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エピローグ 夏めく鎌倉、今、進む時2
あれから一週間経った。あの日以来、町を歩くのが怖くなった。都内で働いているはずのあの男が、そうそう鎌倉に現れるはずはないとわかってはいたのだけれど、それでも嫌な記憶を想起させるアイツに会いたくなくて、なるべくカフェから出ないようにと心がけていた。
けれども、買い物をしなくては生活がままならない。いつまでも引きこもっているわけにもいかないのだ。私は、小一時間ほど悩んだ挙句に、仕方なく買い物のために町に出た。鎌倉は決して狭い町ではない。あの男に、たまたま出会うこともなかろうと思ったのだ。なのに。なのになのになのに! ああ……やっぱり、神様は意地悪だ。いつも使っているスーパーの入り口で、奴とばったり出くわしてしまった。
「詩織、探したんだぞ。電話をかけても繋がらないし、SNSでもブロックされてるし……」
はあ、と息を切らした律夫は、そう言うと額に滲んだ汗を拭った。そりゃ、アンタから連絡が来ないようにしてるからね、と内心思いつつ、ド平日にどうしてこの男がいるのかと訝しむ。じわじわと暑い日差しに熱せられた鎌倉で、観光客もちらほらいる中、スーツ姿の律夫はずいぶんと浮いていた。
すると、律夫はなぜか胸を張ってここにいる理由を語った。
「営業のついでにさ、お前を探しにきてたんだよね」
「つまりサボり? 仕事しなさいよ」
「なに言ってんだよ!」
すると、急に大声をはりあげた律夫は、顔を真っ赤にして言った。
「仕事よりも、大事なものってあるだろ!? 忙しい中、わざわざ来てやってるんだ、それくらいわかれよ!」
「はあ? 頼んでませんけど?」
――こいつ!!
チリリ、と脳内の導火線に火が着いた感覚がする。どうして、別れた相手に――それも、自分が浮気して捨てた相手にこんな高圧的な態度が取れるのだろう。正直、人間性を疑う。一時でも、この男との結婚を考えた自分が愚かしい。
律夫と一言話すたびに、好感度が急降下していくのがわかる。しかし、本人はそのことにまったく気がついていないらしい。少し気取った仕草をすると、何を思ったのか夢見る乙女のようなことを言い出した。
「俺さ……あの日、詩織に再会できたこと、運命だと思ってるんだ」
熱っぽい視線を私に向けた律夫は、寂しかっただの、君がいないベッドは冷たいだのと、どこかで聞いたことのあるような言葉を続けた。――正直、恥ずかしくて見ていられない。しかし、彼はどうにも私がドン引きしているのに気がつくつもりはないらしい。私の手を両手で包み込むと、社内でも可愛いと評判だった童顔をキリリと引き締め、決め台詞を放った。
「俺たち、また付き合えないかな。詩織と別れて思い知ったんだ。俺には、君みたいな優しい子が合ってるって」
「ないです」
「即答すぎない!?」
光の速さで断って、容赦なく律夫の手から自分のそれを引っこ抜く。辺りを見回すと、野次馬が集まってきている。中には、カフェに来たこともある客の顔もあって、一気に肝が冷えた。私は、スッと顔から表情を消すと、律夫に冷たい視線を向けた。
「私、浮気するような男、嫌いなので」
そう宣言して、律夫を置いて歩き出す。背後からかけられた「俺、諦めないからな!」という暑苦しい声に、ならなんで追いかけてこないんだ、ばーかと内心で罵る。するとそこに猫又のサブローがやってきて、私に声をかけた。
「大変だったみたいだね。あれ、なに?」
「いらないもの」
「ふうん」
サブローはそういうと、少しだけ足を止めて、ひとり騒いでいる律夫をじっと見つめていた。
「聞いたわ。クソ野郎が現れたらしいじゃない」
「どこでそれを……」
「アタシ、情報通なの。知ってるでしょ」
「……はあ、そうでした」
スーパーで律夫に遭遇した翌日。
いつも通りに出勤すると、険しい表情をした青藍さんに捕まってしまった。あれだけ騒ぎになったのだ。いつかは知られるだろうとは思っていたものの、さすがに早すぎる。すると、カフェの奥から朔之介さんに抱かれたサブローが出てきて、自分が報告したのだと告げた。
「どうしてそんなこと……」
「当たり前だろ? 仲間が困ってるんだ。ここで知らんぷりしたら、みんなに怒られちゃうよ」
すると、今まで黙って話を聞いていた朔之介さんが、ひどく難しそうな顔をして言った。
「どうして黙っていたの? 困ったことがあるなら、相談してくれたらいいのに」
「いえいえ、これは私の個人的なことですし、すでに相手には断りを入れています。これ以上、どうこうすることはないですよ」
私の言葉を聞くと、朔之介さんはますます渋い顔になって言った。
「僕のことだって、とても個人的なことだったと思うんだけどね」
そして私の傍に寄ると、じっと顔を覗き込んできた。
「君のことが心配なんだ。些細なことでも、相談してほしい」
――ちりん。
朔之介さんの髪飾りの鈴が、涼やかな音を立てる。限りなく薄く、時折金色にも見える薄茶色の瞳。それに、なんと言っても王子様のごとく整った顔が急接近してきたので、思わず顔が熱くなった。
「こ、今度からそうします……」
「……そう?」
若干、距離を取りながら答える。けれど、私の返事に納得していないのか、朔之介さんは眉間にしわを寄せて、どこか不満そうだ。
正直、朝から刺激が強すぎる。アラサーの心臓が止まりかねないなんて思っていると、その時、いつも喧しいアイツが上機嫌で店に入ってきた。
「聞いたよ〜! なかなか楽しいことになっているじゃないか!」
「開店前ですので、お帰りください」
「そういう冷たい態度も癖になる!」
現れたのは、如何にもこういう話が好きそうな豆腐小僧だった。彼は、ハイテンションのまま私の傍にやってくると、「君も大概大変だねえ!」と背中を強く叩いた。そのあまりの痛さに抗議をしようと口を開く。けれども、豆腐小僧がなんとも物騒なことを話し始めたので、咄嗟に言葉を飲み込んだ。
「こういうことは、僕たちに任せてくれたまえ。あやかしの沽券にかけて、非常に愉快な状況にしてあげようじゃないか! 」
「愉快……? 何をするつもりなの」
「愉快は愉快さ。――あやかし的な意味でね。はははっ! 楽しみにしてくれたまえ〜!」
そして、踊るような軽い足取りで店を出て行ってしまった。取り残された私は、ちらりと青藍さんと朔之介さんを見る。このふたりなら、豆腐小僧のことを止めてくれるのではないかと期待したのだ。けれど、ふたりとも何か考え込んでいるようで、どうにも止めてくれそうにない。
(……愉快なことってなんだろう。変なことにならなければいいけど)
私は小さくため息をつくと、このことは一旦頭の隅に置いておいて、開店準備を始めた。
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