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心に沁みる珈琲3
朔之介さんが住んでいた別荘の場所については、簡単に調べがついた。猫たちのネットワークというものは、凄まじいものだった。なにせ、その日の晩までに、鎌倉中の情報が集まってしまったのだから。その結果、長谷のあたりに朔之介さんの父親の別荘があったことがわかった。長谷は、鎌倉駅から江ノ電で三駅の場所にある。鎌倉観光の定番中の定番、鎌倉大仏擁する高徳院や、長谷観音がある長谷寺など人気観光地が集まっており、平日であっても観光客でごった返している町だ。
長谷には、旧諸戸邸という明治期に建てられた洋館がある。最近まで、子ども会館として利用されていたのだが、大地震で崩壊するおそれがあるとして、現在は閉館している。その洋館の近くに、朔之介さんの父親も別荘を所有していたらしい。しかし残念なことに、建物自体は取り壊されてしまったのだそうだ。予想はしていたが、やっぱりかと肩を落としていると、そんな私に青藍さんは意味ありげに言った。
「残念がるのはまだ早いわ。実はね、当時から使われている蔵が残っているの」
そして、パチリと片目を瞑ると、ふふふと楽しげに笑った。
「今の持ち主は、東京から鎌倉に移住してきた『よそ者』だそうでね、普通なら、前の持ち主の荷物なんて処分してしまうでしょうけど……。噂によると、蔵の中身を確認していないらしいの。なにせ、その蔵は『いわくつき』でね、夜になると中から変な声が聞こえてくるんですって」
「な、なんですか。その唐突なホラー感! 私、そういうのあまり得意じゃないんですけど!?」
「あやかしだらけの町に住んでおいて、なによ今さら」
「そういう問題じゃありません!」
鳥肌が立ってしまった腕を、必死に手でさする。古びた蔵から漏れ聞こえる、恐ろしい声――。そんなものが夜な夜な聞こえてくる場所に住むだなんて、正気の沙汰とは思えない。すると、青藍さんは「これは喜ばしいことなのよ?」と呆れ顔で言った。
「蔵は古いものを納めておく場所だわ。古いものには色んなものが宿るのよ。付喪神やらなんやら――変な声だろうがなんだっていいわ。もしかしたら、蔵の中に当時のことを知る『誰か』がいるかもしれないじゃない!」
――蔵の中にいる誰か。
それが本当にいるかどうかを調べるため、私たちは長谷へとやってきていた。朔之介さんがかつて暮らしていた家は、駅からそれほど遠くない場所にあった。小洒落た家々が立ち並ぶ中に、ちらほらと歴史を感じさせる作りの家が混じる、なんとも鎌倉らしい風景が広がる住宅地。そこに、一軒だけ高い塀で囲まれた家がある。塀の向こうには、白壁の土蔵が建っているのが見えた。周りには、同じような土蔵は見当らないので、それは町並みの中で異様な存在感を放っていた。
「そういえば、鎌倉で土蔵ってあまり見かけませんね?」
「そりゃそうよ。別荘として栄えた鎌倉だけど、当時の流行りは洋館だったのよ。洋風の建物に土蔵は合わないもの。でも、朔の父親は美術品の収集癖があってね。多くなりすぎたコレクションを入れるために、土蔵を作ったんですって」
「話を聞いていると、本当に成金ここに極まれりって感じの人ですね」
「そりゃあね。愛人を本妻と一緒に自宅に住まわせるような男だもの」
「……わー……」
若干辟易しながらも、壁越しに見える蔵を、もう一度見上げる。
建てられた当時は輝くほどだったであろう白壁は、ところどころ黒ずみ、細かいヒビが入ってしまっている。それは土蔵が長い時間ここに存在し続けた証明であり、現代にはない「強さ」が感じられる。なにせ、この蔵は関東大震災も、戦後の激動の時代も超えてきたのだ。私なんかには想像できないほど、多くの情報が蓄積されているのだろう。
そのことに思い至ると、なんだか蔵自体が恐ろしく思えて、自分で自分を軽く抱きしめた。すると私の背後から、聞き慣れた声がした。
「ま、成金でどうしようもない父親ではあったが、皮肉にもその行いのせいで、こうやって土蔵が残っているのだからな。少しは感謝してやってもいいかもしれぬ」
