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はじめてのおつかいと、春色ランチ1
あやかしが視えるようになったあの晩から、三日経った。
オーナーである青藍さんに、カフェの二階に部屋を用意してもらった私は、鎌倉での新しい生活を始めることになった。
そこは、六畳ほどしかない和室だ。部屋には水道やガスは通っておらず、トイレ・お風呂は共用。食事は1階にあるカフェスペースでするという。従業員のための寮というよりも、誰かのお宅の一室を間借りしているような感覚。まあ、食事はまかないを用意してくれるそうだから、別に構わないのだけれど。
私の部屋からは、入り口近くの桜の木がよく見える。ふと窓から外を覗くと、麗らかな春の空を背景に、木の枝を小鳥たちが調子よく飛び回っていた。その枝先には、真っ白ふわふわな何かが止まっている。その名も知らぬあやかしは、一つ目をぎょろりと動かして、小鳥たちを虎視眈々と狙っていた。それがぱっかりと口を開けたところで、嫌な予感がしてそっと目をそらす。すると、上空を気持ちよさそうに烏天狗が滑空しているのを目撃してしまった。
「やっぱり、視えるわよね」
この数日間、繰り返したひとり言。あやかしが視えるなんて、夢であればいいと何度思ったことか。しかし、鎌倉で過ごしている間じゅう、彼ら異形の姿は私の視界のなかに頻繁に現れ、現実を突きつけてくるのだ。
――はぁ。
憂鬱な気持ちをため息ごと吐き出して、ごそごそと仕舞ったばかりのタオルをタンスから取り出す。引っ越しの荷物はだいぶ片付け終わった。ようやく、今日からカフェで働き始められる。そうなれば、仕事の忙しさにかまけて、あやかしが視えることも段々と気にならなくなるだろう――。
私はぐいと顔を上げると、洗面所に向かおうと自室から出た。
「――あ」
すると、ちょうど洗面所から戻ってきたらしい朔之介さんとかちあった。
頭から二本の角を生やし、首から手ぬぐいをかけて、少し乱れた浴衣を着た彼は、私を見るなり足を止めた。拭ききれていない雫が、ぽたりと彼の白い頬を伝って落ちていく。
今時珍しい古風な恰好の朔之介さんを意外に思いながらも、遠慮がちに挨拶をする。すると、彼はみるみるうちに真っ赤になってしまって、数歩後退りした。
――それは、明らかな拒絶反応。
何かやらかしてしまったかと、己の行動を振り返る。挨拶に問題があったとは思えない。ならば身なりだろうと、恰好を確認する。しかし、私が着ているのは、よく見るような部屋着で、別段変わったところはない。けれど、朔之介さんはまるで奇っ怪なものを見てしまったかのように顔を引き攣らせて、じりじりと壁際に沿って逃げようとしているではないか!
「あ、あの……私、何かしたでしょうか?」
勇気を振り絞って、朔之介さんに声を掛ける。すると、彼は素早く首を振って、君が悪いわけじゃないんだと、苦笑を零した。
「どうも女性に慣れていなくて。なんというか……すまない」
朔之介さんはそう言うと、急ぎ足で自室に入っていってしまった。
扉が閉まる音。そして、彼の髪留の鈴の音だけが、古びた廊下に響いていった。
「……嫌われた?」
何もしていないのに、女性だというだけで?
がっくりと肩を落とす。……今日から働くというのに、先行きが不安すぎる。
初めてカフェで会った時、にこやかに対応してくれた彼は、幻だったのだろうか――。
若干めまいを感じて廊下の壁に寄りかかる。すると、足もとに何か柔らかいものが纏わりついてきた。
「気にすることはないよ、詩織姉さん。アレはただ、うぶなだけさ」
それは少しぽっちゃりした三毛猫だった。すりすりと私の足に顔を寄せて、三叉に別れた尻尾をぴんと立てて、ご機嫌で喉を鳴らしている。
「そうかなあ……」
私は三毛猫を抱き上げると、その柔らかい毛並みに顔を埋めた。
この子の名前はサブロー。青藍さんの配下で、三叉に別れた尻尾を持つ、あやかしの猫又だ。そう、このサブローこそが私のボディガード。本人いわく、戦うと結構強いらしいのだが、幸いなことにそれを確認する機会は未だ訪れていない。彼はどこに行くにも私の傍に着いてきてくれ、色々と教えてくれる頼りになる子なのだ。
サブローはザラザラした舌で私の頬を舐めると、しんみりした口調で言った。
「……あやかしには、色々と事情があるもんさ。そのうち知る機会もくるんじゃないかな。まあ、オイラから言えることは、朔の兄さんから見れば、おそらく詩織姉さんの恰好はかなーり破廉恥だってことくらいかな」
「はれんち」
「そう、破廉恥!」
……これが?
もう一度、自分の恰好を見下ろす。パステルカラーのふわふわのパーカーに、同素材のハーフパンツ。この服が破廉恥だなんて言われたら、何を着たらいいかわからない。いや、そろそろ、年相応のものに変えた方がいいのかもしれないな。でも、似合わないと笑うような反応じゃなかったし……。
……って、まさか。
「服じゃなくて、実はアラサーのすっぴんがキツかったんじゃ……?」
「いや、姉さん。違うって」
空恐ろしくなって、考えるのを止める。サブローが何か言っているけど、まったく頭に入ってこない。よろつきながら洗面所に向って歩き出す。
(……明日からは、すっぴんのまま出歩かないように注意しよう)
私は、そう心に固く誓ったのだった。
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