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プロローグ 春めく鎌倉、出会いの時3
「ひっ……!」
思わず小さく悲鳴を上げて、椅子を引く。ガタン、と椅子が鳴ると、あやかしたちは一斉に口を閉ざして、しんと店内が静まり返った。
おどろおどろしい格好をした者。動物の姿を模した者。様々な風体のあやかしたちは、瞳の奥に知性の光を宿して、じっと無言で私を見つめている。
――あやかしもどうぞ。
あの看板が脳裏に蘇ってきて、はっと息を呑む。
(アレは、本当だったんだ……!!)
あまりの恐怖に体が震え、嫌な汗が背中を伝った。どうにか逃げ出せはしないかと、辺りを見回す。すると、私のすぐ隣に座っていた巨大な黒猫が、どろんと煙を纏って姿を変えた。現れたのは、着流しを着た男性だ。長い黒髪を後ろで結い、涼やかな目元には朱を指している。その人は頭上の猫耳をぴくりとこちらに向けると、切れ長の目をさも面白そうに三日月型に歪めた。
「おや、この子。アタシたちに気がついた」
「……っ!!」
それが合図だったかのように、私は席から立ち上がった。椅子が倒れたのにも構わず、出口に向って駆け出す。すると、正面から店員さんがやってきた。
「どうかされましたか?」
一瞬、ほっとして、彼の整った顔を見上げる。すると、その額に尖った角が二本存在することに気がついて、途端にどん底に突き落とされたような気分になった。
「お客様?」
「どいてっ……!!」
足を縺れさせながら、店員さんの脇をすり抜けて外に出る。
外は既に日が落ちてしまっていた。生暖かい空気が肺に流れ込んできて、なんとも気持ち悪い。どくどくと激しく鼓動する音が、耳の奥で鳴り響いている。途端にお腹の底から吐き気がこみ上げてきて、ふらつきながらもようやく門に辿り着いた。ここは小町通りから少し外れた路地だ。流石に人通りは少ないけれど、チラホラと人影が見える。よかった、彼らに助けを求めよう。もう大丈夫だ――そう思った瞬間。
――私は言葉を失った。
「お母さん、お腹へった!」
「はいはい。早く帰りましょうね」
私の目の前に広がっていたのは、ごくごく普通の日常の風景。ただし、子どもの肌が燃えるように赤く、額からは角が生えている。母親の口から覗く牙は、異常なほどに凶悪だ。空を見ると、恐ろしいほどに巨大な月の下、布のようなものが飛んでいる。それは、風向きには関係なく、自らの意思を持って宙をさまよっているように見えた。道路の反対側の薄暗い小路に目を遣ると、暗闇の中で無数の目がこちらを見ている。怪しい光を放つその目は、何度も瞬きを繰り返し、まるで私に襲いかかるタイミングを見計らっているよう。ふと通りの向こうを見ると、観光客を乗せた人力車が走っている。けれども、それを引く人夫の腕は異常なほどに膨れ上がっており、顔に目がひとつしか存在しない。
「……どういう、こと……?」
私はへなへなとその場に座り込むと、動けなくなってしまった。
まるで、異世界にでも迷い込んでしまったようだ。自分の身に一体何が怒っているのか、まったく理解できない。もしかしたら、私は来てはいけない場所に来てしまったのだろうか。鎌倉というこの場所は、実は魔境だった――?