「ちげぇねえや。駄目親父も、たまには役に立つな。わはははは!」
「いや、待って。そもそも、その父親の行いが悪かったから、朔之介さんは鬼になったんだよね!?」
そこにいたのは、カフェの常連客たちだ。彼らは、店でするように調子よく会話を交わしている。どうして彼らがここにいるのだろう。いつもならカフェで駄弁っている時間なのにと不思議に思っていると、私の疑問に青藍さんが答えてくれた。
「アタシたちは、『仲間』なんでしょ? なら、全員で事態に対処するべきだと思わない?」
「それはありがたいですけど……」
ちなみに、今日、カフェは普通に営業している。朔之介さんが、ひとりで店を回しているはずなのだが――。
「ひとりも常連さんが来ないから、不思議に思っているでしょうね……」
「大丈夫よ。大首に思いっきり我儘してもいいわよって、言いつけておいたから。それどころじゃないわよ」
「うわあ」
例のパンケーキ騒動の時の彼女が、青藍さんの命令で暴れているらしい。それって、結構大変じゃないだろうか。私は、朔之介さんの無事を祈りつつ、わざわざ長谷までやってきてくれた常連さんたちに頭を下げた。
「私の我儘に巻き込んでしまって、すみません」
すると、落ち武者の与一さん、化け狸の源五郎さん、骸骨の田中さんは顔を見合わせると、照れ臭そうに笑った。
「頭を下げる必要はない。我らは『仲間』なのだろう?」
「そうだそうだ。ただの客と店員じゃねえ。俺らにも、なにかさせてくれよ」
「遠慮しないで! 僕らにしかできないことだってあるだろうしね!」
与一さんは、任せておけと威勢よく自分の胸を叩いた。すると、眼窩からぽろりと目玉が飛び出してしまい、「おっと」と慌てて仕舞い込んだ。それを見て、大笑いした源五郎さんは、前に突き出たお腹をぽぽんと叩く。更には、田中さんが笑うと、カタカタと骨が鳴る音が辺りに響いていった。
初めて会った時は、そのみかけのあまりの恐ろしさに卒倒しそうになったけれど。
今となっては、愛嬌があるとすら思えるから、なんとも不思議だ。
「じゃあ、遠慮なく。どうぞ、よろしくお願いします!」
私が改めて頭を下げると、彼らは「おう!」と景気の良い返事をくれたのだった。
なんだか上手く行きそうな予感に、胸が高鳴る。けれども、一抹の不安もあった。他人の敷地内にある土蔵に、どうやって行くのだろう。家主に頼み込んだりするんだろうか……?
「やあやあ、どうやらみんな揃ったようだね」
するとそこに、やたら気障な声が聞こえてきた。やっと来たかと、声のした方を振り返る。すると目に飛び込んできた光景に、ぎょっとして思考が停止した。
「――さて。では、行こうじゃないか! 一同、僕について来たまえ!」
そこにいたのは、もちろん豆腐小僧。けれども、いつもの彼とは様子が違った。
頭をポマードで撫で付けてオールバックにし、普段よりも地味な銀縁眼鏡。手にはビジネスバッグを持っている。糊のパリッときいたシャツに、ストライプのスーツ。合わせたのは、薄桃色のやや派手なネクタイ。そこには、ピシッと決めた、営業マン風イケメンが立っていたのだ――。
*
「奥様、よくお似合いですよ」
「あらまあ。そうお? ふふふ、どうしようかしら。買っちゃおうかしら」
かつて朔之介さんが住んでいた別荘の跡地に建てられた家は、戦後にできた比較的新しいものだった。いかにも、昭和の家という佇まいのその家には、東京から来た中年夫婦が住んでいる。住民の女性は、チャイムを鳴らした時はぶっきらぼうな対応だったのにも関わらず、インターフォンのカメラを豆腐小僧が覗いた途端、態度が急変した。いそいそと玄関先に現れた女性は、営業マンを装った豆腐小僧たちと長々と話し込んでいる。
「ああ、源五郎くん。駄目だ駄目だ、奥様の白魚のような手には、もっと色のはっきりした石が似合う」
「確かにそうですね。こちらも試着してみましょう。――失礼」
「きゃっ。うふふふふ、男の人に指輪を嵌められたの、何年ぶりかしらぁ」
女性は、頬を薔薇色に染めると、今にも昇天しそうなほどに表情を蕩けさせている。
彼女に相対しているのは、営業マン風の豆腐小僧――それと、童顔の営業マンに「変化」した、化け狸の源五郎さんだ。
