフェの常連客に、同じ北鎌倉のご近所さん、それに商店街の人々……。参列者の中には、人間に混じって多くのあやかしの姿が見られた。その誰もが黒い装いを纏い、沈んだ表情をしている。
「菊江殿……もう、会えないだなんて」
「畜生め。人間ってどうしてこうも簡単にいなくなるのかね」
「どうか……安らかに」
彼らは涙を浮かべつつ焼香を済ませると、遺族に深く一礼する。人であろうと、人ならざるものであろうと、涙を零し、別れを惜しむ心は変わらない。それは、どこか不思議な光景だった。
「自分は久しぶりに鎌倉に来ましたが、ここは相変わらず、古きものが今に絶妙に入り混じった独特の土地ですね。そのせいでしょうか。とても――温かい。自分たちが忘れてしまったものが、まだここにはある。……母が離れ難かったはずです」
長男さんが噛みしめるように言ったその言葉。それは、とても印象的だった。
通夜が終わった私たちは、カフェに戻ってきていた。すでに外は暗くなり、店内は赤みがかった灯りでぼんやりと照らされている。今日は臨時休業だ。けれども、自然と常連さんが集まってきて、各々「いつもの席」に座っていた。
しかし、誰も新聞をめくることもせず、本を読むこともない。何を口にすることもなく、ただその場に静かにいるだけだ。珈琲の香りがしない店内には、ただひたすら静寂が満ちている。
「……変な話ではあるが……」
誰もが押し黙っている中、口を開いたのは、落ち武者の与一さんだ。彼はとある席に目を向けると、手で目頭を押さえて言った。
「明日になれば、菊江殿がまた、ひょっこり店に顔を出すような気がするのだ。はは、あの方があやかしになんてなるはずはないのに」
その席は、菊江さんの指定席だった。庭が望める、眺めのいい席ではあるのだが、時間帯によっては日差しが差し込んできて、とても暑くなる。そういう時、菊江さんはいち早く気がついて、率先してカーテンを締めてくれた。正直、忙しい時などはとても助かっていた。
「花も……持ってくる人がいなくなっちまったなあ……」
そう呟いたのは、化け狸の源五郎さんだ。店の一角には、藍色の花瓶が置いてあった。そこには、毎日季節ごとの花が生けられていた。それらはすべて、菊江さんが持ってきたものだった。彼女が庭で丹精込めて育てた花を、いつも持ってきてくれていたのだ。店に彩りを添えてくれていたのも、菊江さんだった。
「菊江さんの作った差し入れ、もう食べられないのか。楽しみにしてたのに」
しみじみと言ったのは、骸骨の田中さんだ。菊江さんは、たびたびタッパーに入れた食事を差し入れしてくれた。そういえば、その味が随分前に亡くなった母親が作ってくれたものに似ていると、田中さんはいつも嬉しそうに持って帰っていた。
「――ああ、人間というのは本当に儚いものだ」
そう呟いたのは、一体誰だったか。その言葉を皮切りに、また沈黙が落ちた。店内に響いているのは、誰かが鼻を啜る音。そして小さな嗚咽。あまりの空気の重さに堪えきれなくなった私は、キッチンへと足を向けた。すると、そこには朔之介さんの姿があった。見ると、珈琲を淹れる準備をしているようだった。
「どうしたんですか? 今日はお休みだって青藍さんが」
私が声をかけると、朔之介さんは驚いたように顔を上げた。どうやら、今しがたまで私が来たことに気づいていなかったらしい。彼は少し困ったような顔になると、鋏を手にして言った。
「確かに休みだけどね。でも、常連さんたちが来ているだろう? せめて、珈琲くらいは出そうかなって。……きっと、少しは落ち着くだろうし」
そう言って、朔之介さんはまた手元に目線を落とした。どうやら、珈琲豆の袋を開けようとしているらしいのだが、苦戦しているらしい。酸化させないようにという配慮からなのか、袋の口はガチガチに固められていて、普段であっても開けるのは結構苦労する。朔之介さんは、袋としばらく格闘していたが、どうにも開けることができなかったようだ。
――カシャン!
仕舞いには、諦めたのか鋏をシンクに投げ出してしまった。がっくりと項垂れて、髪を乱暴にかきむしる様は、見るからに苛立っているし彼らしくない。私は朔之介さんの隣に立つと、そっと背中に手を添えた。すると、彼はビクリと体を竦めると、泣きそうな顔で私を見つめた。
「……ここは私に任せて、少し休んだらどうですか」
「でも……」
彼の体からは、まだ線香の香りが匂ってくる。それがまた、更に彼の悲しみを増しているように思えてならない。私は、なるべくにこやかであるように心がけて言った。
「大丈夫。大丈夫です」
私がそう言うと、朔之介さんの瞳が大きく揺れた。彼は、ふいと顔を背けると小さな声で言った。
「……じゃあ、おまかせするよ」
「温かいものでも用意していきますね」
「うん、よろしく」
朔之介さんは顔を背けたまま、頭を軽く下げると、フラフラと店の中に戻っていった。
「……ふう」
彼の姿が見えなくなったのを確認して、キッチンの壁に寄りかかる。
――一体、何が大丈夫だと言うのだろうか。
自分で口にしたこととはいえ、正直それが何を指しているのかわからなかった。けれど、今はこの言葉が相応しいような気がして、思わず口にしてしまったのだ。
『――あの人には心安くいて欲しいの。幸せになってほしい』
菊江さんの言葉を思い出して、胸が苦しくなる。
誰にも愛情を注がれず、不治の病に侵されたまま、サナトリウムに置いていかれた彼にとって、心の一部を占めていた大切な誰かが去ること自体、恐怖以外の何ものでもないだろうに。死というものは、遺されたものに容赦なく伸し掛かる。その重みに堪えられるかは、本人次第だ。
「彼にかかる重さを、少しでも分かち合えたら……」
思わず口にして、すぐに首を横に振った。諦めたはずの恋だ。けれど、彼を助けたいと思う気持ちは募るばかりで、しかし友人として支えるには、彼の抱えるものは重すぎる。心の奥で火種が燻っているのは理解している。チリチリと水面下で範囲を広げていく火種は、私の体を、そして心をじわじわと焼き尽くそうとしている。
「……どうすれば……」
その時、誰かが私の肩を優しく叩いたような気がした。
「大丈夫、大丈夫。肩の力を抜いて?」
更には、優しい声が聞こえたような気がして、心臓が勢いよく跳ねる。思わず振り返ろうとして――けれども、自分が壁に寄りかかっていたことを思い出して、動きを止めた。そして思い出したのだ。
『大丈夫、大丈夫』
それが、菊江さんの口癖だったことを。
心臓を中心に、じわじわと温かいものが広がっていって、目頭が熱くなる。同時に、寂しさがどっと押し寄せてきた。
「菊江、さん。私……」
私は袖で滲んだ涙を拭うと、壁から背を離し、背筋をシャンと伸ばした。そっと胸に手を当てると、目を瞑る。私の中には、菊江さんから貰ったものがたくさん詰まっている。
――自分の気持ちに臆病になったら駄目。我慢なんて、体に悪いだけだ。後悔のない人生を送ろう。私は……変わりたい。私は人間だ。気持ち次第で、いくらでも変われるはず。大丈夫、きっと――大丈夫!!
「よっし!」
私は、腕まくりをすると冷蔵庫に向かった。
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