すると、突然何かに襟首を引っ張られて、ふわりと体が浮き上がった。
恐る恐る首を巡らせると――それはあの巨大な黒猫だった。
「あらあら。腰が抜けちゃったのね。ほら、いらっしゃい」
黒猫はそう言うと、まるで子猫にするように、私を口で咥えたまま、店内に戻ろうと足を向けた。
(――あ、コレ美味しく食べられちゃう奴)
私は、ちっとも力が入らない体に絶望しながら、悲鳴を上げる気力もなく、まるで神様に捧げられる生贄のような気分で、無理やり店内に戻されたのだった。
***
「災難だったわね」
目の前には、凶悪な牙が並んだ大きな口――ではなくて、ホカホカ湯気を立てている、熱いほうじ茶。香ばしい匂いが鼻を擽り、困惑して周囲を見回す。
巨大な猫は、また着流しの男性に変化して、私の隣に座って楽しそうに笑っている。その他のあやかしたちも、興味深そうに私を見てはいるものの、襲ってくる様子はない。
すると、身を固くしている私に男性は優しく声を掛けてきた。
「別に取って食おうだなんて思っていないわ。落ち着きなさい。ほら、甘い物食べる? パフェでも用意しようかしら」
「い、いえ。お構いなく」
慌てて遠慮すると、「そう」とその人は頬杖を突いて微笑んだ。
縦長の瞳孔がすうと細まって、目の前の存在が、酷似してはいるが人間とは違うものなのだと思い知る。どうにも落ち着かなくてソワソワとしていると、男性が口を開いた。
「そういえば、自己紹介もまだだったわね。アタシは青藍。この辺りに古くから住む猫又。……アンタが考えている通り、人間じゃない。あやかしよ」
青藍は「これは他言無用よ」と前置きをすると、鎌倉の地について話してくれた。
「日本には、『古都』と呼ばれる古い都市がいくつもある。そういうところはね、古来よりあやかしたちが住んでいるの。それも――その土地の人間と共存しながらね」
「そ、そんな話、聞いたことありません。奈良も京都も行ったことあるけど、あやかしなんて見なかった」
「それはアンタが外部の人間だったってだけ」
青藍は意味ありげに瞼を伏せると、名の通り青藍色に染めた爪を指先で弄りながら言った。
「あやかしは地元民にしか視えない。そういうものなのよ」
彼の話によると、あやかしたちは人間社会に溶け込むため、外部からくる人間や観光客には分からないように、姿を偽っているという。彼らのさじ加減で、店員さんのように完璧に人間に偽装することも、先程の青藍たちのように、姿をまるきり消す事もできるそうだ。
「……な、なら。どうして私にはあなたたちの姿が視えているんですか? 私、別に鎌倉生まれでもなんでもないのに」
「うーん。よく分からないけど……。きっと、この土地の古くからいる神様がアンタを呼んだのよ。ねえ、ここに来るまでに何かに会わなかった?」
考えてみても、思い当たる節はない。直前に会ったのは猫ぐらいだ。あの可愛い猫ちゃんが? まさか……なんて思っていると、知らぬ間に得体の知れない何かとニアミスしていた可能性にゾッとする。私は、ふるふると首を振って恐怖を振り払うと、気を取り直して顔を上げた。
「な、なにはともあれ、事情は分かりました。ご飯、美味しかったです。お代はここに置いておきます。あ、お釣りはいりません」
(こんな場所からはとっとと退散しよう)
私は五千円札をテーブルの上に置くと、立ち上がろうとして――足に力が入らず、倒れそうになってしまった。
「おっと」
「あ……す、すみません」
咄嗟に、店員さんが支えてくれたので、お礼を言う。すると、店員さんは若干顔を強張らせると、すぐに私の傍から離れてしまった。その態度を不思議に思っていると、背後から青藍の笑い声が聞こえてきた。
「あーあ。まったく、そんな体たらくでどうやって帰るつもりなのよ」
青藍は呆れたように肩を竦めた。更には、このまま帰るのは危ないとまで言い出した。
「な、なんでです? 家に帰るだけですよ!?」
「馬鹿だね。別に止めはしないけど、あやかしが視える『よそ者』を外の奴らが放っておくとは思えない。無事に家にたどり着けるかねぇ……」