「ああ、やっぱりこっちのが素敵です。似合いすぎて、僕、うっとりしてしまいます」
普段のがさつな口調はどこへやら、女性をお姫様扱いしている源五郎さん。彼もなかなかの美形だ。アイドルグループにでもいそうな、優しげな風貌に柔らかい物腰。仕事ができそうな見た目の豆腐小僧に比べると儚げなところがあって、母性を擽るような甘さがある。そんな彼に、対抗心を燃やしている風の豆腐小僧は、その場に跪き、女性の反対側の手を取って、上目遣いで見つめている。
「確かに、源五郎くんの言う通りだね。でも――僕はね、どんなに美しい石であっても、この人を飾り立てるには少々物足りなく感じてしまうんだ。だって、あなたは眩しいくらいに輝いているんですから」
どろどろに煮詰めた砂糖に、更に蜂蜜と人工甘味料を加えたような台詞を吐き、にっこりと笑みを浮かべる豆腐小僧。その手はゆっくりと女性の手を撫で摩り、瞳は熟成しすぎた果実のように蕩けて、胸焼けしそうなほどの熱視線を女性に向けて放っている――。
「ぐふっ」
「お、奥様!? 奥様―!!」
とうとう昇天してしまった女性は、潰れた蛙のような声を上げて意識を失ってしまった。ふたりは、慌てた様子で女性に駆け寄ると、心配そうに声をかけてやっている。……源五郎さんのお尻から生えているしっぽが、ぴゅんぴゅんご機嫌な様子で揺れているから、演技なのだろうけれど。
「やりすぎな感はあるけれど……まあいいわ。さあ、みんな。家の裏に回るわよ」
物陰で、彼らの様子を見守っていた青藍さんは、おもむろに移動を始めた。私は彼の後に続きながら、混乱するままに尋ねた。
「あの……あれは一体なんだったんです?」
すると、青藍さんはなんとも複雑そうな表情を浮かべて言った。
「別に、豆腐小僧がここの家主を足止めしてくれるって言うから任せただけよ。あの女性が、週末ごとにそういう店に通っているって情報は伝えたけどね?」
「ホスト……ですか」
「楽しそうで何よりだわね……」
ちなみに、女性が試着していた宝石類は、源五郎さんがそこらへんの葉っぱで作った偽物だ。源五郎さんが離れすぎると術が解けてしまうというので、彼も参戦することにしたらしいけれど、あそこまでやる必要はあったのだろうか。あやかしに「化かされている」人間を見るというのは、なんとも複雑な気分だ。
歩きながら、ちらりと後ろを見ると、豆腐小僧と目が合った。彼はパチリと片目を瞑ると、人差し指を形の良い唇に当てた。その、まるで俳優のような仕草に、普通の女性ならばキュンとするのだろうけれど。どうにも小僧姿が脳裏から離れない私は、必死に笑いを堪えつつも、彼に手を振ってから青藍さんの後を追ったのだった。
*
「ここが、例の蔵ですね」
庭を通って家の裏手に回ると、庭の奥に白壁の土蔵が鎮座しているのが見えた。改めて見ると、土蔵の存在感に気圧されそうになる。ここに、当時のことを知っている「誰か」がいるのかもしれないと思うと、緊張で手に汗が滲んでくる。土蔵に近づき、そっと耳を澄ましてみる。けれども、まだ明るいからか、噂で聞いた「変な声」というのは聞こえてこなかった。
「さて、どうしようかしらね」
青藍さんは、ふむと腕を組むと、難しそうな顔をして入り口を見つめている。観音開きの扉には錆びついた鉄の錠がかかっていて、どうにも開きそうにない。
「ふむ。ここは拙者の出番であるな」
そこで前に出てきたのは、落ち武者の与一さんだ。彼は腰に佩いていた刀をすらりと抜くと、真正面に構えた。夏の日差しが刃に反射して、ぎらぎらと強い光を辺りに放っている。半眼になった与一さんは、じっと錠を見つめた。そして――意外なほどにゆっくりと、動き出した。
「――ふっ!」
鋭く息を吐き出すと、一度だけ剣を振るう。すると、一瞬遅れて、きん、と甲高い音が聞こえた。……ごとり。鈍い音を立てて、鉄の錠前が地面に落ちると、みんなの間から歓声が上がった。
「すごい! さすが鎌倉武士! 与一さんってば、てっきり弓のほうが得意なのかと思ってました!」
「ははは。正直、弓は苦手なのだ。那須与一のせいで誤解されがちなのだが、刀の扱い以外は自信がない」
「謙遜することありませんよ。金属を斬るだなんて、よっぽど腕がないと――」
「誰かいるのか?」
「……っ!」
与一さんの活躍に大はしゃぎしていると、家の方から見知らぬ男性の声が聞こえ、慌てて口をつぐむ。
「……しっ。まずいわね、旦那がいたのね」
どうも、女性の夫に気づかれてしまったらしい。庭に面したガラス戸が開く音がしたので、慌てて死角へと逃げ込む。
「ど、どうしましょう?」
「参ったわね。そんなに広い庭じゃないのに」
辺りを見回しても、そうそう隠れるところはなさそうだ。玄関の方へと戻ったとしても、女性と鉢合わせてしまう。――万事休すだ。
するとその時、田中さんと与一さんが動き出した。
「ここは僕らに任せておいてよ」
田中さんは、自信満々の様子で両手を合わせると、ポキポキと景気よく骨を鳴らしている。正直、指の骨が外れそうなのでやめてほしい。
「我らが殿を務めよう。ふたりは先に行ってくれ」
そして、与一さんは抜身の刀をぎらりと目の高さまで掲げると、元々血で濡れている口元を歪めた。
「あの、手荒なことはしませんよね……?」
こんなことで、人死にが出るなんて後味が悪すぎる。思わず確認をすると、彼らは顔を見合わせて笑った。
「当たり前だ。人を傷つけるなんてもってのほかだ。我らはあやかしではあるが、人と同じ世に生きるもの。最低限のルールは守る」
「ま、不法侵入の真っ最中だけどね?」
「言うな、田中殿。蔵の中身を確かめるだけなのだ。お天道さまに顔向け出来ぬようなことではない!」
「ま、いいけどさー。朔之介さんの美味しい珈琲を飲むためだからね、任せておいて」
そう言って、ふたりは私たちに背を向けた。甲冑を着た落ち武者と、なんとも風通しの良さそうな骸骨の背中が遠ざかっていく。その頼もしさと言ったら、言葉に言い表せないほどで、私は泣きそうになるのを我慢しつつ、彼らに「気をつけて」と声を掛けた。
「じゃあ、開けるわよ」
「はい!!」
青藍さんと頷きあって、土蔵の扉に手をかける。男性のけたたましい悲鳴が背後から聞こえたけれど、それは気にしないことにして、思い切り取っ手を手前に引いた。
――耳に飛び込んできたのは、蝶番の軋む音。鼻をついたのは黴と埃の匂い。目の前に広がったのは、濃縮された闇の色。目を凝らして中を覗き込めば、埃が被った木箱がぽつぽつと置かれているのが見える。流石に、朔之介さんの父親が蒐集していたというコレクションは残っていないらしい。ここにあるのは、存在を忘れられたガラクタばかりだ。
「誰か、いますか……?」
恐る恐る声を掛ける。けれども、中からは反応はなく、灯り取りの小窓から差し込む光が、宙を彷徨っている埃を照らしているだけだ。青藍さんと視線を交わし、思い切って一歩踏み出す。外は少し汗ばむくらいだというのに、石の床から冷気が立ち上ってきているようで、蔵の中はいやにひんやりしている。
転ばないように、何も見落とさないようにと注意深く足を進める。小さな音すら聞き漏らすまいと耳をそばだてて、恐怖で足がすくみそうになるのを必死に堪えながら。ここで何も見つからなければ、すべてがふりだしに戻るのだ。なにかしら見つけなければ――。なのに、靴が鳴る音と、自分の少しだけ乱れた呼吸音が聞こえてくるばかりで、若干の焦りを感じていた。
「……あ」
けれども、土蔵の奥まで進んだ時。私は、足を止めた。息を止めた。思考を止めた。
何故ならば、するりと何かが私のうなじを撫でたからだ。何かが私の肩に伸し掛かってきたからだ。何かの吐息が耳の傍で聞こえたからだ。それは、恐ろしいほどに冷え切り、恐ろしいほどに乾燥していて、恐ろしいほどに人間味が薄かった。そして――蚊の泣くような小さな声で、ひたすら何かをつぶやき続けていたのだ。
「……どう……なの」
「ひっ!!」
私はそれを両腕で突き飛ばすと、思わずその場で尻もちをつき――濃い闇の向こうに、目を凝らした。
――薄明かりが差し込む、土蔵の闇の中。そこには、乱れた長い髪を持った、ぽっかりと眼窩が空いた枯れ木のような女性がひとり、ブツブツと何かを呟きながら佇んでいた。
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