「どどどどど、どういうことですか!?」
「だって『よそ者』であやかしが視えるなんて、『祓い屋』くらいだからね」
「誰ですかそれ!?」
「あやかしを狩って飯のタネを稼いでいる奴ら。要するに――敵よ」
祓い屋に間違われて、あやかしたちに追いかけられたり、齧られたりしないといいわね、と青藍は笑っている。さあっと血の気が引いていくのが分かる。これって、たとえ無事に鎌倉から出られたとしても、どこかであやかしに遭遇でもしたら――命が危ないってことじゃないか。
「つ、詰んだ……?」
彼氏に捨てられたばっかりでこの仕打ち!? と、ひとり絶望感に包まれていると、突然、青藍が得意げに手を打った。
「いいこと思いついたわ! アンタがあやかしに襲われないように、ボディーガードを貸してやろうか」
「いいんですか!?」
思わず、興奮して身を乗り出す。すると、青藍はニコニコと笑みを浮かべながら、とんでもないことを言い出した。
「そのかわり、この店で働くの」
「へっ……!?」
「住む場所も用意してあげるわ。職なし、家なしなんでしょう? ちょうどいいじゃない!」
待って、と声を掛けても青藍はトントン拍子で話を進めていく。
「給料はこれくらいでどう? 安心して、うちの福利厚生はしっかりしているから。有給もあげるし、まかないもつく。このご時世、いい条件だと思うのだけど?」
「確かに」
思わぬ好条件に、うっかり了承しそうになる……が、青藍の背後に犇めくあやかしたちを見て、言葉を飲み込んだ。おどろおどろしい彼らがいるこの場所で、私は上手くやっていけるだろうか、正直不安しかない。
すると、そんな私を見かねたのか、おもむろに店員さんが口を開いた。
「急な話だからね、慎重に考えるべきだとは思うけど……。でも……もし、君が働くことになったら、精一杯手助けさせてもらうよ」
イケメンが浮かべた笑顔。それは血まみれの落ち武者やら、骨やら動物の犇めくカフェ店内にあって、まるで太陽の光のようだった。彼ならきっと、有言実行してくれるに違いない。それに――。
(あやかしに齧られたくなかったら、どのみち、ここで働くしか道はないよね)
私は肝を据えると、青藍に向き合って深く頭を下げた。
「青藍さん。ここで働かせてください。私、橘です。橘詩織といいます。ど、どうぞ宜しくお願いします……」
「あら、嬉しい! もちろんよ。ボディーガードの手配は任せてちょうだい」
「本当にいいのかい? ……僕の名前は朔之介。どうぞよろしく、橘さん」
ひとつ決心をすると、途端に気持ちが晴れてきた。
ここに来たのも何かの縁だ。どうせどん底だったのだ。失うものは何もない!
私は青藍さんの手を握ると、お世話になりますと言葉を重ねた。そして、続いて朔之介の手を握ろうとして――何故か、笑って躱されてしまった。
「――あれ?」
思わず首を傾げた瞬間、それまで黙って話を聞いていたあやかしたちが騒ぎ出した。
「よっしゃ、お前ら今日は歓迎会だァ! 飲むぞォ!」
「ちょっとアンタら、ここは居酒屋じゃないのよ! カフェなんだからね!!」
「ははは、祝い事は盛大にするべきだと拙者は思うが。なあ、お嬢さん」
「ひぃ、落ち武者!?」
眼前に迫る腐りかけの武士の顔に、気が遠くなりかける。堪らずのけぞった私を支えたのは、どうみても白骨死体。――ああ!! もう逃げ出したい気分になってきた。けれど、了承してしまった以上は、もう後には戻れない。私は、心配そうに顔を覗きこんでくるあやかしたちに愛想笑いを浮かべながら――前途多難な己の人生に思いを馳せた。
傷心旅行でやってきたはずの鎌倉。
何もかも失い、半ば自棄になって一人旅を決めた。
春は出会いの季節。暖かな息吹が運んできた予想外の出会い。
少しでも癒やされたいとやってきたこの地で、あやかしたちとの新しい生活が――今、始まろうとしている。
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